国家と市民(オウム事件の松本被告の死刑判決が出たものの)

オウム事件

2006年9月15日、最高裁は、特別抗告を棄却し、松本被告の死刑判決が確定した。 オウム事件の中でも、東京の地下鉄サリン事件が最も大きな被害をもたらしており、 12名の死者のほか、サリンの後遺障害に悩まされている被害者が多数存在している。

国家へのテロ

9月16日の朝日新聞の社説では、『サリンを使った犯行は、国家転覆を狙った無差別テロだったのだ。 たまたま犯行現場に居合わせたというだけで、何のかかわりのない市民が犠牲になった。 誰もが犠牲者になる可能性があったことを改めて思い起こしたい。』とある。

テロの対象

イラクでもアメリカやイギリスでも、テロの被害者は普通の市民である。 さらに言えば、2回のイラク戦でアメリカの空爆にさらされたのは、軍ばかりでなくイラク市民であった。 最近では、イスラエルのクラスター爆弾にさらされたのもレバノン一般市民であったこともこの夏のニュース報道であった。

国家を狙うのに、市民が犠牲になるのは、なぜか? それは、国家が肉体を持たないからだ。 もちろん、頭となる代表者はある。大統領や首相と言われている方々である。 本来、国家テロの対象となるのは、これらの人々なのであるが、これらの人々は守られてきわめて攻撃しにくい。 だから、なにも守られていない一般市民がテロの攻撃目標の代わりにさせられてしまっている。

市民は国家の盾なのか

なのに、国は被害者の救済に全く無関心のように見える。どうしてだろうか? あたかも「個人間の私的な争いには、国家は立ち入らない」とでも言いたげなのだろうか? 軍人が戦死すれば国家から十分な名誉と保障が与えられるが、なぜ一般市民だとゴミのように捨てられるのだろうか?

市民を守ってくれる国家が欲しい

私は、国家のあり方を、もう一度、考え直した方が良いと考えている。 市民を犠牲にして、そしらぬ顔をする国家など、要らないのではないか。 国家が市民を支配するのではなくて、市民が国家を選択できるようにすることはできないのか? 国民に犠牲を要求するイギリスのチャーチル首相やアメリカのケネディ大統領ではなく、 犠牲を強いることなく国民を幸せにしてくれる普通の国が欲しいと思う。 「安心して暮らしたい」というごく普通の人々の願いを叶えてくれる国が欲しい。

こういう国が実現するなら、それは「美しい」国であろう。 国家の政策が国民の心と生活を支えてくれるから、人々が希望を持って、勇気を持って生きていける。 だから美しくなる。そうありたい。