誰だい、3機種同時開発なんぞ考えたのは!
リリックが終わればマリック、マリックが終わればキャロット。そんな風に回転寿司状態の開発が続きます。
試作段階毎にある仕様決定は次々にやってくるので、息が抜けないし、その上3機種が微妙に違う構造に頭も切り換えなくてはなりませんから、大変なんです。しかも、デザインがGKでしょー、デザイン優先のところがあるし、〜かと言ってかっこ良いとは思えないが、仕事が巧くいかないとそんなところにケチを付けたくなります。

12月にはいると、開発もいよいよ大詰め、最終仕様を決めなくてはなりません。
パッソーラの時には、生産開始直後までに3回も設計変更したから、今度は一発で決めたい!そう思っていました。

あれは最終仕様決定のために、休日出勤した時だったか、直前から風邪を引いてしまって鼻ズルズル・・・、でも不思議と熱は出さない体質?なので、鼻をかみながらも仕事を続けました。
私はベンチでキャブレターの数確〜同一加工試作品の中からデータ的に良い物を選んでばらつきを確認し、マスターを決めるテストを行ったわけですが、実走行で確認するには時間がないので、そのテストにはM君やI君はじめ数人が、寒い冬空のもと天竜川周辺での走行テストをしてくれました。
かなりの数のキャブレターを組み替えてはフィーリングや燃費を計測したんじゃなかったかなー。夕方5時頃になって最後のキャブレターを測り終えたが、そのキャブレターをテスト車両に組み替えても走る人が居ない。時間も遅いことなので私が走りに出た。

しばらく寒空の中を走ると周辺は真っ暗です。走行時間の半分位を終えた頃に主任が運転するトラックが来て、同乗していた誰だったっけ?M君だったかなー、に「交代しよう」と言われた。主任も「寒かったやろ」と、風邪を引いている私にねぎらいの言葉、さらに「今、笠くんに休まれちゃ困るからなー」とまで言われた。その帰りのトラックの中はヒーターが効いて、主任の気持ちと一緒に暖かだった。

この頃になると、少しは仕事を任せてもらえるようになったかな?と、思い始めていました、入社して5年目になっていましたからね。パッソルの開発以降慌ただしく仕事をしてきましたが、振り返ってみると2サイクルエンジンに関し、相当なノウハウを持っているだけに、短期間の開発でも大きな冒険をしなければ何とかなる物だなと。基本設計プラス、実験の頑張りがあれば何とかなる物だと感心することしきり。でも、3機種同時はやめてくれー。

年が変わり、私が担当したキャブレターも最終仕様が決定して、仕事が無くなりました。そんなときは自分で仕事を探さねばなりません。設計は生産ラインに移行する3機種のフォローと、次期開発モデルの検討を営業企画と一緒に始めています。
エンジンのチーフ、Iさんは3機種のエンジンに関するレポートをまとめる仕事に入っています。そのレポートに添える資料作成に性能データを付け加える場合、私たち現場要員に仕事が入る時があります。開発経緯も「あの時はどうやったかいな?」的会話もあります。
もちろん、最終の生産仕様が決まったからと言ってそれで良いわけではありません。その後も改善する余地はないかと工夫をする仕事も、こうした時期に行っていました。

その中の一つで、どうしてもマリックのスロー系の調整が敏感なことを直せませんでした。それは、ある一定の常識を越える考えを踏み越えられなかった事が原因だったかなーと思っています。それは、スロー系統の出口、スローポート径を大きくしたとき異変が起きたからです。

それまで、スローポート径は0.4〜0.5mmの間で調整し、パイロットジェットの番手を変えて、始動・アイドリングから1/4開度までの流量を決めていました。仕様決定は終わっているので手持ちのキャブレターは使えなくなっても構わないので、0.5mm以下の”常識的”なスローポートの大きさではなく0.6mmで開けたんですね、するとアラ不思議!エアスクリューの開度変化に対して、流量変化が少ないではありませんか。つまり、鈍感に変わったのです。

スローポートの径を大きくすると、ガソリンの出方が容易くなるので、それを抑える為にパイロットジェットを小さくする必要が生じますが、小さくするとオートチョークのセッティングが難しくなります。
パイロットジェットも生産時のばらつきが大きくならないように一定以上のパイロットジェットを使うように”目安”が設けられていて、どうしても、目安より小さい物を使うときは、始めに熊さん(ミクニ)の許可が無くては駄目です。

そんな事があるんで、無駄なトライをしていなかったわけです。
試験の第一目的は忘れたが、とにかくスローポートを大きくしていくとどうなるか?をテストしたことに間違いはない。その結果が”鈍感”になったという事。

