学芸会劇「ヒロシマ」・国語「ヒロシマのうた」・社会「戦争と原爆」についての調べ学習を終えて、子どもたち一人一人が、「ヒロシマ」に関係する人々に宛てた手紙を書き、ワープロで打ちました。以下に紹介します。


広島市立吉島東小学校 前田先生へ

6年E・A

みなさん、こんにちは。
私は、愛知県の小原村立中部小学校に通っています。11月15日。私達6年生最後の学芸会が、行われました。テーマ「原爆」です。学芸会まで私達は戦争・原爆について調べ学習をやりました。
私は、都築先生が広島へ行き、買って来て下さった資料をたよりに、「原爆」について調べました。今まで、分からなかったことがよく分かったような気がします。人々のつらさなどは体験していないから分かりませんが、スゴクつらく、大変だったと思います。かわいそうだと、思いました。
学芸会で、私は、母親Bの役をやりました。その役は、子供を亡くした悲しみで、ゼッキョーをします。最初は、どうやって演じればいいか全然分かりませんでした。でも、前田先生が送って下さったビデオを、見たらだんだんその役が分かり始めたような気がするようになりました。本当にありがとうございました。劇は、大成功でした。私の母に聞いたんですが、「ヒロシマ」を見て泣いていたおじいさん、おばあさんがたくさんいたそうです。「まちんと」を行ったときは、どうでしたか? 私はこのことを母に聞いたとき、こう思いました。

    「今でもおじいさん、おばあさんは戦争や原爆のコトを、覚えているのだなぁ」と・・・・・・。

今でも、外国では原爆が作られています。いつ、日本や世界のどこかに落とされるか分かりません。
    ビデオ・台本、本当にありがとうございました。

被爆者へ・「ヒロシマ」へ

6年H・A

今まで原爆のことについて、あまり関係のないことだと思っていたけど、いろいろファイルで、調べていくと、三十万人以上の人がたくさんの人が亡くなってその人も好きで、戦争をしていたんじゃないと思うから、原爆を落とした人も、悪いことをすると思うけど、原爆を投下しなくても、よかったのにと思いました。その日は、空しゅう警報も、ならなかったし、ひなんもしていないから、よけい被爆する人もふえて、まだ、きれいな顔で、死ねればいいけど、どろどろで、気持ち悪い体で、一生を終わるなんて、かわいそうだと思いました。そして、まだいしきが、あった人が水をもとめて、川の水を飲んで助かるとか、死んでしまって、なんで、死んだのかと思いました。そして、今でも、原爆にあって、苦しんでいる人もいるし、原爆にあって亡くなった人の家など、残っている人達も悲しいし、原爆にあって、亡くなった人も、悲しいし、みんな悲しいことがなんで、おきてしまったのかと思いました。

被爆者へ・・・

6年Y・A

私は、本当に原爆にあった訳じゃないから分からないけど、劇で、被爆者の役をやってあの役が本当だったらすごくかわいそう。本当に焼けただれて、家族や、友達を亡くし、あの場にいたらすごく「ひさん」だと思う。原子爆弾を落とされることを知らなくて、多くの人たちが一瞬にして亡くなって私だったら、すごくイヤです。
ヒロシマは、もう今では、普通の町といっしょだけど、その中にもまだヒロシマには多くの被害を受けた人や、原爆症で、白血病などで苦しんでる人がまだたくさんいると思います。原爆の起きた、あの日に死ななくても苦しんで死んでいくなんて私だったら絶対イヤです。死んじゃったらまた哀しいことが起こるから・・・・・。もう亡くなってしまって、原爆で被害にあった「被爆者」の人も、本当にかわいそうだと思います。日本が、日本人が(一部の人)最初に戦争をしていたから、アメリカや、他の国が怒って、原爆を落とした。(アメリカが)かわいそうだけどしょうがないのかなぁと思った。こんなことが起こるから、もう二度と戦争なんて起きてほしくもないし、起こしてほしくもないと思った。このまま、ずっと平和でいくといいなぁと思った。                                                                       おわり

