サンブルからマサイ・マラへは直行する道がないので、いったんナイロビまで戻り市内で1泊してから向かうことになっていた。サンブルで石ころだらけの荒野ばかり走っていたせいか、イシオロまでのダートはまるでハイウエイのように快適だった。
赤道の街ナニュキにはたくさんの観光客が集まっていた。土産物屋「EQUATORMARKET」(赤道市場)には木彫りの置物やマサイ族の楯などが所狭しと並んでいる。車を降りてぶらぶらしていると、すかさず水差しと漏斗をもった男が近づいてきた。北半球と南半球では、水流の渦巻きが逆になるのだが、金を払えばそれを実験して見せるというのだ。ほほーこいつが噂に聞いていた「赤道野郎」か。だが、標識の前後10メートルを移動したくらいで、そんなに劇的に渦の向きが変わるはずがないので、きっとなにか仕掛けがあるのだ。断ると彼は我々をあっさり諦め次の客をつかまえに行ってしまった。あまり効率のよい商売ではなさそうだ。
ナニュキを後にしさらに南に下ると、ケニヤ山が見えてきた。標高5199メートルもあるので、赤道直下とはいえその頂上は万年雪に覆われている。そのままウフル・ハイウエイをぶっとばし、ナイロビの街には昼過ぎに到着。腹も減っていたので、ワウェルに頼んでアフリカ料理の店に連れていってもらうことにした。なにしろサンブルのロッジでは、欧米スタイルの洋食しか食べられず、いささかうんざりしていたからだ。
1時を回っていたが、店の中にはワイシャツにネクタイのケニヤ・サラリーマンがたくさんいた。この国では12時から2時までが昼休みなのだ。ニャマ・チョマ(焼き肉)の専門店らしく、ガラスのショーケースから自分で肉を選び、焼いてもらうシステムになっている。あわせてウガリ(ケニヤの主食で蒸しパンみたいなもの)を注文、とりあえず序盤戦の成功を祝って3人で乾杯となった。妻はバリディ・ビア、僕とワウェルはコーラである。
「ビールは飲まないの?」
「ドライバーだからね。」
感心感心。
しばらくすると、ニャマ・チョマが運ばれてきた。かなり大きなカタマリなので、ウエイターが適当に切り刻んでくれる。これに「ピリピリ」という冗談みたいな名前の辛味噌をつけ手づかみで食べるのだが、こいつがかなり辛いので、味のないウガリと交互に口に運ぶ。テーブルは屋外にあるのであっという間にハエが群がってきたが、フルーツジュースにはあれほど神経質だった僕も何故かハエはオッケーなのだった。どうやら僕は「寄生虫」「細菌」「ウイルス」といったミクロな響きに弱いらしい。
ケニヤはいくつかの部族で構成された多民族国家であり、ワウェルはその中でも多数を占めるキクユ族の出身ということであった。ガイドブックによれば、キクユ族は「美人は少なく肥満型が多く、ナイロビ近郊に住んでいる割にはあかぬけない。」とさんざんな言われようだ。彼の自宅はナイロビ近郊にあるので今晩は自宅で寝られる、とうれしそうであった。考えてみれば、サファリドライバーという仕事は、客の滞在期間は家にも帰れず連日数百キロの運転をしなければならないのだから、結構ハードな職業である。昼食代は3人前で750シリング(約1500円)だった。外国人は僕らだけだったが、値段や客層から判断して、ナイロビでは高級な方に入るのだろう。
その日の宿である「ニュースタンレーホテル」は、ビジネスホテルクラスのまあまあのところだった。しかし各階ごとに警備員が立っていて暗に治安の悪さを物語る。「地球の歩き方」でも、ナイロビのページには「スリ」「強盗」「詐欺」「30人ぐらいでボコボコ」などブッソウな言葉がまんべんなくちりばめられている。
緊張しつつ街へ繰り出した。手にはなにも持たず、ポケットには1000シリングだけ。脳天気にカメラなど持ってフラフラしようものなら、すぐさま30人くらいのお友だちに囲まれてしまいそうだ。歩き出すとすぐに
「チェンジダラー、OK、OK。」
とささやくヤミ両替や、あやしいサファリツアーの客引きなどが寄ってきた。中には、
「コニチワ、コニチワ。」
