向田邦子「阿修羅のごとく」

T はじめに

 「阿修羅のごとく」は、私が向田邦子という脚本家を意識してみた最初のドラマである。「時間ですよ」、「寺内貫太郎一家」というホームコメディのドラマは見たことがあるが、そこには、森光子のおかみさんや小林亜星の頑固オヤジ、浅田美代子のとなりのミヨちゃんや悠木千帆(樹木希林)のおきん婆さんがいても、向田邦子という脚本家はみえていなかった。

 「阿修羅のごとく」はパートTが一九七九年一月に三回、パートUが一九八〇年一月に四回、NHKで放映されている。当時、私は高校生で、どういう経過でこのドラマを見たのか全く覚えていないが、とにかくパートTもパートUもくいいるように見ていた。

 その向田邦子が一九八〇年に直木賞を受賞したということも知らなかった。だがその翌年、台湾での飛行機事故で向田が急逝したことを知ったときには、ひどくショックをうけた。「阿修羅のごとく」というドラマしか知らないはずなのに、特別、思い入れがあったわけでもないのに、大きな喪失感をもった。「阿修羅のごとく」のような作品にはもう出会えないのかと思ったのかもしれない。

 その後、『男どき 女どき』の短編が、ドラマ化されたのを見たとき、向田の作品がもう新しく生み出されることはないことを実感して、さらに喪失感を強くした。そして、数少ない小説の『思い出トランプ』『男どき、女どき』という本を手にしても、最初の何編かは読めても、最後まで読むことができなかった。最後まで読んでしまうと、もう向田との出会いが終わってしまいそうだったからだ。

 私が向田の作品が好きなのは、日常の何気ないところで、自分の本質をつくような台詞や仕草があるからだ。ドラマとして見ることで、自分でも気付いていないところにはっとしたり、自分の心の動きを再確認したりする。登場人物の誰かに自己投影して、共感したり反感をもったりして、自分を再確認する。そんな心の揺さぶりが、向田作品の中にはある。

 「阿修羅のごとく」は、家をはなれた四姉妹に、「父親の浮気」という事件を通して起こったそれぞれの騒動を描いたドラマである。四姉妹とその母という五人の女を登場させ、その内面を見事に表出させたドラマといえる。一九七〇年頃のドラマといえば、「肝っ玉かあさん」(一九六八年)に代表される母親中心型ホームドラマ(平原日出男 二〇〇〇)が典型である。大家族のなかでおかみさんが奮戦するという非現実の喜怒哀楽に、視聴者はひかれていたのだと思う。

 ドラマとは違って現実では、「結婚、出産」という「フルコース」のような人生が、たいして違和感なく「女の人生」として視聴者のなかにはあったのではないだろうか。ごく一面的にとらえがちな「女の人生」に、「父親の浮気」という「事件」を与えて、それぞれの女の生き方を照射した。それが「阿修羅のごとく」というドラマのこれまでになかった斬新さである。「家族」をもとに展開する五人の人生の誰かに、あるいはその部分、部分に共感したり、反感をいだいたりして、視聴者はドラマに引き込まれていったのではないだろうか。

 当時高校生の私が、このドラマに惹かれたのも、「家族」というものをどこかで客観視しはじめていて、自分がどんなふうに「家族」から離れていくのか、自分を誰ともなしに投影していたからだと思う。

 「阿修羅」とは「インド民間信仰上の魔族。外には仁義礼智信を掲げるかにみえるが、内には猜疑心がつよく、日常争いを好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口を言い合あう。怒りの生命の象徴。争いの絶えない世界」とされている(ドラマの初回では、この説明がテロップで出て、ナレーションが入る)。五人の女たちがそれぞれの「阿修羅」を「外」に対してではなく、一見「内」である「家族」に対して表出させている。そして、その女たちが「阿修羅」を見せたときに、視聴者は自分の「阿修羅」と対峙するのではないだろうか。 

 ここでは「阿修羅のごとく」で私が惹かれた場面や台詞を追っていき、女たちの多様さ、自由さとともに、「家族」に対する微妙な心の動きについて考えていきたいと思う。

 

U 投げる

 「卓袱台をひっくりかえす」といえば頑固オヤジの定番の行為のようであるが、このドラマでは、たびたびそれに似た場面が登場する。

 三女滝子(いしだあゆみ)が、実家の壁のキズをみて、やがて結婚する勝又静雄(宇崎竜童)に「うちみんなやる(投げる)のよ」「遺伝じゃないかな」(二九五)と話しているように、「投げる」ことでその場の感情を表出させている場面がいくつか登場する。

