音楽会ないしょ話

(小さな小さな音楽会 第25回 プログラム より)

最終更新 2000年 6月10日 (2004年10月12日 第25回プログラムから「ないしょ話」を分割)

注: 登場人物の役割分担は第25回(2000年4月15日)当時のものであり、現在とは違う場合があります。また、現在は実行委員としての活動をされていない方もいらっしゃいます。


 ナビゲーターの市橋邦彦は、1946年東京都中野区に生まれた。幼稚園で、現在もこの音楽会の黒幕、紅林治雄という男の子と友達になる。この人1年の内10カ月は日本には居ない。音楽会に合わせて帰国するが、仕事は誰も知らない。

 市橋は、1クラス60人で学年7クラスの中野区立第3小学校へ入学。学区域再編成で、5年時に新設校・桃ヶ丘小学校へ転入。1クラス42人で学年3クラス。区内で初めての鉄筋校舎の学校だった。6年生で学校代表の健康優良児に選ばれた。今ではそんな制度があったこと自体忘れ去られている。その時の女子の健康優良児、福井洋子はプログラムの表紙デザインを担当している。音楽会のシンボルマークはこの人の提案。市橋は小学校の頃、毎日暗くなるまで野球に興じていた。それを家の中からじっと見ていたのが勉強家の宗像健志で、小学校では市橋、紅林、福井の1年後輩にあたる。第2回以降ずっと写真を撮り続けている。

 市橋は桐朋中学校入学。卓球部・陸上部に入部するが、その頃全盛の『兎飛び』で膝を痛めて退部。運動を諦め、音楽部コーラス班(部員6名・同学年には誰もいなかった)に入る。それが音楽へ進むきっかけになろうとは思いもしなかったという。桐朋高等学校1年の秋、「来年はお前が部長だ。部長はピアノが弾けなければ困る」と、先輩にしごかれた。学校のピアノと時間貸しのピアノが彼の練習場所だった。練習の合間に『灯』『カチューシャ』などの歌声喫茶に通う。

 桐朋学園大学音楽学部入学。声楽を伊藤武雄、萩谷 納、ピアノを加納悟郎の各氏に師事。高校時代小沢征爾氏にあこがれたので、声楽専攻なのに毎週オーケストラの練習を覗いた。NHK交響楽団の常任指揮者だった森正先生や、もはや伝説の人物となりつつある斉藤秀雄先生に同級生が怒られるのを、部外者の彼は楽しんでいた。そして、成績など良くなかったのに、図々しく日本育英会と学校から奨学金を戴き、学生生活を楽しむ。又、老けた顔を良いことに、大学2年生の時に大学院生だと偽り、杏林短期大学合唱団の指導を皮切りに、関東逓信看護学院合唱団、電気通信学園大学の各合唱団を指導し、都立大学グリークラブの常任指揮者を勤める。

 この頃、週3回は音楽会、芝居見物に明け暮れた。その音楽会で、皆お行儀よく聴いている姿を見て、『こんな事では音楽は広まらない』『もっと気楽に楽しめる音楽会はないのか』と考えたことが、この音楽会旗揚げの理由の一つになった。アルバイトがたたったか、遊びすぎたせいなのか、はた又夢中になっていたアマチュア演劇のせいか、それとも音楽の才能がなかったのか、大学を6年間にわたって楽しみ、どうせ居るならと、出来たばかりの桐朋学園短期大学演劇科を、その間2年間聴講。微妙な発声法の違いから「下手な役者が歌っているようになってきた」と主任教授から説諭され、いっそ役者になろうかと真剣に悩む。

 大学のオーケストラがヨーロッパ公演をしている隙をねらい、学生だけでオペラ『フィガロの結婚』を上演する。声楽が専攻だから、舞台に立って歌うべきところ、自ら志願して演出を担当。自分の歌に見切りをつけたのか、芝居の総決算だったのか、本人も良く分からない。71年、やっと大学を卒業。中・高・大と桐朋に払った月謝を取り戻すべく桐朋学園小学校・音楽専任教諭となり、現在に至る。勿論授業料は、もうとっくの昔に取り戻している。その間72年には、恥ずかし気もなくリサイタルを開く。さらに、音楽を親しみのあるものにと考え、大学時代の友人と、71年秋『小さな小さな音楽会』を旗揚げ。本人が声楽専攻だったため、当初は歌が中心だった。出演者の輪は、友達が友達を呼び広がった。当時の出演者には、大島幾雄・加賀清孝・松本宰二・鎌田直純・大野徹也の各氏など現在第一線で活躍中の方も多い。