グラフを見たIさんは「ホンマかよー」、計り直しても同じなことに渋い顔。生産仕様が決まってしまった後だけに、設変(設計変更)費用を考えると変えるにもいかず、悔しがるしかない。
※ジェット類の穴開け加工の中で、ガソリンが流れる部分は”ブローチ加工”という、特殊な切削加工道具を使います。下穴を開けた後、鋸切りを円筒状にしたような形の切削工具で規定の大きさの穴をあけます。ドリルで加工するよりも高い精度で穴を開けることができるそうです。

3月は毎年、全日本モトクロス選手権の第一戦が茨城県筑波の、RDのテストで何回も行った谷田部高速試験場で行われます。
周回コース(陸上の400mトラックを大きくした物と思って下さい)の内側にモトクロスコースがあり、土質は泥濘土、田んぼにすると良いような黒土です。乾いていると良いですが、雨が降ってぬかるんだり、溝が掘れてくるとスリップしやすい厄介な土質。

開発物語の33話でもお話ししたように、同じ部署ではYZを開発し、4サイクルの開発部でもオフロードモデルを開発しています。全日本にはYZの担当チームも仕事で参加していますから、谷田部は第一戦と言うことで、応援バスツアーが2スト、4スト実験部合同で組まれ、希望者がバスに乗って行きます。

この頃だったかなー、資料を見ていないので後で書き直すかもしれませんが・・・・。
第一戦に実験部から国際A級クラスで参加したのは河内賢三、吉原朋正(オフの雑誌で活躍している)、B級開発ライダーも出場します。その吉原君の本番用マシンのシートが、タンクの上まで伸びている。
このシート形状は吉原君本人が工夫して作った物だったのだが。これを見た研究課(ワークスマシンを担当している部署)課長が血相を変えて3課のテントにやってきた。

内容は、ワークスマシンに採用されていないシート形状を3課のYZが付けていることと、そのシート形状からライディングポジションの幅が広がる有用性があって、特許や実用新案にもなる”技術”、それを申請していないうちに実戦投入してきたことに抗議をしてきた。
つまり、「他のメーカーも自由に使えちゃ困るだろ」と言う、ごもっともな意見。きっかけはワークスが考えなかった形状にカチンときた・・と言うのが本音かも。

その為、練習途中からシートとタンクの間にはガムテープでカムフラージュされた、ちょと格好悪いマシンになりました。
市販YZのキックはそれほど難しくはありませんが、テスト車のキックは重い。河内君のピットに行くと慌ただしく準備をしているが、吉原君のマシンの影響で周りに手伝っている人が居ない。マシンの準備でエンジンを掛けてあげようとしたら「笠さん、キック重いから注意してねー」という、「分かった」と言ってエンジン掛けるとホントに重くて、一回目のキックは途中で止まってあわやケッチン※食らうところだった、やっぱり国際A級が乗るマシンは違うぞー。

※ケッチン
 キックすると、クランクが回りピストンが上昇することで圧縮を始めますが、キック力が弱いと圧縮に跳ね返されてキックペダルが”ガツン”と、戻される現象を言います。ケッチンを食らった人の中にはアキレス腱を切ったりする人も居るほど。昔のRT−1(360CCのオフロードモデル)はケッチンが起こりやすくて有名だった・・・らしい。

さて、この開発物語を見たある人から電話をもらった、吉原君本人からだった。
何でも娘さんがネットサーフィンしていてこのサイトを読んでいたらお父さんの名前が出てくると言うことで、吉原君に教えたそうです。当時のシート形状の話をご本人から詳しく聞いたので紹介します。

バイクでモトクロスを経験した事がある人は股間を強打する経験もお持ちだろう。脂汗かいてうずくまるほどに痛いものだ。YZも当時すでに樹脂製タンクに変わっていて鉄製よりはソフトとはいえやはり強打すれば一溜まりもないのは事実。でYZのテスト中男の大事な部分をガソリンタンクで強打し玉が「三つになっちゃったよ」。それほど強くぶつけてしまったそうです。
それでシートをタンク上部まで伸ばす形状を思いつき実際に作ったのが谷田部でのデビューになったとのこと。
今や世界中のオフロードモデル標準の形状なので、ヤマハは相当な利益を?得ているとは思うが、考案者である吉原君への報奨金は大変安く、ちょうど電話もらった時期が青色LEDの報奨金問題の最中だったので「羨ましい」と言い、Vサインの金額だったとか。
因みに本人の名誉のために付け加えますが、その後も文中にもあるようにちゃんと”機能”しているそうです。