原爆のおそろしさ!
僕たち太子中学校の三年生は、六月十三日長崎を訪れました。その時思ったことを、これからお話しします。
この子を残してーーーこの世をやがて私は去らねばならぬのか。母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。
戦いの火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、それさえ間もなく失わればならぬ運命を、この子は知っているのであろうか。
僕たちのバスの中で、ガイドさんがこの文を読まれた時、バスの中が一瞬シーンとなりました。そしてガイドさんのほほには、幾すじかの涙が流れていました。
終戦まじかにせまった昭和二十年八月九日午前十一時二分、長崎に第二の原子爆弾が、落とされました。平和な町長崎は一瞬のうちに死の廃墟となりました。何の罪もない、平和な市民の生活をたった一つの原爆が、かえてしまったのです。
僕たちの訪れた国際文化会館、ここには、その当時の数々の資料が残されていました。
崩れたビル、グニャグニャに曲がった鉄骨、まっ黒こげの弁当、垂れ下がった人の皮膚、人間や動物の骨だけになった死がい、まるで地獄のようでした。
展示してある資料や写真を見ていると、何だか自分がその場にいるような気がしてきました。
水を求める人の声、苦しみ叫ぶ人の声、家族を探す人の声、そんな声が聞こえてくるような感じがしました。
この場所に、もし僕がいたらーーー、こう考えただけでもゾッとします。
僕の母は、原爆が落とされてから五年ほど後に、長崎の大学に入学しました。その学校の運動場からは、時々白骨のかけらが出ていたそうです。
土台の石だけを残した家のあと、くずれたレンガや石垣の山、その一瞬の残酷さが、ありのままに見られるような、そんな景色だったそうです。
ガイドさんが読まれた本を書かれた永井先生は、そのころ二帖のせまい部屋で二人の子供と、不自由にそして苦しい病気とたたかっておられたそうです。
僕たちの見た長崎は、母の話や、当時の写真のようなおもかげもなく、うそのように、美しく平和な町になっていました。
しかし、原爆に命を奪われた人たち、また生き残って三十年余り、すっと病気で苦しい生活をしておられる人たちにとって、その当時の恐ろしさは、決して忘れることのできないものなのです。
あと一年、あと一年戦争が早く終わっていたら、こんなことにはならなかったと思います。
原爆を落としたアメリカも悪い。でも、戦争をこういう結果に追いこんだ日本の方がもっと悪い。
世界で初めて、日本に落とされた原子爆弾。それは、戦争の恐ろしさ、残酷さを全世界に見せつけるものでした。
僕たち日本人は、この原爆のおそろしさを決して忘れないで、世界の人々に、二度とこんな残酷な戦争がおこらないように、うったえていかなければならないと思います。
もし、再び大きな戦争が、始り、原爆が使われるようなことがあればーーーきっと、地球はほろんでしまうと思います。
世界の国々は、戦争をさけるために、本当に努力をしているのでしょうか。現在でも核兵器が作られたり、その実験が行われていることはおかしなことだと思います。
これからの世界は、どんなに小さい戦争もおこしてはならないのです。
日本には、戦争放棄という憲法があります。この大切な憲法を絶対忘れないように、そして、原爆の苦しみをうけた国民として、二度とこんな残酷な戦争をおこさないように、世界各国に、その恐ろしさをうったえていかなけれななりません。
そのためにも世界平和を守るために一生懸命努力することが、これからの日本をになってゆく僕たちの大切な義務だと思います。
それが、原爆によって、命を奪われた人々への償いではないかと僕は思うのです。
第三十回姫路市長杯争奪全播州中学校優勝弁論大会;準優勝
『戦争のない、平和な世界が続くこと・・・』 それが私たちの願いです。