駅伝日本一 運命のたすきをつなげ

プロジェクトX 03年7月8日 NHK

 まず、ラグビーの山口先生を取り上げた「泣き虫先生」とテーマがかぶらないかということがありましたが、この点は大丈夫でした。
 山口先生のが、生徒に光りをあてたのに対して、今回は、むしろ渡辺先生の生き方に光をあてていたからです。

 渡辺先生が西脇工業高校に赴任されて見た、そこの生徒たちの姿がご自身の姿と重なって、渡辺先生の「生き直し」が、彼らとともに始まります。
 「自分の姿と生徒の姿が重なった」、それに気づいたことが転機になられたのですが、やはりそれに「気づく」、つまり、自分を振り返る、自分を見つめる姿があったからこそ、できたのだと思います。ほんとうの「問題教員」のままだったら、自分を振り返ることはなかったでしょうから。
 また、もうひとつ、お父さまのことも、渡辺先生には大きかったと思います。
 渡辺先生が日体大へすすまれるのに、お父さまは随分とご苦労されました。その期待に応えられないまま、陸上をやめざるを得なかったこと、その気持ちが「問題教員」のままに渡辺先生をしていなかったのだと思います。
 その後、西工の陸上部への生徒の勧誘の際、門前払いをされても、いいもの(結果)を求めるならば、手をかけること、それをお父さまから学ばれて、強い陸上部を作っていかれました。

 わたしたちは、日常でいろいろな経験をしています。そこから何を学んで、自分がどうなっていきたいのか。いつも哲学者のように、そんなことを考えるのではなくて、ごくふつうの日常のなかで、それにどれだけ気づくことができるのか、自分のまわりで起こっていることに敏感であること、それが大切なんだと思います。

 また、ある生徒が経験のない4000m走のとき、走れるかどうかドキドキしていて、半分を越えても、集団から後れずに走っていたこと。でもそれは、まわりで先輩たちが、彼にあわせて、遅れそうになったら、ペースを落として彼を引っ張っていたこと。
 ひとりでは走れないけれど、みんなでは走れる。(こう書いてしまうとあまりに簡単なんですが、走っていると、自然と身体(足)が動いてしまうときがあるんです。なんで、この力は何? なんで走れるの? というその感覚がうまく表現できません。)
 あらためて、人間の力って、大きなと思います。
 ある生徒に自信をつけさせた4000m走。
どんなに科学的トレーニングが発達して、トレーニング機器が発達しても、こういう距離走は、人間にしかできないと思います。
 気持ちをひとつにしたときの人間の力、それは科学の力の及ばない、大きなものなのです。

 組織、チーム等、人が集まってなにかをするとき、気持ちがひとつにならなければ、ものごとは進んでいきません。ひとりひとりの力を足し算しただけでなくて、気持ちをひとつにしたときに出る力をひとりがちょっとつけることで、全体が大きく動いて、大きな力になります。

気持ちをひとつにするというと、「錦の御旗」のような、絶対的なものを思い浮かべてしまいます。
「こうあらねばならない」「こうあるべき」、そういう上からの押し付けでなく、自ら考えて、自ら選びとった結果、その結果が「ひとつ」になっていくこと、その過程が大切なのだと思います。

 すべてのことにいえると思うのですが、あらなめて日々をどう過ごしていくかということの大切さを感じています。毎日、少し努力すること、努力できるような状況に自分をおいておくこと、それを継続してやっていくのが、ほんとうに力がある人だと思います。
 10年以上前、藤本先生(藤本義一さん)に「1日2時間、自分のために何かをしなさい」と言われました。2時間、本を読む、2時間、何か書く。自分を高めるために努力をすることを続けなさいと。
 学校へ行っている間は、何かを与えられるけれど、そういう環境にないと、自ら何かするのは、とても力のいることです。そういうわたしたちに、藤本先生は自分を高める努力をするように言われました。
 「能力をもっているのだから、努力をすること」、渡辺先生の言葉と通じるものを感じています。
 藤本先生に最初に言われたときは、その言葉の意味があまり理解できませんでした。でも、今、あらためて「継続して自分を高めるための努力をする」ことの大切さを感じています。