ヒロシマのみなさんへ

6年K・I

私たち6年生は、学芸会で、「ヒロシマ」と言う劇をやりました。
それで、この劇を練習しているときは、何とも思っていなかったのに、本番になったら、(感動)したのや、(かわいそう)な気持ちになって泣きそうになりました。お客さんとして来ていた一人のおばあさんが、泣いていました。それを見て私は、私たちがやった劇で、感動してくれた人がいたので、すごくうれしかったです。そのおばあさんは、戦争を経験していたと思うから、当時のことを思い出したのかなあと思いました。それまで戦争が続いていて、いい意味で言うと、原爆が落ちて、戦争が終わって良かったと思いました。もし、原爆が落とされなくて、今でも戦争が続いていたら、いやだからです。
私は、もう戦争や、原爆が落とされることがないといいと思いました。

「ヒロシマ」へ

6年T・I

私たちのクラスは、「ヒロシマ」の劇をやりました。私の役は、前、ヒロシマであったことをやる役でした。「ドーン」といってたおれるのがとてもむずかしかったです。でもこれは劇だからだけれど、本当にヒロシマであったことは、わざと、飛ぶんじゃなくて、知らなくて飛ばされたんだけれど、その時は、どんな感じだったのだろう?知らなかったなんて、今思うと言葉でいえないくらいの怖いことだと思います。原爆が落ちて、顔とか体のひふがはがれてしまった人は、とてもかわいそうだし、痛かったと思います。私は、それを経験していないから、こうゆうことを書けるけれど、本当に原爆を体験した人は、なんともいえないおそろしさだと思います。日本が戦争を続けると言わなければ、こんなことにならなかったと思う。日本の人が、戦争を続けなければこんな事にならなかったのに・・・。関係のない人までまきこむなんて、あまりにもかわいそうだと思った。

     (日本の人とと言っても「戦争を続ける」と言った人)


「ヒロシマ」へ

6年H・O

ぼくたち6年生は、戦争について、それぞれで調べ、いろいろな資料を集め、それらをもとにした「戦争のおそろしさ、平和への願い」を中心にした劇を作りました。その劇は、この小学校での、ぼくたち最後の、そして今のぼくたちの、最高の劇として演じました。これは「ぼくたちの平和への一歩になる。」ぼくは、そう思います。そして「この一歩は大きな一歩につながり世の中をさらに平和に導く。」ぼくは、そう考えました。
ぼくにとっての戦争とは「人が、人の心を忘れ、人が、人でなくなり殺し合いしか頭にない。」そんなにもひどいあやまちです。この後からは、「人の心さえ忘れなければ二度と戦争は、あの悲劇は起こらない。」・・・・ぼくは、そう考え、そう願いながらこの世の中を生きていきたいです。

ヒロシマの被爆者の人たちへ

6年M・O

みなさん、こんにちは。僕は愛知県西加茂郡にある、小原村立中部小学校に通っている6年生です。今、社会で「戦争・原爆」について学習しています。
この学習をやっていて、「原爆とは、なんて恐ろしいものなんだろう。」と、つくづく思います。先生が広島の「原爆資料館」をビデオでとってきてくれたのを見て「こんなにも恐ろしいのか」と、あらためて思いました。なぜ、あんな小さな物で30万人以上の人々が亡くなってしまったのか?不思議に思います。それに今もまだ原爆症で苦しんでいる人がいるなんて考えられません。僕たちが住んでいる、愛知県の大都会名古屋も、原爆投下の目標地の候補に選ばれていたというのを知って、とても驚きました。もしも名古屋に落とされていたら、僕は今いないかもしれません。このようなことを考えると原爆がさらに恐ろしく見えるようです。こんなことを考えていくと原爆のおそろしさがよくわかります。でも、まだその原爆を持っている国があると言うのです。しかも、その原爆は、広島・長崎に投下された物の約4000倍もあるという事実を知りました。そんな物を使ったら、何十億人もの人の命がうばわれてしまいます。そうならないように原爆への反対運動を続けていってください。そして、被爆者のみなさんも、この恐ろしいことを次の世へ、次の世へと語り継ぎ、もう二度とこのよう な事が起こらないように努力していってください。みんな応援しています。がんばってください。
H9,12,5 小原村立中部小学校、6年 M・O
30万人の死者へ

6年K・O

僕は、戦争は、もうくりかえしたくない。ヒロシマで、原爆が落とされて、たくさんの人が亡くなった。もう、これ以上戦争・原爆で一人も死なせたくない。防空壕の中にいても少ししか被害をふせげない。防空壕の中に避難しても放射能をあびて白血病に・・・。こんな大変なことが起こるから、もう戦争はぜったいやりたくない。

