映画「裁かれた壁」を見直して

「裁かれた壁」は、1991年米国で制作された映画で、エミー賞受賞。1950年代のアメリカの公民権運動を扱った映画です。何回かすでに見ている映画ですが、見終わってからも良い気分が残る映画です。

公民権運動の訴訟の始まり

1950年、サウス・カロライナ州クラレントン郡の学校のある少年に起こったできごと。 黒人は白人と区別され、白人の学校にはスクールバスがあるのに黒人にはなく、そのため黒人のある少年が片道8kmの距離を毎日歩いて学校に通い、自宅に帰りついても疲れて果てて勉強どころでなく成績が悪いままである。これは、「隔離するが平等に」という隔離教育法が憲法に違反しているからだとして、黒人達が訴えたものである。

争点

保守的主張

争点となった点は、各州は自分たちで法律を定める地方自治が原則であり、最高裁判所にとやかく言われる筋合いはないし、これまで南部諸州の隔離教育法は合憲とされてきているという主張。

黒人の主張

これに対して隔離教育によって黒人を差別することは、差別によって癒しがたい心の傷を子供達に与えた上に、法の下で「すべての国民は平等」という憲法が自分たちには真実ではないという精神的混乱を与え、黒人の人権を侵している。従って、裁判所はアメリカ合衆国憲法修正14条の精神に従って隔離教育法を違憲と判断すべきであるとの主張。

裁判所の困惑

この2つの主張を最高裁判所がどう判断するか、その経過を巡る物語である。特に南部諸州は黒人への強い人種偏見が長く定着してきた歴史がある。これを変更することで抵抗、反乱、不服従に裁判所の判決がさらされ、アメリカ社会の混乱の責任が問われるのではないかと最高裁判所の判事たちは恐れ、簡単には合意に至らなかった。

鑑賞のポイント

黒人内部の問題

黒人のこうした権利要求は当時公民権運動と呼ばれ、アメリカの50年代から70年代にかけて強い要求となった社会問題なのだが、この権利を勝ち取ろうとする黒人の弁護士組織NAACPと、最高裁判所の判事たちの解決のための模索が、この映画鑑賞のポイントである。

NAACPは黒人の人権を勝ち取ることが使命ではあるが、もし最高裁で負ければ、これまで下級審で勝ち取ってきた小さな勝利の数々を一挙に失いかねないという恐怖心との戦いでもあった。これに対してNAACPを率いるマーシャル弁護士は「安全なやりかたなんてものはない。価値あるものを勝ち取ろうとすれば、どの道を選ぼうと危険はついてくる。 我々はいつまで白人達の吹く笛にステップを合わせて踊るつもりなのか? 1952年の今は、私たちの先祖が奴隷船の生きた積荷として無理やりにこの地に連れてこられてから、300年。 奴隷が解放されてからまもなく100年になろうとしている」と、最高裁での裁判闘争に怖じ気づいている黒人達を説得し、決意を固めさせる演説が見物だ。

最高裁長官ウォーレンの登場

後半の見物は、アイゼンハワーによって突然最高裁所長官に任命されたウォーレン・カリフォルニア州知事が「オールスターチームを引き受けたアマチュアの監督みたいなモノ」と批評されるほど法律には疎かったけれど、彼がこの問題にいかに取り組んでリーダーシップを発揮したかがポイントである。

ウォーレンの説得

長官以外の8人の判事たちは、これまで合憲としていた隔離教育法に対して判断を変えることに戸惑い、修正14条の解釈を巡って混乱の中にあった。 この中に最高裁判所長官として新たに赴任したウォーレンは、「正しいと信じることをどうやって実行できるか、模索している」として個々の判事の意見を聞き、隔離教育法は黒人に対する蔑視からきていると各判事の説得を開始した。 反対意見の最後の一人になったリード判事に「私は政治家として多くの人々に接してきた。その経験から、みんな自分の良心を裏付ける判決は支持するということだ。最高裁が大きな柱を提供すれば、国民はそれを支えにして軋轢を切り抜けるだろう。判決が全員一致ならその支えはずっと強いものになるだろう」と説得し、全員一致の判決を出すことで、アメリカ合衆国の危機を救う基本精神となった。

良心に従う人間の倫理

良心の存在

名目と実質の一致、建て前と本音の一致は、国家のように大きな組織体であるほど重要であることを示唆している。政治家ウォーレンの説得は、人びとの行動原理の根本に良心の存在があることを明確に示したものと私は感じている。 逆に言えば、良心に反することには、それが強制であっても人々は従わないのだ。

国家と良心

公民権運動は50年以上も昔のことだけど、良心については現代的意味を失っていないし、人類が続く限りこれからも失われないだろう。 国家は人々の行動規範の多くを自身の良心に基づくように設計されているのが一番良いと私は考えているが、最近、国家は国民の良心に依存することを忘れ、良心を縛ろうとしているようにみえる。

現代的意味

黒人たちが公民権運動でNOを言う根拠には、「すべての人間は平等」という同じ国民ではないかという心情、さらには第二次世界大戦を一緒に戦ったではないかという自負心があった。 同じように扱ってくれというこの精神は、決して過去のものではない。 現代世界では、どう解釈されねばならないのだろうか?

「隔離教育」は憲法違反だとの判決の後

ようやく手にした重要な判決であったが、しかし、それだけで黒人に対する人種差別は終わらなかった。キング牧師の粘り強い非暴力主義の結果、1964年の公民権法の制定によって一定の成果を迎えはしたが、牧師の暗殺以降、暴力に訴える黒人暴動も発生し、ベトナム戦争の後遺症とともにアメリカ社会の大きな断絶が顕わになった。

2009年のアフリカ系のバラク・オバマ大統領の就任は、黒人が大統領になったことがなかったアメリカにとって、人種差別という社会的断絶を乗り越える画期的な出来事であった。しかし、それで黒人の人権が改善されたのか、は明確ではない。継続的な事実の積み重ねが歴史的な現実なのであろうが、人種にかかわらず理念を失わずに互いに手をつなぎ合いたいものである。

2022年10月 追記

シドニー・ポアチエの死去を悼む

この映画の主人公マーシャル弁護士を演じていたシドニー・ポアチエが、今年1月死去した。黒人俳優として先駆的存在で、団塊の世代の人々なら誰でも知っているというほどに日本のテレビでも放映されていた。映画では、いつも知性と自信に満ちて正義感あふれる役柄であった。

1950年代、白人中心の映画の都ハリウッドで、黒人が主要なスター俳優を務めたのはポアチエただ一人という意味をあらためて考えると、彼の偉大さがわかる。ポアチエは、公民権運動の真っ只中の時代に、人種偏見にもかかわらず、白人の映画プロデューサーや監督たちの評価を勝ち得ていた結果だということを。だからといって、白人に礼儀正しく飼い慣らされた黒人ではなかった。

ブラウン判決

この映画は、「分離するが平等に」という人種差別にたいする最高裁判決「ブラウン判決」を背景にしている。