 わたしは今、40代です。
 たいして努力することをしなくても、目の前にある仕事をこなしていくだけで、満足とはいかなくても「そこそこ」の充実感は得られます。まさかこんな仕事をするとは思わなかったけれども、いい仕事をさせてもらていると思っています。だから今のまま、仕事をして、走って、そして、ありがたいことに、webの世界が、わたしのような者にも自己表現の場をもたせてくれます。
 でもやっぱり現状に満足していては、いけないと思います。
 もっと努力したら、もっといい仕事ができます。
 もっと練習したら、100キロをもっと楽しく走れると思います。
 もっと書いたら、さらにいいものが書けると思います。

 「頑張る」ことは、あまりかっこよくないという風潮だけど、わたしは、頑張っている人が好きです。
 だから、故障寸前のトレーニングをする陸上選手が好きなんだと思います。
 
 わたしは高校生のとき、わりと一生懸命、勉強をしていました。わたしが努力したほど、それは成果には繋がっていませんが、今、思うと「勉強することが、将来のしあわせにつながる」と信じていた自分に後悔しています。そういう目標をもっていたから、信じて勉強もしていたし、少しは勉強したから大学にも行けたんだと思います。だから、すべてが後悔することではないけれども、でも、わたしは高校、大学を含めて、そのときに大きな忘れ物をしていたように思います。

 渡辺先生の「生き直し」の過程をみて、挫折をどう乗り越えていくのかを感じています。
 日体大を卒業されるときに「どうでもいいや」と思われたこと、それが「生き直し」の原点だと思いました。

ここから、わたしの感想です。

 渡辺公二先生が指導される兵庫県立西脇工業高校の男子陸上部(以下、西工)は、全国高校駅伝で全国制覇8回という偉業を成し遂げている強豪校です。でも、渡辺先生と陸上との関わりは決して、順風満帆なものではありませんでした。
 プロジェクトXでは、渡辺先生が西工で陸上の指導を始められたときを追って、今の西工の活躍の礎を紹介しています。

 昭和35年(1960年)、渡辺先生は日体大の4年生、ラジオからは箱根駅伝の中継が聴こえてきます。箱根をかつて共に練習した仲間(同級生)が走っているのです。その様子を聞いて渡辺先生の失意はさらに深まります。
 
 渡辺先生は、九州出身、走るのが大好きな生徒でした。日体大へすすまれて3ヵ月、風呂場でひげそり用のカミソリが落ちて、アキレス腱の怪我。怪我が回復して再び走っても、思うように走れずに、陸上をやめてしまわれます。渡辺先生が日体大にすすまれのに、ご両親はくらしをきりつめてこられました。そんなご両親に申し訳ないという気持ちが、気持ちをすさませることになりました。
 
 同級生が箱根を走り、一流企業に就職して陸上を続けられるのに対し、大阪で体育教師になられた渡辺先生は、当時でいえば「落ちこぼれ」ということだったらしいです。
 渡辺先生は、定時には学校を出て、深夜まで飲み歩くという「問題教師」でした。「どうでもいいや」と思っていられたそうです。
 
 昭和43年(1968年)、渡辺先生は兵庫県立西脇工業高校へ赴任されました。
 授業中は半分の生徒が寝ている、そのうち生徒が授業をボイコットして教室をでていく、という状態でした。渡辺先生は、当初、生徒たちに「かかわるまい」と思われたそうです。
 ある日、校門で学生服のボタンを隣の進学校のボタンにかえている生徒をみつけます。「西脇工業だとわかったら笑われる」からと生徒はいいました。渡辺先生は、その生徒の姿とご自身が重なったそうです。15年間、劣等感のなかで過ごされてきた、ご自身と誇りをもてない生徒たちの姿が同じようにみえたそうです。この生徒たちをなんとかしたいという思いが、陸上部の指導をされるきっかけでした。陸上部は12人。当時の部員の方は、「覇気がなかった」と振り返られます。