ヒロシマへ・・・

6年S・O

私達、中部小学校の六年生は、いろいろなヒロシマの原爆資料(「黒い雨」、広島市立吉島東小学校から、送ってもらった(「まちんと」)をもとにして、「ヒロシマ」という、劇を学芸会でやりました。私達は、国語でもあった、「ヒロシマの歌」がきっかけでした。社会の調べ学習もしました。調べているうちに、ヒロシマの悲劇がわかりました。・・・原爆で体中が焼けただれた人々・・・小学生、中学生の、鉄砲の訓練、足や手、体の一部が、とれて、なくなって、苦しんでいる人々・・・・先生が広島に行きました。原爆ドームや、病院に通っている子が、千羽の鶴を折っていて、それから、千羽鶴が始まったこと。昔、子供が、好きだった、三輪車を、うめて、ほり出されたときの、三輪車は、さびてボロボロですごいこわさでした・・・。父を帰せ、母を帰せ、子供を帰せ、年寄りを帰せ・・・。原爆のおそろしさが、わかりました。

生き延びた兵隊さんや人々へ

6年M・K

戦いを経験した人、空襲を体験した人、戦争すべてを経験した人、死んだ人、助かった人、何ともない人、戦争の被害で今もずっと病で毎日、毎日苦しめられてる人、たくさんの人たちがいると思います。ぼくは、その人たちよりも、生きている人達の方が苦しい思いをしてると思います。まさか自分がと、思っていたけど、召集令状<赤紙>が来るとは思わなくて、理解しきれない兵隊さんや、「死ぬーーっ」と思った人もいたと思います。家族や親戚などの前では、強がっていたけど、内心震え、実は一般人の人達よりも苦しめられたと思います。
それでも生き延びれたのは、奥深くであきらめないという意志、生き延びるという意志があったからにちがいありません。死んだ人のためにその意志を持ち続け命を大切にして長生きをして、日本いや地球全体すべての所で争いが起こらないよう、がんばりましょう。

1997 ヒロシマの方々へ


「ヒロシマ」へ

6年K・K

私達、中部小の6年生は「ヒロシマ」という戦争・原爆の劇をやりました。私がやったのは、OHPです。OHPのTPシートに写っていた、原爆でのひさんなものは、学芸会のときに、OHPで写した瞬間、1年生からお年寄りまでみんながシーンとしてじーっと劇やOHPのひさんな映像をみていました。そのほかにも、私達は社会で調べ学習をしました。その時に、ちょっ とふざけてやっていたときがあったから、戦争・原爆はそんなふざけて調べるほど簡単なコトじゃないのにそんなふうにやってしまったから、「いけないコトをしたなぁ」と思いました。もう2度とこんな戦争があることはないと思うけど、あるかもしれないから、もう2度とそんなことをおこすようなことを、しないでほしいと思います。
「ヒロシマ」へ

6年N・K

私達は、劇、勉強をかねて、原爆のことについて調べました。どんどん調べていくうちに、原子爆弾のこわさ、三十万人以上の被害者がでて、そこにいなかった人も、黒い雨で原爆症になってしまって、今でも、原爆症でなやんでる人がいて、その人達だけでも助かってほしいと思う。でも、今の医学では、治る人もいるし、治らない人も・・・。だから、はやく治る医療技術がほしい!!
私達は、この「ヒロシマ」という劇をやらなかったら、原子爆弾は、広島と長崎に落ちて、すごい被害が出たというだけで終わってたと思う。
この調べ学習をして、ざんこくなこともあってやだったけど、でもいろいろ、わかってよかった。だから、広島と長崎に落ちて被害がでただけしかしらないで終わらなくてよかった。でも、ひさんなことがあってみるのが、こわくて、みれなかったり、泣けそうになったりもした。でも、このことを私以外で、知らない人に教えたりできるし、教えた人に、こんなにすごかったんだ よって、教えた人たちに、もう、原子爆弾を落とされたくない、落ちてほしくない。そういうふうに思ってほしいし、今は、昔より も、平和だということを知ってほしい。それと、今よりも、もっともっと、平和な世の中にしていきたい。

広島へ

6年K・K

ぼくは、広島を学習で知るまで原爆が落ちたということしかわからなかったけど、学習をしてよくわかりました。30万人以上の、人が死んでしまったなんて、とても、かわいそうだと、思いました。げきでやったとき、よくわかりました。だって、自分で 原爆でふっとんでしまった人の役をやったからよくわかりました。ほんとに、日本は、戦争をしたいからといってしすぎたために、広島の人が、ぎせいになったとよくわかりました。すごくかわいそうだと思いました。広島に、原爆ドームがあります。平和のシンボルとして永遠に残していってほしいです。

