入社4年目、通常は3日、3週間、3ヶ月、3年と言うのが労働災害を起こしやすい時期だとか、H主席がそのように言っていた。 072のパッソルに引き続き開発をしてきた014には「パッソーラ」と言う名称が与えられた。パッソルに「LA」を付けると、イタリア語では”大きな”と言う意味になるらしい。パッソルからグレードアップした車体に見合うべく、エンジンもグレードアップした。懸案だったエンジンの振動、トルク、オートチョーク、2速オートマチック、これだけ新しい技術を組み込んで、全体の目処が付いたのは開発期間9ヶ月後の11月頃になってから。 12月に入ると生産試作車による確認テストが行われたが、ここで営業技術課の手を借りる形で、全国各地に試作車を送り、オートチョークの始動性テストを行ってもらうことになった。もちろん、発表・発売前なので走行禁止と言う条件付き。 その答えが本社の営業技術課のU氏を通して報告されたが、大雑把に言えば「ガソリンが薄い」だった。つまり、始動時のガソリン流量が少ない為に、キック回数が多くなると言う物。ガソリンが薄くて始動しないのは致命的なので、燃料を濃くする対策が必要との判断になった。 Iさんとの打ち合わせで、オートチョーク系統での燃料増加は難しいと言うことなので、メイン系での工夫でしのがなければならない。しかし、それは燃費を左右し、走行フィーリングにも影響する。ここまで来ても何とかしなければ・・・そう思っていた。 ベンチのデータや、過去の燃費データなどを参考にあらゆる組み合わせの中から、可能性のある組み合わせを選び、会社周辺で走行フィーリングを調べるテストを繰り返していた。そして、12月23日だったかな?10時過ぎ頃、2回目の走行テストで事故は起きた。日本楽器(現ヤマハ)磐田工場とNTN磐田製作所の間の道路を西に向かって城之崎を走っていました。目は時折前方を見てメーターに集中していましたが、後ろから道路工事のトラックが来たんですね、左に避けてトラックを見送ったんですが、当時、城之崎周辺は新設道路と拡幅工事が進められていた関係で、トラックの後ろは凄い砂埃。そこで、悪いタイミングに工事で段差の付いたところで不意打ちを食らったようにバイクがふらついてバランスを崩し、右肩から転んでしまった、そのとき”ボグッ”という鈍い音がしました。まあ、フルフェースヘルメットを被っていたので、顔面直撃は避けられた。 バイクを起こそうとしても右手が挙がりません、軽いバイクだったので助かりましたが、左手でバイクを起こし、キックするとエンジンは掛かりましたがハンドルに手をかける力が入りません。そこで、左手で右手を持ち上げてハンドルに”置き”ました。 痛みが徐々に伝わってくるので、横道に入って10分ほど休んでいると脂汗が滲んでくる感じがする。怖々、右肩を少し回しながら、鎖骨の部分に手をやると分かりました『折れとー』と。一本であるはずの鎖骨が二本に分かれて動いている。 このままではいけない、腕が動くうちに会社に戻らなくては・・・、そう思って、左手で僅かに残る力で慎重にスロットルを開き、そのまま診療所へ行って事務所の主任に電話をし、「転んで、骨折したみたいです」と、報告。その後タクシーで見付にある外科病院へ行きレントゲンを撮るとポッキリ竹を切ったように折れていました。『手術になるのかなー?』とか、『こんな時に、しかも50で骨折したなんて恥ずかしいなー』と、時間が経つにつれいろいろ考えます。 そこへ、主任が来て「どうや」、「はい、折れているそうです」、「手術するのか」、「このままギプスするそうです」「そっか、俺事務所に戻るから、また後で来るわ」そう言って帰られた。 私はと言うと、痛みが出て自由が利かなくなっていく右腕を我慢しながら服を脱ぐと、肩の辺りに青あざが出来ている、骨折部分がまっすぐに繋がるようにと、胸を張り肘を水平に上げるように言われるが、これがとてもつらい。