 昭和46年(1971年)春、出場した駅伝大会で、1区でいきなり遅れ、4区でとうとう繰り上げスタートになってしまいました。そのときに「西脇工業は走るのも遅い」と言われました。悔しさに泣く部員たちをみて、渡辺先生は「こいつらと一緒に(陸上をやる)、鬼になる」と決心されたそうです。
 箱根を走れずに、両親に悲しい思いをさせたことが、ずっと渡辺先生の気持ちをすさませていたのでした。昭和48年(1973年)冬、お酒をやめられました。

 でも、陸上をはなれて15年以上経っているので、指導方法がわかりませんでした。
 ある時、部員たちのランニングをみて、3キロを越えると腰がさがってスピードが落ちていることに気づかれました。また、体育の授業で、逆上がりができない部員。上半身が弱いということに気づかれます。
 しかし当時の陸上指導は「上半身を鍛えて筋肉をつけると重くなって膝を痛める」というのが定石でした。だから、上半身を鍛えることをしていいのかどうか、迷われた末、「自分のやり方」を試みられました。20回の懸垂、そして最後に1分20秒の静止。それをクリアしていくことによって、精神的な安定も得られたそうです。

 でも、ほかの場面でも苦悩は続きました。
 中学へ陸上部への勧誘へいくと「あなたの高校へは生徒はやれない」と門前払いをされました。そんなときに思い出したのが、農業をされていたお父さまの「米の出来は、たんぼにつけた足跡の数で決まる」という言葉でした。楽をしないこと、粘り強く取り組むこと、それを実践されます。
 中学の先生のなかにも、渡辺先生に応える方もいらっしゃるようになりました。
 部員たちの力で整備されたトラック、気持ちのいい挨拶、そういう姿が、西脇工業への生徒をおくることにつながったようです。

 昭和50年(1975年)冬には、最速ランナーが病気(肝機能障害)で退部を申し出るということがありました。彼の姿と陸上部をやめたご自身の姿が重なりました。その部員はマネージャーとして部に残ることになりました。
 昭和51年(1976年)、「ごんたくれ」の生徒を預かることになります。その生徒は、教師になぐりかかると、問題を起こします。その生徒が陸上部を離れたら、雪崩のように生徒が去っていくと思われた渡辺先生は、なんとかこの生徒をひきとめるようにと、4000メートル走を指示して、この生徒に自信をもたせます。この選手を囲んで、遅れそうになったら、自然をペースを落として、遅れないように先輩たちが配慮していたのでした。
 渡辺先生は、部員たちに日記をつけさせるそうです。食事や練習内容などを書かせて、生徒の様子をみます。生徒になにかあると、文字にあらわれるそうです。生徒の変化をすぐに察知して、配慮をします。
 昭和52年(1977年)、病気で走れなくなった部員が戻ってきました。完治したので、また走れると。エースの復活です。

 11月の兵庫県の大会です。
 「下馬評」は、3人の強いランナーを揃えた飾磨工業、一辺倒でした。飾磨には「三本の矢」と呼ばれる選手がいます。ポイントは、長い区間の1区、3区、4区。「飾磨 三本の矢」とどう戦うかです。
 渡辺先生は、大会当日、一本の襷に「誇りをかけろ、一番で飛び込んでこい」と部員たちに言われました。
 1区は、残り1.5キロで飾磨の選手と一騎打ちになり
 「はなれるな、おまえの根性をみせてやれ」と檄をとばされます。2区でトップにたち、3区でも27秒の差をつけます。4区では、中間で飾磨の選手に並ばれますが、たすきを握り、仲間のことを思い頑張ります。
 2時間12分9秒という記録で、優勝です。渡辺先生は、控えの選手のところにかけより「おまえらのおかげ」と言われました。
 そしてまた、渡辺先生が、人生の誇りを取り戻された瞬間でもありました。

 「努力をすること、人はみんな能力をもっているのだから。自信を育てること」と、渡辺先生は言われます。

 そして、昭和57年(1982年)、西脇工業高校は全国制覇を成し遂げます。

あらすじ

花子のノート