開発計画に想う
東シナ海に浮かぶ無人島。宝の島と言われながら、鰹時代、珊瑚時代が終わって
から、危険な海域として敬遠され、時折、他からの密漁など荒らすに任せ放置さ
れていた。
宇治群島は私にとって、少年の頃から夢をかき立てられる憧れの島であった。
無人島と言っただけで詩情がわく。どん底の苦しみを味わう宿命を背負っていた
のかも知れない。
昭和29年、米軍の電探(レーダー)基地も完成し、心身共に余裕が出たので
宇治群島開発計画の策定にとりかかる。鹿児島大学水産部の学術調査資料
を貰い受け、それを基本にて、宇治群島に精通した古老の方々の助言などを
いただき、計画書をつくりあげた。
昭和30年に、宇治漁業生産組合(法人)を設立、魚連や魚信連など系統団体
にも加入して事業を開始した。
無一文、無経験、無謀にも似た無人島開発、しかも33歳の若さで、まさに、ゼロ
からの出発であった。
宇治群島の漁業権は、当時は、片浦、野間池、笠沙(小浦)3漁協の共同漁業権
で、当初入漁を申し込んだが断られ、3組合に出資して組合員になり、本権者とし
て管理、行使に関する一切の権限を委任された。
島の陸地の使用については、笠沙町に賃貸借契約を申し込んだが警戒され、土地
も山林も全島使用してよいと了解をと取り付けた。宇治群島は笠沙町の管轄である
が、元々は下甑の和田家の所有であった古文書(あまり信憑性はないが)があり、
また、戦中に航空隊で見た地図には、「官地原野」とあったのを記憶している。
漁師達が島に住み込み、自給のため開墾し、入植したら、将来もとの下甑村にかえ
るかも知れないという、かすかな期待はあったが、それ以前に夢は途切れてしまった。
家島に約53uの納屋を建て、約30名の漁夫が住み込み、何時、如何なる魚群が
来遊しても、臨機応変に漁獲できるように多角式に漁法を組み合わせた。
磯建網、磯狩刺網、きびな刺網、磯追込網」、小型定置網、一本釣りなどが主な
漁業種目。営業は、生産、運搬、販売とそれぞれ責任分担し、一括経営とした。
漁船は、活魚運搬船3隻、無動力船3隻で操業。
販路としては、熊本県三角港を基点に、熊本市、川尻、松橋、宇土、鏡の各魚市場に
出荷し、活魚販売を行った。
当時の鮮魚運搬船は、焼玉エンジンでスピードが出ない上に、活魚運搬で喫水が深く
なおさら遅い。宇治から甑島列島を北上し、黒の瀬戸から八代海を通りぬけて三角港
までの所要時間に大きな誤算があった。漁獲は多くても運搬船が間に合わない。
それに、台風による漁船の破損、定置網の流失などと続き、操業4年半で事業中止
に追込まれた。
宇治群島開発事業の残したものは、その実績で建設された避難港だけである。