30万人の死者へ

6年M・K

原爆で亡くなった30万人の皆さん、皆さんは直接戦争には、関係がなくてアメリカがこの日本を、負けさせるために偶然に、広島に、原爆を落としたために死んでしまって、あなた達は、とてもかわいそうだと思いました。それに、日本もBー29が来 たのに気づかず、空襲警報も鳴らさなかったと、調べていてわかりました。警報が鳴っていれば、あなた達も助かって、被害も少なくてすんだと思います。あと、アメリカも日本がポツダム宣言を、無視しただけであんなに強力な爆弾を、使うとはとて も悲惨だと思いました。日本が宣言を無視したために亡くなった30万人の人達が、とてもかわいそうです。あと、死ななくても原爆症に苦しんでいる人達は、とても悲惨です。何であんな事になってしまったのだろうか、なぜ平和に解決できなかったのか?、なにもあんな恐ろしい兵器を使わなくても解決できなかったのかと思います。こんな恐ろしいことが、二度と無いように原爆は、無くさないとだめだと思います。30万人の死を無駄にしないで平和を現実にしたいと思います。
小原村立中部小学校 6年M・K

生き延びた兵隊さんへ

6年T・K

僕は、愛知県の西加茂郡小原村の中部小の六年です。僕たちのクラスは学芸会に「ヒロシマ」という劇をやりました。僕は、兵隊の役をやりました。僕は最初あまりやりたくありませんでした。なんで昔の人は「勝ってー来るぞー」とかいう変な歌を歌って戦争に出して死にに行くみたいなのに「バンザーイ.バンザーイ」とか喜んで送り出すのかなー?とか、行きたくなさそーな人も戦争に送り出されるのかなー?と僕は思いました。でも、その劇のことについていろいろ調べました。調べたら、こんなことがわかりました。当時、「赤紙」と言うのがきたら必ず戦争に行かないといけないとゆうことが分かりました。そんなに戦争に人がいるのかーと思いました。でも、なぜ軍歌とか「バンザーイ.バンザーイ」とかをやって戦争に送り出すのかなと思いました。でも僕は、歌って送り出すのがきまりなのかなーと思いました。戦死者の人のためにも、これからも長生きして下さい。

ひろしまのひとたちへ

6年E・K

私たち6年生は、学芸会で、「ヒロシマ」と言う劇をやりました。その劇で、広島市立吉島東小学校の人たちも協力してくれました。「まちんと」と言う劇のビデオを送ってくれて、それも、参考になりました。    とてもすばらしかったです。さすが、演劇部だなぁーと思いました。私たちの先生が、ヒロシマへいってビデオとか、写真とかもとってきてくれて、それも参考になりました。原爆ドームも初めて見ることができました。私も、広島へ行って、本物を見てみたいと、思いました。でも、そんなヒロシマの中で30万人以上もの人たちが亡くなったなんて、考えられないなぁーと思いました。いまのヒロシマは、もうふつうの町って感じだけど、原爆の被害にあった人たちは、心に深い傷がのこっているんじゃないかなぁーとおもいました。     本当に、私たちは、幸せだなぁーと思いました。本などで調べたことや、ビデオで見たことを、思い出すとすごく心の中が、こんな私でも、ジーンときました。すごく前のことなのに、私たちは、経験してないのに・・・・・。30万人以上の人たちが亡くなったなんて、考えられないです。
何で戦争なんか起こしたのかが、私には、わかりません。同じ人間どうしなんだから。みんな同じで生きているのに。当時のことを頭の中で、想像するととても哀しくなってきます。もうこれからは、こんなことがないように。戦争なんか起こさないよう に。みんなで、平和を守っていきたいと思います。

おわり・・・。


「ヒロシマ」へ

6年Y・S

原爆が、ヒロシマに投下されて、被爆者がいっぱいいて、30万人以上の人々がなくなってしまった。あの爆弾から、強い風がでてきて、その熱さが、ものすごい熱さだから、人が焼け死んだり、家が倒れてきたりして、いろんな被害があったりしたから、原爆が落ちた近くにいた人々は、かわいそうだと思った。そのときに死ななくても、黒い雨を浴びた人は、そのうちに、死んでしまう。あれだけの大きさの爆弾だけで、いっぱい町とか家が焼けて、三日間も食べ物もなくて、いつ火が消えるだろうと思う位も、家や町が焼け続けて、三日間の間に、30万人以上もの人々が死んでいった。どうして、落とした国は、ヒロシマヘ落とすんだろうか?でもまたヒロシマのように、違うところへ落とさないでほしいと思いました。もう、こんなことが絶対起きないでほしいです。

