コラム

かけっこなんて大嫌い!

 まさか今、自分が走る人になるなんて、想像もしてませんでした。子どもの頃は、体育なんて大嫌い、体育がある日は、その日はずっと憂鬱、私はそんな子でした。
 当然のことながら、運動会も憂鬱のひとつのタネでした。「徒競走」と称して5人くらいが一斉に順番に走っていくのですが、なんでこんなことするのか全然、わかりませんでした。100メートルを走って、1番とかドベとか一喜一憂しているけど、何番目になってもなんとも思わない、1番になれるわけがないので、徒競走そのものに価値をおかないようにしていた、というのが正しいかもしれません。
 運動会というものも、やり方や意義、位置付けなど、あれこれ議論はされているようです。クラス対抗リレーの選手選びは、物議をかもしているようだし、徒競走にしてもタイムがだいたい同じ人と一緒に走るようにするなどです。そんなことすると、最初のタイム計測で抜いて走って、本番は遅い子と一緒に走って、1番になろうという子もでてくるそうです。結局は、私のような遅い子が利用されてしまうのです。べつに減るものでもないし、利用されたって、かまわないのですが。
 一方で運動会不要論なんかもあって、私としては諸手をあげて賛同したいところです。ところが、そういうと必ず、「勉強ができない子が、運動で頑張ってることをアピールする場」だという考えが登場します。勉強ばかりしている子は運動が苦手で、そうでない子は元気で活発ということだろうが、勉強と運動能力が相反する場合もあればそうでない場合もあるのです。運動ができることよりも、勉強ができて成績がいいことのほうが価値があるようにいわれているからこそ、かえって年に1回の運動会が、その日だけは価値あるものとして奉っているのかもしれません。
 勉強ができるとか、運動ができるということは、本来、相対的なもので一概にいえるものではないはずなのに徒競走で1番になったり、リレーの選手に選抜されるということをして、運動ができると考えてしまうのは、相当、無理があるはずなんですが、そんなに深く考える人はいません。一方、「勉強ができる」ということも、だいたいわかりそうなものですが、テストの点数が公開されるわけでもなく、クラスでの序列がわかるわけでもないのです。
 「かけっこ」では誰が早くて、誰が遅いのかが一目瞭然、ごまかせかません。だからこそ、一喜一憂するのではなく、価値のないものと思おうとする。でも、裏返せばそれは、順位にこだわるということです。こだわっているから、こだわらないように逃避しているにすぎないのです。
 だから、私は「かけっこ」が嫌いなんです。

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