朝礼の後Sさんに呼ばれた。「営業技術の話なんだけど、北海道勤務の条件ならOKと言うことなんだけど、どうする?」と聞かれた。「えっ、北海道ですか、希望と反対方向じゃないですか」。
話し合うべくもなく、「断ってもらって良いですか」。転勤希望先はもちろん地元九州で、それは独立へ向けた足がかりを作るのも一つの目的だったので、今回は縁が無かったと言うこと、そう伝えると、佐野さんもなんだか『やっぱり』一安心の表情。

そうなると、しばらくはまだこの仕事を続けるんだと言い聞かせ、『さぁ仕事!』
時は4月、この頃はベンチでのセッティングと排気ガスシャーシーでの測定、実走行でのフィーリング確認を交互に繰り返し、完成度を高めていった時期。

自分たちの中では、開発初期のフィーリングの悪さを知っているだけに、「結構良い物になって来たじゃないか」と思っていた。ではと、Nさんが4サイクルを担当している実験部の走行試験グループのリーダー、Fさんに試乗を依頼した。
4月と言えば新商品の立ち上がり時期で、忙しい中にも時間を作ってもらい、2時間ほど乗って頂いた。

結果を聞くと「−(少人数で専門メーカー製ではない割に)良いところまで出来ているんだけど、未だちょっとスムーズさが無いね、でも、思ったより良かったし時間と人数から点数付ければ70点かな」、下駄が少し高かったか。
まだまだ荒削りな部分が多く、乗車フィーリングはスムーズとは言えないが、かろうじて及第点を頂いた。

北海道勤務という条件付き営業技術課への異動を断り、新たな気持ちで実験部に残ることを決めてから一週間後、Sさんから再び呼ばれた。ニヤッと笑って「九州支店勤務で話がきたけど、どうする」、『これなら文句ないだろ』と言う表情に「はい」と返事してしまった。
Sさんに確認したわけではないが、北海道行きが一転し九州、それも自宅通勤可能な九州支店に変わったのには営業技術課の課長と交渉してくれたのではないかと思う。キャブグループ内に引き留める事より、私の希望を最大限引き受けてくれたのではないだろうか。

キャブレターの基礎実験モデルは、”たたき台”としての一応の役目は果たしたと思う。もう一つ上のレベルに引き上げるには、構造上の見直しを含めた大幅な設計変更をしなければならないだろうが、その予定は・・・無かったみたいです。

というのも、私とS君はまとめの仕事、Nさんたちは次の仕事の準備に取りかかっていて、その一つとしてクリスタルガラスを使ったRD400のシリンダヘッドを作っていました。
シリンダ内でどのように燃焼しているのかを目視で確認するために作ったものですが、一度の試験で7秒、エンジン回転2000回転以下という条件付き、ほとんどエンジンかけて終わりということですが、燃焼している様子を直に見られるというのは他に方法がないわけで、実際に見てもそれは”感動”ものです。

アクション映画でよくあるオレンジ色の炎とともに爆発が起こるシーンを見かけるが、実際の燃焼室では点火した後、青白い炎とオレンジ色の炎とが混在し、幾層にも重なりグルグル回っているように見えた、きれいだった。〜プロジェクトX風

時期は前後するが、4サイクル担当のベンチが隣だった。そこではXV1000系統のエンジン開発を行っていて、ある時歓声が上がった。『何かな?』と思ってふと見ると、なにやらボードを持って記念写真を撮っている。そのボードには「100時間達成」と書いてあった。
つまり、最高出力〜最大トルク回転数で連続運転させ、無事に目標とする100時間を達成することができたというのだ。