「ヒロシマ」へ

6年Y・T

私は、「ヒロシマ」という劇をやりました。それで、私は、原爆が、落ちる前の役でした。原爆なんて私は、生まれていなかったときにおこったことだから関係なかったかと思ったかと思ったけど、でも、戦争、原爆について社会で調べ学習をしました。それで、少しは、分かってきました。でも、まだ見ていない資料や本が、たくさん、あるのでいろいろな本や資料を調べていろんな事を知りたいです。
でも、六年の劇では、「ヒロシマ」と言う劇をやって、やっぱり原爆というのは、ものすごくこわいと、いうことが分かりました。私は、「ヒロシマ」の劇をやって、よかったなぁと、思いました。最初、劇を決めるとき、どんな劇をやるのかなぁと、思いまし た。そしたら、友達が「ヒロシマのうた」と、言う提案があって、それで「ヒロシマ」ということになりました。原爆の前に、生ま れていた人は、かわいそうで、きのどくだなぁと思いました。だって、黒い雨をあびた人は、原爆症になってしまったから、助けてあげたいなぁと、思うからです。今後一切起こってほしくないと思います。

広島市立吉島東小学校の当時の演劇クラブの人へ

6年E・D

吉島東小学校のみなさん、ビデオを送っていただき、ありがとうございました。おかげで、いい劇ができました。私は、ろうどくをやりました。あまり、うまくできませんでした。戦争の恐ろしさ、よくわかりました。そこからは、原爆ドームは、見えますか?私は、見たことがなかったので、見たときは、おどろきました。一つ疑問がありました。それは、「トマト」です。「トマト」は、ほんとうに言ったんですか?もし、ほんとうに、言ったんだったら、ほんとうに、好きだったんだね、その子。それではビデオ、写真をあまり楽しみにしないでくださいね。私は、へたですから。それでは、お元気で。
被爆者の人々へ
被爆してしまった人、ほんとうにさびしいです。私たちのところにも、戦争で死んでしまった人達が大ぜいいました。ほんとう に、くやしかったと思います。とっても、ひどく、いたかったと思います。戦死した人、何も罪もなく殺されてしまった人、とって も、憎いと思います。私たちは、その原爆を劇にしました。私たちの劇は、うまくできたと思います。今でも、にくいと思っているかと思いますが、どうぞ、やすらかに、おねむりください。

劇の感想

6年T・D

僕は、今までずっと劇の練習をやってきました。僕は、すぐに舞台の横でうるさくしたり、歌であまり声がでてなかったり、足を90度にあげてなかったりしてたけど、学芸会の日自分では良くできたしやるだけやったと思いました。ほかの学年のを見て小さいのに良く声が出ていると思いました。ヒロシマの劇は、みんななりきってやってました。Yちゃんと、Hちゃんの会話が本当の母と子の家族だと、すごく思ったし、Yちゃんの独り言が、すごくうまかったし、みんな、しーんとなったからいいなーと思った。Sちゃんが、ふらふら出てきて、おじぞう様の前にたおれたら、Eちゃんが、出てきて「ヒロ子ーッ」とさけんだ時がすごくよかったし、声もよく出ていた。最後は、みんなが出てきて、「かえせーっ、人間をかえせーっ」のところが、とてもよかったし、声が出ていた。

「ヒロシマ」へ

6年Y・N

原爆が落とされて、もう何年もたっているのに、まだ、原爆症で苦しんでいる人たちがいると思うと、とてもいやな気持ちになります。幼い子供たちや、お年寄りヒロシマの人たちはかわいそうです。私達が劇でやったよりも、もっともっと大きな光、被害、どうしてこんなことになったんだろうと思います。しかも、ヒロシマだけではなく、長崎にも落とされたなんて、もうぜったい、原爆なんて落としてほしくないです。今まで、あまり原爆のことなんて気にしていなかったけど、こんなに、悲しくて、いやなことだったとは、全然知りませんでした。戦争でこんなことになったり、たくさんの人たちが亡くなったりするのは、もう、ぜったいにいやです。もう、戦争はしてほしくないです。原爆で死んでしまった人、まだ、苦しんでいる人、本当にかわいそうです。 もう、平和になってほしいです。

