被爆者へ圧力をかけるのは誰?

2006年8月10日の朝日新聞によれば『「靖国、憲法は話さないで」と被爆者に相次ぎ自粛要請』と報じている。 被爆者が被爆体験を語るとき、その内容に靖国や憲法について言及することを許さないというのである。 私は、おかしなことだと思った。

被爆者の体験というのは、原爆を受け、「熱かった、痛かった」「皮膚が剥け、タダレてずり落ちた」 「のどが渇いた」「下痢をした」だから、「大変だった」というお話で終了ではない。 被爆者の体験とは、被爆の痛みがその後の61年間も続いている体験なのだ。 被爆の一瞬の体験だけではないのだ。体の痛み以上に、被爆者であるがゆえの差別・偏見、そして癌発病の不安、 子供への遺伝の不安、被爆の事実を隠している不安、、、そして生活苦の体験でもある。 心明るく振る舞える被爆者もあれば、自責の念(自分の落ち度ではないのに)にかられる人々もある。 「誰が私を被爆者にしたの?」あるいは「なぜ、私は被爆したの?」という素朴な疑問を自分に問わなかった 被爆者があるだろうか?これまで60年以上もの間、自分自身と社会あるいは世界との関係を感じ続けてきたことだろう。

被爆は個人の落ち度では決してない。それより国家の戦争行為の結果ではないか。 そうした視点に立てば、靖国と憲法について、ひとり一人の思いがあるだろう。 その思いを被爆者に言わせないのは、なぜなのだろう? 日本国民であれば誰であれ、思想信条と表現の自由を憲法が保証しているのだが、 それを制限しようとする圧力をかけるのは誰なのか?

最近、靖国を巡って昭和天皇の心が明らかになった。 A級戦犯を合祀して以来天皇は靖国に行っていない、それが「私の心だ」というのであった。 天皇は国民ではないから、憲法が適用されないらしいが、それでも一人としての思いがある訳で、 それが明らかになったのが今年のニュースであった。