100時間耐久試験は必ずクリアしなくてはならないということではないが、担当者としてはクリアしたい目標であることに代わりはない。
わずか100時間と受け取れそうですが、最高時速200キロとすれば、2万キロを一気に走りきってしまう距離で、エンジンに対する負荷が一番高い運転条件なので、簡単ではないんです。
リッター100馬力前後のエンジンでそれをこなすというのは案外難しいらしく、実際のエンジンモデルは言えないが、最長もったのが20時間にも満たないばかりか、中には一桁の時間で潰れてしまう事さえあるエンジンがある。しかし、不思議な物で、そんなエンジンでさえ、実際に走行すると何のトラブルもなく、むしろ長持ちするエンジンの代表格なので、ベンチテストで100時間もたないからと言って、それがすべてではないと言うのも面白い。

他の4サイクルモデルといえば、水冷Vツインエンジンモデルの開発も、テスト車両ができあがり、走り始めていた。後のXZ550/400なんですが、グロテスクなデザインに、フィンの無いエンジンは異様な風貌でしたが、その試作車の話題はエンジン形式よりもトレーリングアクスルという、フロントの車軸が通常とは逆の、フォークの後ろ側に位置するという変わった設計についての話。

Vツインでエンジン全長が伸びたので、ホイールベースを詰めるために・・・というのが理由と聞いたが、いろいろな考えを皆さんお持ちです。
※発売されるのを待ってXZ550のユーザーになりました。全体的に良い出来なんですが、中途半端なコーナリングではハンドリングが落ち着かない。『これって、やっぱりトレーリングアクスルのせい?』と、思いつつ乗ったものです。
とにかく、XJ400の人気が高く、時代は2サイクルから4サイクルが主流となりつつあった時期で、4サイクルを担当する4課は活気があった。

実験部では、昨年末にすったもんだしたRZ250/350が生産を立ち上がり、爆発的な人気を呼んでいるニュースが耳に入ってくる。RD400が発売6ヶ月で登録ベース502台!だったことからすれば、バックオーダーを抱えるほどの売れ行きになったのには驚きを隠せない。
小排気量では、ベルーガとパセッタが生産立ち上がり、サリアンの試作が始まっていました。私の心の中では『ちくしょー』って感じです。なんで異動を決めた後にスクーターを作るんでしょう。
というのも、キャブグループへの異動は希望でもあったのですが、キャロット・マリック・リリック、それに続くポエットと、すっかりスクーター開発を忘れている状況に、作りたいモデルを担当できない事を残念に思っていた。
それが、キャブグループへ異動するとベルーガやパセッタを作り、さらには営業技術課への異動を決めた途端サリアンの開発・・・、ちょっとタイミングが悪い。自分としてはまだまだスクーターの開発をやってみたい気持ちは残っていました。

一時休んでいたスクーターを作るようになった理由は他でもない、ホンダやスズキが対抗馬のスクーターを出してきたからだ。何せ、ヤマハというのは営業が強い会社で、営業が「欲しい」と言えば、即開発に入るのですが、要らないと判断したら・・ユーザーの声など聞こえないのか?と、思うこともしばしば。
また、当時ヤマハではパッソル・パッソーラのことをスクーターではなくステップスルーの”ソフトバイク”と呼んでいました。理由は、女性ユーザーを引きつけるためには、ネーミング上でも取り付きやすい”ソフト”を入れたようです。
77年のパッソル以降、各社対抗馬を出してきましたが、本格的なスクータータイプとしては80年にホンダが”タクト”を発売するまで3年の時間がかかった。このときにホンダは初めっから”スクーター”として発売してきた。
まあ、これに対抗するには新たにパッソーラ以降のスクーターを作る必要が出てきたと言うことなんですが、ここで販売車種ジャンルの区分けでヤマハとホンダが販売ジャンルでの”見解の相違”をやり合っていた。

ヤマハはスクーターの事を”ソフトバイク”と言っているじゃないか、「うちは”スクーター”としてタクトを出して、TOPシェアだ」と言ったのはホンダ。ではと、本格派スクーターとしてベルーガ、カジュアルっぽいスクーターとしてパセッタを発売することになったようです。我々技術の者には、自分たちが作ったのが沢山売れていれば関係ないのですが、営業はそこに拘りがあるみたいです。