30万人の死者へ

6年 G・H

広島の死者のみなさんへ
広島におちた、原爆で、もうぜったいこういうことがおこってほしくないです。原爆の下に、もしいたら、ぜったいしんでいたとおもいました。それで爆風でまちは、はんぶんぐらいきえたから、すごいとおもった。あとこわい。それで、死者のみなさんは、かなしいですね。まだ生きられたのに。それと、ぼうくうごうは、やくにたったのか、それですこしの人は、たすかったけど死んだ人のほうがおおいとおもった。それでけんばくのしたに、ぼうくうごうをつくっていたら、ぜったいしんでいたとおもいました。

広島市立吉島東小学校 前田先生へ

6年N・M

この前、前田先生がおくってくれたビデオを見て、すごいなと思いました。中部小の6年生で劇をつくることになって台本とビデオが、すごく参考になりました。当時の演劇クラブの人も、少ない人数であれだけの劇ができて、すごいと思いました。ナレーターの人の声に感情が入っていて、私達の劇もこうなるといいなぁと思いながら劇を練習していきました。特に、被爆してからのやり方、歩き方、メイクなどを参考にさせてもらいました。戦争・原爆を経験していないから、劇のいろんなセリフや、動作、服装などわからないことがたくさんあったけど、みんなでアドバイスしあって、成功させることができました。
「ヒロシマ」という劇をやって、もう、絶対に戦争がおきないようにしないといけないと思ったし、あんなひさんなことが、2度とおきたらいけないと思います。
前田先生、ビデオ・台本をおくってくれて、ほんとうにありがとうございました。

「ヒロシマ」へ

6年M・M

ぼくは、「ヒロシマ」の劇で、村長の役をやりました。それで、村長の役は、けっこう難しいんだなあと思いました。それで、11月15日に、学芸会がありました。ぼくは、その日が来てけっこう緊張しました。でも、練習の時よりうまくできたからよかったです。
原爆が落ちて、30万人以上の人が死んでしまいました。小学校生活最後の劇で「ヒロシマ」をがんばってやれたので、とてもよかったです。

ヒロシマへ

6年K・Y

原爆によって被爆した30万もの人々。被害を出した原爆は、もう落として欲しくないです。なぜなら、何万人もの人が死んでいくからです。今でもまだ被爆して生きている人もいるけど、みんな原爆症で苦しみながら生きている。そして、もうじき 倒れて死にそうな人が多くいるからです。
まだ、世界では、戦争をしている国があるから早くやめ欲しいです。本当の原爆は、僕たちが、劇でやった以上にひどくて残酷なことなので、戦争などは、二度と起こして欲しくないです。僕は、この時代に生まれて、よかったと思う。

お兄さんを兵隊で亡くした人へ

6年E・Y

私たちは、学芸会で、「ヒロシマ」と言う原爆の、劇をやりました。私は、身内を、兵士に送り出す役を演じました。そして、その役は、送り出す直前に、被爆します。その役は、爆風で吹っ飛びます。だから、何度も、何度も練習するうちに、舞台に体を打ってしまいます。少し足の皮が、むけてしまい、とても痛かったです。だから、本当に、爆風で、吹っ飛んだ人は、とても いたくて、怖かっただろうと思いました。お兄さんを、兵隊に出して亡くした人の気持ちがします。それにいろいろ調べて、原爆のつらさ、恐ろしさ、とてもよくわかりました。ぜったいに、二度とこんなおそろしくてかなしいことを、起こさないように、私 達がすごい、社会をつくりますので、安心してください。

劇の感想

6年T・Y

僕は、練習の時は、セリフが短いので、簡単だと思っていました。けど、短いセリフは、その分心をこめて言わないといけないので、むずかしかったです。
でも、フットライトと舞台の照明をしなければいけないので、むずかしかった。

     サーチライトは、K君と先生と、あわせなければいけないので、特にむずかしかった。

心の声では、Yちゃんが言ったあとに、マイクで言わないといけないから、ほかの声が入らないように、言ったあとは、すぐに電源を切らないとといけません。最後のことばは、大きな声で言いました。幕は、やらなくていいので、ちょっとは、楽でした。
ヒロシマという劇は、戦争と原爆を題にしてるので、むずかしかったです。最後に、戦争は、もう二度としてはいけないと思う。

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