 長女綱子(加藤治子)の家を次女巻子(八千草薫)が父親のことを相談するために訪ねたとき、綱子は花を活けにいっている料亭の主人桝川貞治(菅原謙次)と密会中だった。綱子は夫を亡くしたあと、華道の師匠をして生活している。一人息子は仙台で銀行勤めをしている。

 綱子と卓治の姿に驚いて、一目散に走り去ろうとした巻子に綱子が追いつき、話があると綱子の家に連れ戻し、やがて二人は気まずいながらもおだやかに歓談しはじめる。くったくのない雰囲気になり綱子は安心し、貞治と食べるべくとっていたうな重を台所からもってきて巻子に出す。

巻子「お金、誰がはらったの」

綱子「え?」

巻子「あの人じゃないの」

綱子「巻子− 」

 いきなり巻子、うな重をとると、パッと台所のほうへほうり出す。(五三)

 

 それまでのおだやかに歓談していたのとは一転して、表情も変えず一点を見つめて座る巻子の姿が、まさに「阿修羅」なのであろう。

 夫鷹男(パートT緒形拳 パートU露口茂)が「浮気」をしているのではという不安をつねにもちながら、前日には父親に世話をしている女がいるということがわかり、そしてそれを相談しようとした姉が妻子ある男と密会中だった。それはサラリーマンの妻として、また高校生、中学生の子どもの母として、姉妹の中で唯一「まとも」に生きているつもりの巻子には、許せない状況なのであろう。うな重をひっくりかえすことは、そのときの巻子にできる精一杯のことであり、表情を変えずに座ることで、自分の正しさを主張しているように思える。

 また、ふじ(大路三千緒)を亡くして一人暮らしをしている恒太郎(佐分利信)のボヤ騒ぎをきっかけに、勝又が下宿することになった、その引っ越しの日、四女咲子(風吹ジュン)が特上のすしを出前させたということがあった。咲子の夫、プロボクサーの陣内英光(深水三章)はチャンピオンになって、それまでの咲子がウエイトレスをして生活を支えるという状況とは、生活が一変して随分と羽振りがよくなったのである。 

 そのとき滝子は、「お父さん、あたしたちに押しつけといてなによ。こんなものでごまかさないでよ!」とすし桶をおっぽり出している(三〇二)。

 子どもの頃から、滝子と咲子は全然性格が違い、けんかばかりしていた。「勉強はダメだけど男の子は佃煮にするほどいた」(三八三)咲子に対して、「仕事も貯金もある」(三〇一)滝子。咲子が下積みの生活を支えていて、やがて陣内がチャンピオンになり、二人の立場が逆転する。パァッと派手に使えば勢いがついて必ずまた入ってくるといって、成金趣味のマンションに住み、外車に乗り、アメリカンレッドフォックスの毛皮を着る咲子。それを見せつける咲子が、滝子は許せなかった。自分の生き方に後ろめたさはなくても、自分にはできないことをし、自分にはないものをもっている咲子に対して、余計に苛立つのだろう。そんな咲子に、滝子はすし桶をおっぽり出すことしかできないでいるのだ。

 巻子や滝子がうな重やすし桶をひっくりかえすときの怒りは、いわば「正」の怒りといえるが、長女綱子は、どうしても関係を断つことのできない貞治とのことで、赤ぶどう酒を障子にぶちまけるということをする。貞治とは、綱子の家で密会中に料亭のおかみで妻の豊子(三条美紀)に踏み込まれ、ピストル(実は水鉄砲)を向けられるということがあって、一旦、別れを告げている。貞治となかなか逢うこともできず、一人息子も、勤務先の仙台から婚約者を連れてくる。ますます気落ちする綱子は、赤ぶどう酒を「パァッてやりたい」と言い、障子にぶちまけたいと示す(三二〇)。障子をはり替えるのを「やったげるよ」という貞治の言葉に甘えて、白い障子に向かってぶどう酒を叩きつける。

 そのとき、巻子や豊子が相次いで綱子の家を訪れるが、居留守をつかい、家の中では、貞治が黙って障子を張り替えている。外には出られない、家の中で気心の知れた貞治に感情をぶちまけるしかできない綱子のもどかしさが表れているのではないだろうか。