などと日本語で話しかける者もいて油断ならない。びびってばかりいるとつまらないというのは百もショーチなのだが、いきなり腕を掴まれたときには心臓が止まりそうなくらい驚いた。大汗をかきつつ「プレステージ」という本屋へ。こじんまりとしているが動物関係の書籍がかなり充実しており、クラクラしつつ携帯用の野鳥図鑑を1冊購入。その後、街を少しだけうろついてホテルに戻る。Mはもっと歩きたかったようで不満顔だ。いつものように蚊取線香をぬかりなくセットし、早めに就寝。
「きのうはよく眠れたかい? 晩飯はどうだった?」
「快適快適、よく寝たよ。」
「そりゃあよかった。さあ、乗って乗って。」
翌朝、荷物を車に積み込んでニュースタンレーホテルを出発、タンザニア国境に接する動物おたく巡礼の地、マサイ・マラ国立保護区を目指す。
朝のナイロビは活気に満ちあふれていた。通勤客を満載したバスやマタトウが激しく行き交い、少年が車の列を巧みに縫って新聞を売り歩く。赤道直下の太陽はすでに光線全開、その輝きはここが世界に名だたる犯罪都市であることを一瞬忘れさせる。
ワウェルの自宅は、ナイロビから車で15分ほどの、キクユという街にあるのだという。「オフィスへはバスで通っているんだ。」
昨日は自宅に帰れたので我らがドライバーも心なしかリフレッシュしているようだった。
「今日は、前半はグッド・ロード、後半はバッド・ロードだ。」
「ふーん。」
今日も後半はダート走行があるらしい。
途中、リフトバレーを見渡す崖っぷちの展望台に立ち寄った。この「大地溝帯」は、地殻変動によって陸地が徐々に離れつつあるところで、今でも年に2ミリ?ずつ動いているらしい。展望台とはいっても、今にも崩れそうな木組みの台に土産物屋が乗っかっているだけで、開店準備中の店の主人が、さっそくMに何か売り込み始めた。こうして立ち寄る各地の土産物屋はたいていサファリドライバーとツーカーの関係で、トイレ休憩の見返りとして商品を買わせようというわけだ。
展望台から眺めるリフトバレーは、大陸の裂け目というよりなんだか巨大な盆地のようだった。よく見るとその真ん中に白く光る点のようなものが見えたので聞いてみると、アメリカの観測所のアンテナだという。きっとよからぬ観測を日夜おこなっているのだろう。
土産物屋で灰皿を買った。といっても我々は喫わないので友人への土産だ。その灰皿はおそろしくヘタクソなリフトバレーの絵(アメリカのアンテナ付き!)と、ミミズの這ったような文字が踊る、なんだかとてもエキセントリックなシロモノであった。
リフトバレーの底へ駆け下り、西に進路を変えて、一路ナロックの街を目指す。見渡す限りの大平原に一本の道路が延びている。ときおりマサイ族とおもわれる男が牛をたくさん引き連れて歩く姿が目にはいるようになった。小さな頭と長くしなやかな足、土埃にまみれた布を纏い背筋をしゃんとのばして佇む姿は、激しく絵になる光景だった。
「このあたりはマサイ・ランドというんだ。」
とワウェルが教えてくれた。
そのワウェルの予告したとおり、そして我々の予想をはるかに上回り、ナロックへの道は最悪であった。アスファルトのいたるところにクレーター状の穴が空き、深い水たまりとなっている。はじめのうちはそれらを避けながら走っていたが、そのうち避けきれないほど穴だらけになってきた。結局路肩に片方のタイヤを落とし、もう片方だけ舗装の上に乗っけてヨタヨタ進む羽目になった。殆どの車がこうした片輪走行をするので赤土の路肩は削られ、舗装面から30センチも低くなっている。車は大きく傾きながら時折現れる水たまりに足を取られつつガタゴト進んでいく。
そのときである。前方から光るなにかが、砂塵を巻き上げながら猛スピードで突進してきた。
「ん? なんだなんだ!?」
その「物体X」は、爆音とともにあっという間に後方へと消えた。頭から埃を浴びせられたマサイの男も土煙の先を呆然と見つめている。
「サファリ・ラリーのテストをしているんだ。」
とワウェルが振り向いて言った。2週間後の本番に備えて、ワークスチームがプレ・ランを行っているらしい。テクノロジーを満載した「サバンナのF1」をもってすれば、月面同然のこの道も高速道路になってしまうのだろう。でも、いくら広いアフリカだからとはいえ、人や牛も通行する公道でそういうことすんなよ。あぶねーじゃねーか、まったく!