 スタッフも、当初はこれまた友人をかき集めるが、友人の友達も無理矢理引き込まれた。まるで昔のタコ部屋のようで(御存知ですか?)、一度入ると抜けられません。前述の紅林が勤務先で知り合った中山晶世は7年間経理を、そして現在は広報を担当。宗像の同僚で初めはお客様だった児島伸一は、現在某電機メーカー勤務で、今回の実行委員長。出演者からの紹介でスタッフになり、今回舞台監督の若月俊彦は、児島とはライバル関係の某電機メーカー勤務。つい半年前迄新潟勤務だったが、月1回のスタッフ会議には新潟から通っていた。途中で音響担当者が転勤になり、その後釜に連れてこられたのが森田国弘。彼はこの音楽会が再開して間もなく、北海道本社勤務を命ぜられたが、転勤するとこの音楽会に関われなくなると考え、会社を辞めたと噂される強者。小学校での市橋の教え子で、音楽の道に進んだ関係上スタッフにならざるを得なかったのは、野田智子平田真理。野田は、最近までレコード業界でプロデューサーをしていたが、現在はフリー。毎回演奏している開幕の歌は、彼女がこの音楽会のために作曲したもの。平田は、現在二期会会員で新国立歌劇場合唱団員だが、ここでは常に裏方。第1回から、プログラムの編集は、市橋の弟・英俊が担当。現在アメリカに居るので、原稿は太平洋を行き来している。彼は、音楽会で渡される大きなプログラムが、帰りには折られてしまうのを見て、ハンドバッグに入る大きさをと考えて今のサイズに決めた。初めはピアニストとして出演していたが、結婚後渋々スタッフになったのは、市橋みゆき。現在事務局を一人で切り盛りしている。チケット注文が入らない日があると心配するが、旦那が呑気でとりつく島もなく、一人悩んでいる。この人達は全員中断前からのスタッフ。

 やがて赤字が膨大になり、またスタッフが働き盛りとなって転勤が相次ぎ、会の継続性が保てなくなったことから、79年に音楽会を一時中断する。中断の間も新年会だけは続けていたが、誰もがもうやめたんだなと思っていた。彼はその間、教師としてじっくり仕事をしていたのかと言うとそんなことはなく、「やがて運転手付きの車に乗るから免許は要らない」と豪語していたのに、87年に運転免許を取得。突然趣味は写真だと言い出し、機材を車に積み込み、撮影と称して各地を飛び回る。免許取得一月後には、車で北海道まで出かけてしまった。

 95年初秋、突然スタッフに召集をかけ、音楽会の再開を宣言。家族は呆然。混乱の中、中断前のスタッフが全員揃い寿司屋の二階で再び旗揚げとした。蕎麦屋の二階ではない。その後、みゆきの友人だった中尾真知子と、音楽会のお客様だった北村ゆう子が実行委員会の中心メンバーに加わった。中尾は、母として妻としての視点からの発言が会に影響を与えている。一方北村は、バリア・フリーの仕掛人。この人なしでは、この会のバリア・フリーは考えられない。

 市橋の勤務先で机が隣で断りきれず、再開第一回のオーケストラ集めに奔走したのは、吉村美保。小学校の音楽講師の傍ら、ピアノコンクールで優勝し、イタリアでの講習会にもアシスタントとして参加する程の腕を持ちながら、この音楽会では出演の機会を与えてもらったことがない。今回もオーケストラ担当。

 長くなるので、この他の当日担当のスタッフ名はプログラムをご覧下戴きたいが、早い時期からこの音楽会を陰で支えて下さったのは、大橋一範・週刊吉祥寺編集長。現在は、この音楽会のバリアフリーに関する武蔵野市の連絡責任者。

 中断前迄は、吉祥寺の武蔵野公会堂を中心に開催。又同じ会場で続ける予定で、再開したところ、定員の1.5倍のお客様。もう少し広い会場でとのご意見を多数戴き、22・23回は三鷹市芸術文化センターで開催。両会共に完売。お客様から、もっとゆったりと音楽を聴きたいとのご要望があり、前回からこの会場に変更した。こんな大きな会場で『小さな小さな音楽会』が開催できることは、本当にありがたい限り。再開後は、オーケストラの演奏が多くなったので、名前を募集。現在の名前(いつつ星オーケストラ)となった。ちょっとだけ気恥ずかしい。

 この音楽会が始まった30年程前は、音楽会の会場と言えば、日比谷公会堂・東京文化会館・新宿厚生年金会館・文京公会堂・杉並公会堂などで、音楽専用ホールなどは皆無だった。現在は、有り余るほどのホールが存在し、特色ある音楽会をホールが主催し、安い料金で提供している。そんな中でこの音楽会の存在意義をどう考えていくのかが、これからの課題。親子3代で、この音楽会にお越し下さっている方があることを考えると、いつでも御家族揃って、安心してお楽しみ戴ける音楽会を目指していきたい。そして実行委員の年齢に合った、背伸びをしない構成・会場を考え、『小さな小さな・・・』の初心を忘れないように心がけたいと思う。

 尚、もっと詳しい内情をお知りになりたい方は、スタッフになることを勧めます。

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Last Updated: 2000/06/10 (Divided from 25th program on 2004/10/12)
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