痛さは我慢できるが、力が維持できなくて下がりそうになる。包帯を巻いて石膏を塗りつけられたときは痺れるほどの冷たさで、気を利かせてくれた看護婦さんがぬるま湯で石膏を溶いてくれました。約15分ほど掛かったでしょうか巻き終わり、石膏が乾いて行くに従いギプスの重さが肩に掛かってくる。 午前中に治療は終わり、しばらくすると主任が来られて一緒に会社に戻る。会社を出るときとは違った三角巾で右腕を吊っている姿にいろんな人から声を掛けられる、ただただ「はぁ」と、返事する。それ以上の説明は情けなくなるだけ。もちろん周囲も根ほり葉ほりは聞いてこないのが慰めか。 で、お昼になって食堂に行くまでが大変。速く歩けばギプスの重みが響く、速く歩かないと『うどんが食べられない・・』。そう、左手で食事するのだから、定食物は心配だった。中学生の頃、右手首を捻挫した事があって左手で食べるのは経験済み、うどんなどの麺類なら大丈夫だろう。 何とかうどんをゲット、しかし空いている席まで片手でどんぶりを持っていくのはしんどかった。あまり力を入れると肩に力が入って、右鎖骨に響く。うどんを左手で食べていると、隣に同じ課で課長を務めるW課長が座ってきた。「猿も木から落ちるだねー、でも上手に左手で食べてるねー」、そう言って課長も左手で・・・、上手く箸を使えないことに「難しいなー」。 三角巾で吊っているから少しは楽だが、同じ姿勢をとっていると自然と肩に力が入りだるくなっていく。そんな時はゆっくりと深呼吸して、胸を張って緊張を解いた。 その日は案外ひどく痛むことはなかったが、経験者からは「明日になったら痛くなるぞー」と、脅かされ、ちょっと不安。午後の仕事はベンチでの確認作業をする予定だったが、キャブレターという比較的細かい手先の作業が入るし、そこへ利き手の右手が使えないのは食事以上につらく、改めて両手が自由に使えないと不便なんだなーと実感する。 おまけに、ベンチでエンジンを回し、流量測定をしても記録するにも右手が使えないので左手では上手く字を書けない。本来なら、直接記録紙に書き込んでいくのだが、この日ばかりはメモ用紙一杯に”落書き”状態で記録し、それから計算するのが精一杯。 定時になって、主任からお呼び出し。一応仕事中の労働災害なので事故報告書を書かなくてはならない。が、字が書ける状態ではないので、主任が代筆してくれた。その後寮に帰るが、通勤に使っているDT100!に乗って帰れないので、寮までは歩いて帰る。管理人さんから「どうしたのー」と、この日一番、驚きの声を掛けられた。 自分の部屋に入り、着替えをするのに随分と掛かった。夕食を摂ったあとは音楽聞いて時間を過ごすが、夜の8時を過ぎて実家の母に電話をする。骨折の報告もあるが、年末帰省する際の交通手段を大阪からフェリーに乗るようにお願いしていたのだが、自分の車では帰れないので、車両の変更かキャンセルが出来るか聞いてもらうことにした。 翌朝、いつも目が覚める6時半ころ、ギプスの冷たさを感じて”起こされた”。寝返りをうてなかったのか、枕の中央だけが頭の形にへこんでいる。起きあがるにしても、上半身に上手く力が入らないので、ベッドから足を出して腰掛けるようにして起きる。ベッドだから助かったが、これが布団だったらもっと大変だったと思う。起きてからパジャマを脱ぎ、シャツやセーターを着て、作業着を着るまでには40分も掛かってしまった。やれやれ、これが毎日続くのか・・と思うといやになる。 会社へ行ってから、人捜し。実験部には何人か九州出身者がいるが、車で帰る人はと言えばトレールグループのS君が北九州出身だ。帰省の方法を聞くとフェリーが取れなかったので、ずっと車で帰るという。彼の車はハイエースなので私のタウンエースよりフェーリーでは一規格長くなるが、変更が利くなら一緒に帰って良いよという事で、母に電話して変更の手続きをとってもらった。 仕事では周囲に迷惑掛けないようにと、それまで通り一人で作業をするが、困ったのはジェットニードルの変更。