「月面走行」はさらに1時間以上も続いた。実はマサイ・マラへはケニヤ航空の国内便も運行されているのだが、
「機体は1945年製です。」
と聞いてやめた。1945年といえば東京がB29の空襲に遭って焼け野原になっていた頃である。そんなものが現役で人を乗せて飛んでいるというのは日本人の常識では考えられないが、ケニヤの人は物をとても大事にするのできっと墜落するまで使うのだろう。
激しく悪路に揉まれグッタリときたところで、ようやくマサイ・マラ国立保護区のゲートに到着。わっと人が集まってきた。車が止まる=物売りが集まるという光景にも慣れてきた。手に木彫りのネックレスのような物をたくさんぶらさげたマサイの女たちだった。色鮮やかな装飾具を身につけ、耳にはなんとゴルフボールがすっぽり入ってしまうぐらいの巨大な穴が空いている。
「バルペン? ワッチ?」
車の窓から土産物を持った手を突っ込んで、口々にこう言っている。ボールペンや時計を持っていないかと聞いているのだ。もってないよ、と僕が嘘を付くと彼女たちは「そんなことはないだろう」とでも言いたげに車の中を見回していたが、次の車が到着すると全員ワーッとそっちに行ってしまった。2つとも大切な旅の道具なので、ここで交換してしまう訳にもいかないのだ。
ゲートをくぐって保護区内に入っても、これといって風景は変わらなかった。昼どきということもありすれ違うサファリカーもまばらで、20分ほどで、宿泊地の「キーコロック・ロッジ」に到着。ここは日本人に大変人気があるそうだ。
ロッジの敷地内に入ると、そこには別世界が広がっていた。ロッジが整然と並ぶ敷地には一面に芝生が敷きつめられ、花壇には色とりどりの花が咲いている。一言で言えば、「高級ゴルフ場のクラブハウス」といったところ。きれいに舗装されたロータリーで車を降り、マサイの槍と楯が飾ってある玄関をくぐって宿泊の手続きをする。すかさずおつかれパッションフルーツジュース!!気が利くねエ。案内された部屋も清潔で、日当たり、風通しともに申しぶんない。悪路の果ての桃源郷ではやくも極楽モードに突入、夕方のサファリに思いを馳せる2人であった。
敷地内ではたくさんの野鳥を観察することができた。なかでもアカシアの木に巣を作っているハタオリドリはもっとも数が多く、パンくずなどを投げると、数十羽がわっと群がってくる。そのうちほかの種類の鳥も混じるようになり、最後には手から直接パンをついばむものまで現れた。ここだけで10種以上をゲット。そうこうするうち夕方のサファリの時間となる。
マサイ・マラはゆるやかな起伏の丘が地平線の彼方まで続く大平原である。この平原は、国境を越えてタンザニアのセレンゲティ国立公園までつづいており、いったいどのくらいの広さなのか見当もつかなかった.。その日の夕方のサファリは、動物の数は少なかったものの、サーバルやブッシュバックなどサンブルで見ることの出来なかったものに出会えたので、我々は満足だった。
戻ると夕食である。いつものように食堂へ行くと、ウエイターが妻にだけバラの花をくれた。今日はバレンタインデーなのだ。日本では女が男にチョコレートをあげたり、ついでにアレもあげたりということになっているようだが、ケニヤ人の解釈は、さしずめ「女性の日」というところか。バラは乾いた空気のせいで干からびてしまっていたが、こういう気配りは気分がいいものである。食堂を見渡すとさまざまな国の人たちが集まっていた。やはり多いのはヨーロッパからの観光客で、特にイギリス人は一番多い。隣のテーブルの家族は、イタリア人のようだった。アメリカ人も多く、彼らはどこでもTシャツに短パン姿なのですぐに分かる。韓国人も何組か見かけた。日本人のツアー客もいたが、こうして遠く離れたアフリカで出会うと、なんとなく旅情が薄れてしまうような気がして困った。もっとも相手もそう思っているだろうからお互い様である。
