父と暮らせば、長崎訪問

04/11/07
父と暮らせば

妻から「今日は映画の日」と言われて、石橋文化センターの隣のホールに行った。 どんな映画なのかも知らず、とにかく一緒に行った。 映画のタイトルは、「父と暮らせば」だった。 宮沢りえが、父と暮らしてなにか良いことがあったのかなあというような感じで、映画が始まるのを待った。

映画は、いきなり雷のシーンから始まった。雷が怖いと、自宅に駆け戻るシーンだ。 自宅では父親が待機して、押入の中にりえを誘った。 最初に父親がどうしてここに表れたかの説明があった。木下青年への恋い心で父が現れたという。そして、どうして雷が怖くなったかの回顧で「原爆の光」の説明に至り、この映画を見る者に、終戦の暑い夏の事件を思い出させた。

私も、父の弟が長崎の原爆で死んでいる。その年の春長崎大学医学部に合格し、長崎に行ったばかりの夏の原爆だった。原爆と聞いて、子供を捜しに父親は直ちに出かけて行ったが、全く何も見つからなかったと言い、戻ったそうだ。原爆に関するいろいろな報道などを考慮すれば、長崎の原爆の炸裂場所付近に長崎大学の医学部があった。まさに爆心地だった。それなら、死体も何も見つからなかった訳だ。私も子供たちと、この夏、その爆心地を訪れた。そこは、街の喧噪が聞こえない異様な真空の広場だった。もう60年近く、ただただ、そこにたたずんでいただけのような一角だった。

映画の中で、原爆資料が出てくる。石が原爆の熱を受けて泡だって溶け出したものが、その姿で固まったもの。ガラスが溶けてぐにゃりと絡んだもの。人間の姿が家の戸板に焼き付いたものなど、原爆の熱のすざましさを表していた。これでは、人間の肉体もどうにもならなかっただろう。自分の身体の半分の皮膚が焼けこげて、ずり落ちたとしたら、その痛さはいったいどれだけのものだろう?そう考えただけで、恐ろしさが心にしみ込んでくる。この映画の中で、もう1つ非常に驚いたのが、鋭いガラスのかけらだった。爆風で家々のガラスが砕けて、周辺に居た人間を襲ったのだ。鋭利なガラスのかけらが人々の身体に激しく突き刺さる。そう思っただけで、涙がこぼれてきた。

映画の後半で、りえが父親を置いて逃げてしまったことを悔やむシーンがある。父親もそれに応じて、その時を思い出す。父親はピカドンの光を身にまともに受け、さらに爆風に押し倒された柱に組み敷かれた所に、火が迫ってくる。父を助けようと、娘が懸命に火を払って力の限りを出すが、娘の身体までも火が襲う。見かねた父親が、「もう行け!」と命令する。この情景を、映像なしの言葉だけでリアルに見る者に刻印する。すざましい言葉だった。親子の愛情ゆえの別れだ。作られた映画ではあっても、涙が止まらない。

この映画は、愛をテーマにしているとは言え、実は原爆への激しい憤りと告発である。これが感じられなかったら、不感症だろう。映画のパンフレットに「東京都知事推奨」とあるのは、軍事力強化を唱える現在の都知事のありようからして、皮肉だ。

映画の最後のポイントは、美津江役のりえが、「生きていることが申し訳ない」という気持ちを生きる希望に変えるための父親の説得だった。恋を受け入れる気持ちにさせることに、父親役の原田芳雄は奮闘する。NHKの原爆に関する番組でも、被爆者の多くが自殺に追いやられていた。たとえ生きていても、生きるべきでないのに死ねずに生きているだけという。そういうインタビューが複数あったことを思い出しながら、映画を見ながら同感した。原爆が炸裂した場所で生きながらえただけでも、死ぬ以上の地獄を見たのに、生きながらも生ききれず死を待ち望むということは、どれほど辛いだろうか。あの悲惨の中、生き残った被爆者は、生きながらの差別にも苦しむ。自分が被爆者であることを周囲に悟られない生き方が、被爆者なのだ(「夢千代日記」の吉永小百合は、そういう生き方だった)。そうした事情を告発していた。人は、他人の気持ちが分かることが、人としての存在である。私は、この地上に人として生まれたことに感謝したい。映画の会場は静かな涙の中だった。

私は、原爆の映画を見ながら、第2次世界大戦中の中国戦線での日本軍の蛮行を思い出していた。皆殺しを意味する三光作戦、南京虐殺(どのくらいの蛮行だったかには諸説あるが、父の中国戦線では「肝試し」として軍刀での首切りが行われていたという証言がある。日本軍が地元の人々に歓迎された?などのことの方が作り話ではないか。万が一あったとしても、これ以上の蛮行から逃れるための接待ではなかったか)、、、さまざまな蛮行が行われた。今も、毒ガスが大量に東北部の土の中から発見されている。原爆も含めて、相手からやられたことはこうして伝えられるが、相手を傷つけたことには鈍感になる。中国の指導部が日本の指導部に常に言う言葉に、「歴史をふまえて」がある。日本の軍人の多くは、周恩来首相に多大な恩義があるだろう。ソ連ではシベリア抑留と洗脳があったが、中国ではそれがなかった。それどころか、中国国民が飢えで苦しんでいるのに、収容所の軍人たちは白米を毎日食べることを許されており、リンチを受けずに全員が無事に帰国できたことを感謝しなければならない。多くが死亡したシベリア抑留との大きな違いだ。互いの民族の相互理解が必要なのだ。 日本の為政者は、この重要な点を忘れているか、想像力の欠如か、不感症かだろう。それはアメリカでも同様だ。肌の色が黄色い人種だから原爆の実験材料として扱ったのだ(黄禍論)。

久しぶり、良い映画を見た。


この夏、爆心地と平和公園、原爆資料館を訪れた(原爆資料館は新しくなっていたようだが、たぶん40年以上ぶりだった)。平和公園では、外国人と分かる一団が集まっていた。学習会だろうか?原爆について、学ぶことは、だれであれ良いことだ。また原爆資料館でも、熱心に資料や説明に見入る(英米系らしい)外国人もあって、アメリカ国内では決して見ることができない説明も読んでいた。人類に備わった共通の感覚を差別なく働かせるだけで、この地上は平和になれる。


平和公園で

平和公園で

原爆の名残がある浦上天主堂前の石像