段数やテーパーの違いでガソリン流量が変わるので、その変更を行うのは両手であれば簡単なのだが、三角巾で吊った右手が自由に使えないのでえらく苦労して交換していると、通りかかった同じプロジェクトのM君が「して上げようか」と、親切に声を掛けてくれたが、これは私の仕事。 寮に帰って、母からの電話でフェリーの車変更がOKだったとのこと、これで一安心。さて、風呂に入ろうかと言ってもこれまた大変で、タオルを絞れない、体を洗うのは出来ても頭を洗うとギプスが濡れそうなので、その日は洗わずに翌日に磐田駅から北へ伸びる商店街にある行きつけの床屋に行って洗ってもらった。冬場とは言え、久しぶりにさっぱりした。えっ!そこまで何で行ったかって?車です。オートマじゃないんでシフトに苦労はするし、ウインカーは使える左手とは逆方向、タイヤも幅が広かったので少し力がいる、ゆっくり走りながら床屋までの10分あまり長かったなー。 二週間ほど経つところから、肩の辺りに突っ張った感じがしてきた。骨の組織が伸びてくっつきはじめたかなーといった印象。三週間目に入ってレントゲンを撮るとつながり掛けているのが確認できたが、5mmほどずれた骨の隙間をモワモワと組織が伸びているのを見ると直った後が不安な気持ち。 その後の経過を続けて書いておこう。ギプスが取れたのは1ヶ月半後のこと。ギプスを取るときが怖かったねー、グラインダーで切り取るんだ。上半身と右肩まで石膏で固めているため、”脱ぐ”事は出来ない。ベッドの上に寝かせられて、胸とギプスの間に鉄板を入れられたが、これが冷たいのなんの。そこで工事に使うディスクグラインダーで石膏をカットしていくのだから振動が凄い。目の前で切られていくので『失敗しないでよ』と、祈る。 ギプスを取った後は上半身が軽くなったし、毎朝ギプスの冷たさで起きるつらさからも解放されるし、歩行中にギプスが当たる痛さもなくなって楽になる。お医者さんから「私の手を握って下さい」と、言われる。別に変な事じゃなく、握力の検査だが、力を入れることにまだ不安が残るので”やんわり”握ったが、「あと暫くは肩に注意して、次折ると手術になるから用心して下さい」てな事を言われて、無事完治。 とは言っても、暫く使っていなかった右手の完全回復には時間が掛かりました。右腕全体の力が衰えているし、まず手が上がらない。1ヶ月半ぶりに、寮の浴槽にどっぷり浸かると、上半身が新鮮な感触を受ける。10分ほど浴槽で体を温めた後、右腕だけでは上げる力が無いので左手で持ち上げるように右腕を上げると、鎖骨周辺に痛さを感じる。少し痛みを感じるところで暫く止めては下ろし、また持ち上げては下ろす。そうすることで次第に腕が高く上がるようになるが、翌日には少し戻るので、再び痛みが出るところまで持ち上げを繰り返し、徐々に回復していった。二の腕が耳に付くまでには1ヶ月半、右腕の力だけで耳に付くまでは約3ヶ月ほど掛かったように思う。 丁度そんな時期、月一回本館3階313会議室で行われる技術部全体の会議で、部長から販売・製造の計画、プロジェクト進抄報告、業界動向などが報告された後、社内の労働災害が多いことに注意喚起された際「技術部でも昨年末、残念ながら骨折と言う労働災害が起きてしまったが、幸いにも笠君のがんばりで休業災害にはならずに済んだが、休業災害に等しいことで、みんなも気を付けるように」と、報告される。会議後が終わって退室しいると、主任から「誉められてるんだか、怒られてんだか分からんなー」・・・その通り。 当時、技術部での休業災害は出ていなかったが、4サイクルを担当する技術部が、3月だけで3件の休業災害(XS1100を谷田部でテスト中200キロで転倒し骨折を含む)が発生したのを受けての注意だったが、各セクションの部長と役員合同の会議で休業災害が議題に上がり、生産部門から休業災害が出ていないのに、技術部門はたるんでいるとの話が出たそうで、肩身が狭い。 |