突然、ウエイターやコックたちがフライパンやナベを打ち鳴らし、歌いながら食堂に入ってきた。ケニヤ版ドレミの歌”ジャンボ・ケニヤ”(仮称)である。詞はもちろんスワヒリ語だが、ケニヤという国を実によく表している陽気なうたである。そしてこれが妙に耳にこびり付いて離れない魔のメロディなのだ。歌に続いて大きなケーキが運びこまれ、アメリカ人らしいグループのテーブルに置かれた。誕生日を迎えた女性がいるらしい。ナベカマ楽団による「ハッピーバースデイ」の合唱ののち、ローソクの火が吹き消され食堂中が拍手喝采、ケーキは切り分けられて全員のテーブルに配られた。我々のテーブルに来た商売上手のウエイターくんが抜け目なく、
「ハネムーンなんだろ? 君たちもどうだい?」
と言ってきたが、もちろん適当に理由を付けて断った。
翌朝5時30分、ロビーでワウェルと待ち合わせ。彼はコーヒーが好きらしく、必ず
「コーヒーを飲んだら出発しよう。」
という。「キリマンジャロ」の本場だけあって、味はなかなかのものである。
ロッジの門を出るとサファリカーは思い思いの方角へ散らばっていく。丘に登ると、トムソンガゼル、インパラ、エランドなどの群れに出会った。トムソンガゼルが角をぶつけて争う「カシャ!」という乾いた音が、朝の冷涼な空気に響く。上空を気球がゆっくりと通過していくが、やはり朝もやのため見晴らしもそれほど良くはなさそうだった。(ちなみにこの「気球サファリ」はロッジで前の日の晩に申し込むことが出来るが、事故の際の補償は一切無い(誓約書にサインさせられる)。また2時間で40000円程度という超豪華オプションである。)
サファリを終えてロッジに帰る途中、草原の彼方に牛を連れたマサイの男を見つけた。直線にして約1.5キロほどだろうか。マサイは写真に撮られるのを極端に嫌うというのは有名だが、これだけ離れていれば大丈夫だろう。
「写真に撮っても大丈夫かなあ?」
「いや、彼らはとても目がいいから、この車を覚えていて、後で石を投げられたりするからダメだ。」
確かに双眼鏡で覗くと、マサイの男がじっとこちらを見ているのがわかった。
「もしマサイを撮りたいんだったら、マサイの村に行くのはどうだい?」
と彼は勧めてくれたが、それが観光マサイ村であることは容易に想像できたので、明日までに決めるよ、と答えておいた。
夕食のため食堂に入っていくと、今夜のイベントの張り紙があった。
「MASAI DANCE」
っつーことは、マサイの男が輪になってぴょんぴょん垂直跳びをするアレかい? 非常に期待しつつ、夕食をいただく。
「地球の歩き方」には、マサイはその勇敢な性格ゆえに、警備員などの仕事に就く者も多いと書いてあった。このロッジの警備員も制服を着てはいるが、長い足に小さな頭、手には懐中電灯と弓矢を持っている。
「弓矢?」
日本人の常識では考えられないが、いつ現れるかもしれない強盗やライオンを相手とするケニヤの警備員にしてみれば必須のアイテムなのだ。
「あのヒト、ぜったいマサイだよ。きいてみようよ。」
Mは鼻息も荒くマサイとの接触に気合い充分であった。
夕食も終わり、観光客が思い思いにくつろいでいるロビーに、マサイは唐突に現れた。 「ウッ、シュッ、ウッ、シュッ」
低い唸り声と鋭い吐息を交互に繰り返し、リズムに合わせてスキップするように、1列になってテラスへ。全員が赤い布を纏い、手に棒を持っている。本来はこれが槍なのだろう。そしておもむろに円陣を組み歌い出した。独特の言語のため、なにを意味する歌なのかはまったくわからない。
歌が一巡すると、いよいよジャンピングタイムである。「マサイ・ジャンプ」は、男が女にプロポーズするときの儀式であり、女はジャンプの高さや格好よさを判断基準として、自分の夫にふさわしい男を選ぶのだという。その場で1人あたり5〜6回ずつぴょーんぴょーんと垂直跳びをするのだが、これがなかなかすごい。ゆうに1m近くは跳んでおり、しかも徐々に高くなっていく。足元は石畳なので、着地の時に踵を打つ鈍い音が響いていたが、彼らは気にする様子もなかった。全員がひととおり跳びおわると、ふたたび1列になって謳いながらスキップをはじめた。