実験部で最後の勤務の日、朝礼で挨拶すると初めて知る人ばかりなので、幾人からは声を掛けられた。キャブグループには補充が無いと言うことで、Nさんの仕事が増えそうです。
朝礼の後、Sさんと一緒に営業技術課の事務所へいきA課長に挨拶。仕事の関係で何人かは知っている人がいるので「あれっ」と、言う人に「今日からお世話になります」。一応、営業技術課の社員として実技の研修を受ける事に。

研修を受ける場所は、入社試験時に泊まったことのあるグリーンハイツという研修施設。ここでは、新入の営業技術課社員の研修はもちろん、新商品発売時の研修も行われる他、全国のヤマハ車販売店サービス担当の人たちに技術研修を行ったりしています。
で、研修に入るとき「グリーンハイツに宿泊してくれ」と言われましたが、「あぁ、笠君は寮生だったなー、じゃあ良いや」と言うことで、寮から一週間通勤。
ただ、研修を受けたとは言っても・・・途中から販売店研修の補助に回されて、どっちが研修を受けているのやら。

程なくして日月の連休を利用し、身の回りの荷物を車に積んで一旦福岡の自宅に帰省した。転勤後直ぐに九州支店に出勤しなくてはならないので、その荷物だけはと思った。
同時に、寮の部屋の片づけに毎日忙しい。よくもまあこんなに沢山の荷物が部屋に入っていたものだと感心する事しきり。
厚手のコンパネで作ったオーディオの棚はSさんへプレゼントし、ガレージでの棚に使ってもらう。オーディオ関係の、特にスピーカーなどはオーディオマルキンのご厚意で預かって居てくれたので大助かり。それにしてもJBL4343WXが入っていた専用の段ボール箱は糸入りの二重構造で、それだけでも相当に重い。ついでに金原社長からクロスのボールペンを餞別に頂き、お店を通して知り合いになった市川さんからはスペースシャトルのプラモを頂いて感激。金原社長曰く「オピニオンリーダーが一人減っちゃった」と。確かに、私の影響を受けて衝動買いした友人は多かったなー。

挨拶回りも済み、いよいよ本社を離れることになりました。
入社試験を受けてから足かけ8年、磐田に住んで7年あまりの短い期間でしたが、たくさんの商品開発を行い、自分としては満足すべき仕事ができたと思っているつもりです。
その7年の間に磐田市も人口が増え、大型商業施設、ホールも出来、住みやすくなっていました。
初めて行った時には駅前の商店街でさえ午後7時過ぎには店という店のほとんどが閉店時刻でとても暗かった。それが、7年もたつとあちらこちらで店の明かりが点いていて、旧道1号線沿いにある書店は10時くらいまで開けていましたね。この書店の近くに日本最古の木造小学校”見附学校”があります。
住みやすくなってきたと感じ始めた頃になって離れるというのも残念ですが、実家から通える九州支店勤務と言うことで、気持ちを切り替えましょう。

5月の連休明けに九州支店に出勤することになっていたが、その前日の日曜日は鈴鹿で全日本MXが行われていたので、観戦して行くことにした。出来ればレース全部を観て帰り、実家でゆっくり休んだ(本社は月曜休みだし・・・)翌日の火曜日に支店へ出社しようと思い、事前に九州支店営業技術課のN主任にお伺いを立てると「月曜日は支店のメンバーが揃っているので、そこで挨拶してもらった方がいいけど」と言われた、『そっかー、本社以外は土日が休みだったんだ』、「はい、分かりました」。
実験部のメンバーはもちろん仕事の一貫でエントリーしているし、モトクロスクラブの部員も出るので、その応援も兼ねて観に行くようにしていたが、結局、午前中のレースを観ただけで福岡の自宅まで帰ることにした。
レースの様子はビデオに撮っていたので、ワークスのピットに戻っていた藤くん(秀信)に「観る?」と聞くと、「観たい」と言うので、後日支店に送ってもらう事で渡し、帰路につく。