 滝子は「ものを投げる」のは、遺伝だと言った。子どもたちは、ふじがものを投げるところを子どもの頃、見ていたのだろうか。このドラマでは、ふじがものを投げる場面は一ヶ所だけ登場する。それ以外は、ふじはひたすら「おだやかな妻」を演じている。子どもたちから語られる母の姿も、「お母さん、お父さんにはいいもの着せてたけど自分はつつましかったもの」(二五八)、「働いて働いて働き通した一生」(二六三)、「あたしたちの知ってるお母さんて −洗濯したり、お米といだり、下着のつぎしてるお母さんしかいない」(二六六頁)であり、夫の「浮気」に対しても「見ぬことキヨシ」(五二)、「女は言ったら負け」(二〇〇)という態度である。そんなふじが、「阿修羅」になる。

 ふじがのんびり「でんでんむし」を歌いながら恒太郎のコートにブラシをかけていると、コートのポケットから浮気相手の友子(八木昌子)の子どものものと思われるミニ・カーがころがり出る。

 ふじ「 おまえのあたまはどこにある」

 ふじ、タタミの上を走らせたりする。いきなり、そのミニ・カーを襖に向って、力いっぱい叩きつける。襖の中央に食い込むように突きぬけるミニ・カー。おだやかな顔が一瞬、阿修羅に変る。

 ふじ「 角出せ やり出せ あたま出せ」(六〇)

というふうに、この場面だけは、向田は「阿修羅」という言葉を脚本に書いている。一瞬、スローになりながら、ふじがミニ・カーを投げ付ける場面は鬼気迫るものがある。そしてそのあと、おだやかに童謡を歌う姿に一層の迫力を感じるのである。

 ふじは、襖に向ってしかものを投げ付けられなかったのだろうか。ミニ・カーが投げ付けられるのは、恒太郎かその相手の女であるはずなのに。襖は後日、美しく花形に切った紙で修理されている。ふじが叩きつけた原因と花形の紙のイメージはあまりにもかけ離れている。その花形をふじはどんな思いで見ているのだろうか。ふじはミニ・カーを投げる自分を肯定しているのではないか。それを見ることで、自分の気持ちを保っているのかもしれない。

 襖にものを投げ付けることしかできないふじに比べ、娘たちは自らの感情を誰かにぶつけている。ふじの普段の顔がおだやかであればあるほど、一瞬見せる「阿修羅」の顔が一層、迫力あるものになっている。

V 食べる

 「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」では、たくさんの登場人物が食事シーンで一同に会するという場面が、必ずあった。大人数がコの字型(撮影上の制約でコの字型になる)になって、和気あいあいと団欒する場面に、我が家の食事風景との落差を感じた視聴者は多かったのではないだろうか。向田は食事場面をとり入れることで、その家の経済状態と各人の健康状態を描き、自然に家族全員が集まる場面を作ったのだという(松田良一 一九九六)。「食べる」という場面に、様々な執着を示したことは、「阿修羅のごとく」からも読み取れる。

 このドラマで最初に四姉妹が集まる場面は、丁度、鏡開きのときで、姉妹は子どもの頃の味である揚げ餅を食べて、はしゃいでいる。子どもの頃の味は姉妹に容易にその頃にタイムトリップさせる。また、母と四姉妹が文楽を見にいった帰りに、実家ですしを食べる場面でも、各人の性格を表している。「とろとかいくらとか、やわらかくておいしいもの、ずーと先、食べている」巻子、「どういうわけかいつもタコとかイカばっかし」の滝子、「穴子と卵はいつも人の分食べている」ふじ。ひとつのすし桶を前にしたときの、各人の力関係がそこに表れている。

 また別の日、実家に集まって、帰りの遅い恒太郎を待っていて、深夜に「おむすび」を作る場面でも、さりげなく姉妹の立場の違いを描いている。

 滝子「あら、巻子姉さん、三角なの?」

 咲子「うち、俵じゃなかった?」

 滝子「綱子姉さん「たいこ」型だ」

 巻子「オヨメにゆくと、行った先のかたちになるの」

 滝子「すみません、いつまでも俵型で」(一四〇)

 今でこそコンビニで、いろいろな形のおにぎりを日常に見ることができるが、向田はおにぎりの形ひとつで、嫁いだ者とそうでない者をさりげなく描いたのだ。これは食べ物へのこだわりを強くしていた向田ならではの、脚本ではないだろうか。

 同じようなことは、「すきやき」でも描かれている。滝子と勝又が結婚して、実家で恒太郎と住むようになって、そこへ綱子と巻子が訪れ、一緒にすきやきを食べる場面で、そこにじゃがいもが入っているのを見て、綱子と巻子は「うちのすき焼きにはこれが入っている」といって懐かしがる。