そのときである。それまで隅っこで眺めていたあの警備員が、突然、弓矢と懐中電灯を放り投げ、素早くその列に加わったのだ。
「うわあ、やっぱりマサイだったんだ!!」
彼はそのまま一緒に円陣を組み、謳いながらジャンプを始めた。観光客のためのショーとはいえ、この歌とリズムが、彼のマサイとしての本能を直撃したのだろう。
3度同じパターンを繰り返して、マサイ・ダンスは終わった。警備員くんは再び懐中電灯と弓矢を手に取り、職務に戻っていった。アメリカ人らしい老婦人が彼らにさかんに話しかけている。ジャンプは彼女のハートを直撃してしまったらしく、さかんにファンタスティック、グレイト、と連発している。
彼らはロッジの門を出て、夜のサバンナに消えていった。といっても近くに彼らの集落はないので、どこかで野営でもするのだろうか。黒人である彼らの顔や手足はすぐに闇に紛れて見えなくなってしまい、赤い布だけがぼんやりと浮かび上がって、なんだか透明人間のようだった。しかし翌朝ワウェルに、彼らは15キロも離れた集落から歩いて営業に来ており、終わるとまた夜のうちに歩いて帰るのだと聞かされ、衝撃をうける我々であった。牛を追って1日に50キロくらい歩くことも少なくないという。
「彼らは暗闇でも目が利くからノープロブレムだ。」
はたしてアフリカ人の身体能力に限界はあるのか!?
前夜のマサイダンスですっかり熱くなったわれわれは、朝には「マサイに会いたい会いたい!」のヒトになっていた。Mは早くも昨日の警備員くんを捕まえ記念撮影である。不用意に写真を撮ると法外なモデル料を請求されると聞いたが、さすがにロッジの従業員はそういうことはしないようだった。
というわけで朝食後、マサイの集落に向けて出発した。最近はマサイといえども国立公園の中に居住することが制限されているのか、集落はゲートの外側にずらりと並んでいる。道の両側に並ぶ集落を見ながらしばらく走ると、ある集落の前でワウェルは車を止めた。どうやらここが彼の行きつけの村らしかった。
すぐに村から数人の男が出てきてワウェルと話し始めた。その中の黄色い布を纏った男がこの村のリーダーだという。その男はマサイの割にはがっちりした体格をしていたが、とりあえずこの男に入村料1人20ドルを払う。今になって考えると、東京ディズニーランドの入園料にも匹敵するこの入村料は、どう考えても常識はずれのボッタクリ価格なのだが、マサイ熱に冒されていたせいでディスカウントもせずに支払ってしまったことが非常に悔やまれる。
マサイの集落は、10戸単位の小部落がいくつも集まって形成されている。我々が村に入ると男の子が寄ってきた。あいさつ代わりに頭をなでると不思議そうな顔をして行ってしまった。ハエが群がってきてとてもくすぐったかったが、すぐに慣れてしまった。
マサイは独特の言語をもっているが、驚いたことにこの集落には英語を話せる若者がいた。彼はその秀でた才能のゆえに、若さの割にはかなりの地位にいるようだった。
「写真は何枚撮ってもオッケーだ。」
金さえ受け取ってしまえば何でもアリなのである。そうこうするうちに、マサイの奥様方によるお約束の「歓迎の歌」が始まった。
「ナントカカントカ、アイヤー、ナントカカントカ、アイヤー」
と抑揚のあまりないリズムで続く。例によって何を言っているのかはわからないが、まるでシナリオでもあるかのようなスムーズな段取りから、相当に観光客慣れしているということは容易に想像できた。きっとこの後はモーレツなセールス攻勢が待っているに違いない。