深夜になって実家にたどり着き、即睡眠。その睡眠もろくに取れないうちに朝7時に起床、スーツを着て支店まで25分掛けてパッソーラで初出勤。直ぐに営業技術課のN主任に着任の挨拶をし、朝礼でも支店全員の前で挨拶する。

営業技術課のメンバーはN主任とTさんと、新任の私で3人。本社と営業所のパイプ役で、九州全体のサービス活動をまとめるのが主な仕事。当時九州管内には17の営業所があり、上がってくる情報を整理して本社に報告したり、本社から送られてくる技術情報を営業所に送る。
また、新商品が出る前には本社に出向いて研修を受け、その情報は筑後にあるセンターに於いて営業技術のスタッフを集めて研修を行う仕事もあるし、沖縄県には沖縄ヤマハというデーラーがあって、沖縄で発生したクレームで交換された部品が2ヶ月に一度くらい送られてくるので、その処理も行います。

なので、一日のほとんどが、机を前に座った仕事なんですが、初出社当日は仕事という仕事はないままだった。仕事の勝手が分からないから無理もないことですが・・・。
それでも、少しずつTさんに仕事を教えてもらいながら3ヶ月ほどたった頃でしょうか、ふと自分の手を見ると”綺麗”。指紋に入り込んだ取れない汚れ、機械を扱ったときに出来る小さな切り傷など、いわゆる”仕事をしている”(ように見える?)手だったのが、いかにも事務所仕事人の手になっていた。

肝心の給料はと言うと、課を超えた異動後とは言え昇給は有り、ボーナスも本社にいたときよりも多くなっている。本社で走り回って仕事して居たときの給料やボーナスよりも、まだ仕事上の戦力になっていないのに「こんなにもらって良いのだろうか?」と、思ってちょっと複雑。

九州支店に着任して直ぐに対策が待っていました。
本格派スクーター”ベルーガ”の始動不良。本社にいるときから問題を抱えていることは認識していましたが、それは生産に移行しても尾を引いていて、デリケートな水平エンジンは、シリンダの向き同様に始動まで”おねんね”していた。
その最大の原因は吸入負圧不足による物で、あの”リリック”よりも低い値を聞いて驚いたものです。そうなるとキャブレターのセッティングも微妙な上に、個体差や、ユーザーの使い方、オートチョーク等が原因として複雑に絡み合い、「昨日は良かったけど今日は駄目」と言うことが非常に多くて、佐賀に応援に行ったときにはお客様の自宅まで担当者と同行することさえありました。

現場に出て初めて「開発の重要性」を改めて再認識。
そう言えば、014=パッソーラの開発〜生産時に始動不良や燃費問題で情報が錯綜し、キャブレターの仕様が二転三転した時の事を思い出していた。
開発の仕事をしていた時、有益な情報は朝礼の場や担当者の間で情報交換し、問題を共有する場もあるし、生産立ち上がり(生産移行)後に問題があったら、正確な市場の情報が欲しいしところ。反対に営業技術からすると完成度の高い商品はもちろん、問題があったにしても的確な対応策の情報が欲しいところ。だから、その解決には職域をまたがった意見交換、情報の伝達は重要と思っていた。

しかし、ベルーガの始動問題では本社とのやりとりのちょっとした事で上司からしかられてしまうこともあり、ここでは情報伝達に注意が必要のようで、本社と同じ(少なくとも技術部の)考え方は通用しないようで、Tさんから「ここのやり方があるからね」と言われた。

仕事のやり方に違いがあるにせよ、一度現場を経験した人が再度技術部に戻れば、それは良い商品作りに生かせるのではないか何てね、考えながら仕事をする時もありました。技術部と営業技術との交流には限度があり、市場に出された商品の、生の様子などはなかなか伝わってきませんからねー。

その後、長崎大水害対応に駆け回ったり、鹿児島の川内営業所にも転勤し、サービス業務を行ったこともあります。その話は機会がありましたらお話ししたいと思います。