 滝子「お姉さんとこ、入れないの」

 巻子「いも入れると、甘くなるからいやだって」

 綱子「うちもそうなのよ」

 滝子「お義兄さん、いないんだから遠慮しないでいれりゃいいじゃない」(三八六)

 この場面は、食べ物へのこだわりというより、「家長」中心の食事風景をうかがうことができる。夫がいやだといえば、そこにはじゃがいもは入らない。食文化というものが、どう伝えられていくかは複雑であろうが、向田のなかには、「家長」中心の食卓というのが、強くあったのだろう。

 食事場面を通して、さまざまな描写をしているところは、他にもある。滝子が勝又との恋の予感がしているとき、滝子は一人前の食事を準備しつつ、勝又を思い出し、サンマを二つに切って並べて、少し笑う場面がある。まだ付き合い始めたわけでもないのに、人を好きになるということは、やがて食物を共有することになるという兆しを、滝子に与えたのだろう。

 そして、勝又が恒太郎の家に下宿することになった日の食卓では、恒太郎と滝子という親子のなかに、他人である勝又が入ってきたという様子が、「皿小鉢の音」や「たくあんの音」で演出されている。

 恒太郎は、ゆったりと箸を動かしているが、滝子は意識して堅くなっている。

 勝又は極度に緊張している。

 三人、無言で、黙々と食べる。時々、皿小鉢のふれ合い。

 勝又、たくあんを噛む。

 バリバリと大きな音がしてしまう。

 勝又「あ −どうも」

 滝子「あ、、、、、」

 恒太郎「いやあ、、、」(三一〇)

 皿小鉢がふれ合う音も、たくあんを噛む音も、ふだん食卓を囲むものの間では、聞こえないような、聞こえていてもそれを意識することのない音である。しかし、お互い慣れていないと、その音が気になってしまう。他人とあるいは他人の家族と食事をするときの微妙な緊張感は、誰にでも経験があるのではないだろうか。「食卓」には、そこに慣れ親しんだ空気が漂っていて、なかなか入り込めない。家族とか血縁とか、そういうものではなく、人間が一緒に生活するなかでできあがってきたもの、その中に「異物」が入り込んで、バランスを崩している様子が、この場面からうかがえる。

V 「娘−妻−母」

 滝子の場合は、実家で父と暮らすことになり、そこに勝又が「異物」として入り込むが、滝子以外は、みな「異物」として、新たな家族のなかに入っている。きっと最初は「異物」として居心地が悪かっただろうが、やがてそこの生活になじんでいくことになる。

 まだ陣内が咲子とアパートで同棲しているとき、試合前で減量中のはずの陣内が、アパートに女を連れ込んだ上にラーメンを食べていた。それを、仕事中に倒れ、巻子に付き添われて早く帰宅した咲子に見つかってしまう。巻子は、咲子を自分の家に連れて帰って、しばらくうちで預かろうかと鷹男と相談しているとき、

 巻子「帰ってきて、他人がいるの −やじゃないの」

 鷹男「他人じゃないだろう。にぎやかでいいじゃないか」

 巻子「他人が入ると、ハナシ、出来ないのよ」

 鷹男「姉妹のくせしてお前の方が他人みたいだな、ヨメにゆくと姉妹は他のはじまりか」(一七四)

という会話がある。「巻子−鷹男」という夫婦のなかに、近しいはずの妹の咲子が入ることを巻子は嫌う。同じように滝子も、陣内がチャンピオンになって、これまでのうっぷんをすべて晴らそうとしている咲子を嫌う。勝又との結婚式に咲子がくることをいやがり、勝又や鷹男にたしなめられる。そして結婚式で、自分たちが主役のような出で立ちをして振る舞う陣内と咲子に、滝子は「帰ってよ」と叫ぶ。

 結婚式の場で陣内は倒れ、その後、植物人間となってしまう。妹のことを疎ましく思っていたが、陣内が倒れてしまうと、滝子としてもどうしていいかわからない。同じく咲子も、滝子にどういう態度をとっていいかわからない。姉妹であるからこそ、互いの幸と不幸を微妙に推し量っているのである。

 「家族」だからと当たり前のように、愛情を前提とするのではなく、「家族」だから互いにシビアに感情を剥出しにしている。家族に向けられる「阿修羅」を、向田は読者に突き付けているのかもしれない。