英語くんが「家の中を案内するよ。」というので、いよいよマサイハウスの中へ。木の枝などの骨組みに牛糞を幾重にも塗り込めて作られたものだが、思いのほか臭いは気にならない。人間のウンコと違って馬や牛など草食動物の糞は乾燥してしまえばそれほど匂わないのだ。家の内部は照明などもちろんなく、明かり取りの穴が開いているだけでかなり暗かった。中央の土間(=牛糞間)に掘られたかまどからは煙が立ち上っている。内部はそれぞれ2畳ほどの部屋に区切られ、彼らの財産であるヤギ用の部屋も設けられている。家の中には誰もいなかったが、年長者を特に敬うというマサイらしく、親の寝室だという部屋は、一番広かった。
ふと後ろを振り返ると、外では女たちが「マサイ・マーケット」の開店準備にてんやわんやの大騒ぎであった。すごい勢いで敷物を広げ、商品を陳列している。そのあまりのパニックぶりは、なんだかとてもコミカルでおかしかった。
家の外に出るときに、英語くんが耳元で囁いた。
「子供を学校に行かせたいので、寄付をしてくれないか。」
そう言って彼は、欧米人のサインと金額がメモ書きされた紙切れを広げて見せた。ほかの旅行客も寄付しているぞ、と言いたいのだ。そら来た、と思ったが、
「ちょっと考えさせてくれ。」
とお茶を濁して外へ。ハナから疑ってかかるのは悪いと思うが、みんなの前で言わないところをみると、彼の小遣い稼ぎの可能性が高い。
果たして屋外には、盛大なマサイ土産物店が開店され、我々が家の外に出ると同時に激しい売り込み合戦が始まった。みな口々に何か叫んでいるが、何を言っているのかはよくわからないの。が、我々が単なるカモとしか見られていないことだけはハッキリわかる。
「よおし、そういうことかい!」
観光マサイ村の現実を知った僕は、ここから「売り手VS買い手」に徹することに心を決めた。さっそく数ある商品の中でも以前から土産にほしかった「お面」を手に取る。
「これ、いくら?」
「700シリングだ。」
あま〜い。これとほぼ同じ程度のものをロッジの土産物屋でチェック済みなのだ。
「ロッジの方がずっと安いぞ、400だ。」
「ノー、ノー。」
まあ、すんなり値切れるわけもない。
「じゃあいらない。」
とたんに店主(敷物の前に座っていた女性)が慌てだした。英語くんがなにやら話している。
「500なら売ると言っている。これ以上は安くできない。」
英語くんもなかなかの商売上手である。微妙なところを衝いてくる。ここで僕は、このときのために日本から持ち込んだ伝家の宝刀「デジタル腕時計」を取り出した。ワゴンセールで1個350円で売っていた超安物だが、世界に誇る日本の腕時計の評価は高いに違いない。
一瞬、全員が静まり返った。
ところがマサイも強者である。「ちょっと貸してくれ」とその時計を手に取ると、天にかざしてまじまじと品定めを始めた。男たちが数人集まり、順番に眺めた後、輪になって協議を始めた。そのとき、僕の目に映ったのは・・・リーダーの手に光る金属の腕時計!!!
「この時計プラス150シリングでオーケーだ。」
くそー、この時計で土産物大量ゲットの夢は儚くも崩れ去った。よく見ると他にも腕時計をした者やスニーカーを履いた者がおり、かなりの物資が観光客の手で持ち込まれているようだった。結局、おまけにブレスレットを付けさせて交渉は終了、その他合計3個のお面と小物少々を購入。
ひととおり買い物が終わると英語くんに、子供の学校のためだ、といって500シリングを渡した。通訳に対するチップとしての気持ちもまあないこともないが、公衆の面前で渡せば独り占めすることもないだろう。紙切れに僕のサインが残った。
入り口で待っていたワウェルも加わってなぜか記念撮影。男たちの纏う布は新しく鮮やかだが、女たちのそれは古くて粗末なものが多かった。こうして観光客から得た収入も、ほとんどが男が分配してしまうのだろう。しかも歓迎セレモニーに始まり土産物の販売まで働いていたのはすべて女性であったことを考えると、マサイの社会では圧倒的に男が優位なのだろう。子供が駆け寄ってきた。さっきのように頭をなでてやると、今度はニコリと笑った。ゴワゴワした髪の毛の手触りがいつまでも手のひらに残った。