 一方、四人の姉妹たちが意気投合して無邪気にはしゃぐ場面もたびたび登場する。恒太郎の「浮気」の件で一同が会したときも、子どもの頃よく食べた揚げ餅を懐かしがる。また、実家で帰りの遅い恒太郎を待っているときも、子どもの頃、父親をどんなふうに待っていたかで、みんなではしゃいでいる。そんな娘たちを、ふじは「親のうちへ帰ると、子供になるのよ。ね、そうだろ」(七三)という。

 「娘−妻−母」という、さまざまな立場を一人の人間が背負っている。日常では、それらをごく自然に使いわけているのだが、ときとしてそれが交錯する。ふじは、恒太郎の浮気相手のアパートの前に立っているところを、娘の巻子に見られてしまった。母としては、見られたくないところを娘に見られてしまったのだ。

 その瞬間、ふじは、哀しいような、恥ずかしそうな、何ともいえない顔で少し笑う。巻子の顔を見て何か言いかける。

そして、ストーンと倒れる。(二〇四)

 とあるように、このときのふじを見ている巻子は、その後、少し酔って病院へ来た恒太郎に対して激昂する。ふじにかわって、自分が恒太郎を責めているのだ。

 また、綱子と巻子も、娘の部分では意気投合できても、妻という立場では。度々、対立している。

 Uで触れた、ふじがミニカーを投げつける場面でも、ミニカーが襖に突きささって、そのすぐあと、電話が鳴る。それは咲子からで、「お母さんにだけ話したいことがある」と言って、同棲中の陣内のことを話すために、ふじにアパートに来て欲しいというの内容の電話である。咲子と話すふじの顔は「母」であり、ついさきほどミニカーを投げつけた人物と、同じとは思えない。

 そのときの自分はどういう自分なのか、対峙する相手と自分の立場の微妙なバランスを、向田はそれぞれの場面で描ききっているのではないだろうか。

X おわりに

 「阿修羅のごとく」にはまだまだ謎めいたところがたくさんある。

 夫の浮気相手のアパートの前で倒れて死んでしまうふじは、一体何を思っていたのだろうか。鷹男の「浮気疑惑」は、パートT、Uを通じてあいまいなままであり、ラストシーンでは巻子の「思い込み」であったような終わり方をする。また、「妻」という立場も、巻子や豊子を通じて少ない場面ながら印象的に描いているところがある。その一方で、料亭の主人との関係がどうしても断てない綱子を、いとおしい存在として描いている。

 「阿修羅のごとく」は、「家族」のなかの女たちのさまざまな姿を描いた。一方、男たちは、少ない場面ながらも「家長」の立場を与えられていることに、私は不満をもっていた。女たちは、「家長」の手のひらのうえでしか、自由さも奔放さもない。どんなに頑張っても、「家長」を越えることができない女たちが描かれているように思えた。

 とくに鷹男や恒太郎は、多くを語らず「家長」として毅然と在ることを求められている。結局は「家長」としての力の強さを描いてしまったのではないかと思った。

 しかし、演出の和田勉は解説で、「向田さんの脚本というのは、男が「男として」在るためには、ちょっと耐えがたいホンであるのだ」(五〇一)としている。パートTとパートUで、鷹男の役が緒形拳から露口茂に変っているのもそのためらしい。また恒太郎役の佐分利信も、「恒太郎役ばかりは、そのあまりの「硬骨からのはずれっぷり」に立腹して、パートUのリハーサルの最中、いちどは台本を投げ捨てて、帰ろうとした」(五〇二)という。「男は娘や女房の前で、みなだらしがなく、女たちの前でこそこそ生きているようにしか、書かれていない」(五〇一)と、和田は書いているが、私には、それでも男が、「家長」として在ることを求められている居心地の悪さがあるのではと思う。はたして「家長」としての立場は居心地がいいのだろうか。

 「父」をモチーフにして語られがちな向田の作品であるが、女の目からも男の目からも、まだまだみてみる余地はたくさんあるようだ。

引用文献

向田邦子『阿修羅のごとく』(一九八一年 大和書房)。本文、および解説引用は一九八五年発行の新潮文庫版から。

参考文献

小林竜雄(一九九六年)『向田邦子の全ドラマ 謎をめぐる12章』徳間書店

平原日出男(一九九三年)『向田邦子のこころと仕事 −父を恋ふる』小学館

平原日出男(二〇〇〇年)『向田邦子・家族のいる風景』清流出版

松田良一(一九九六年)『向田邦子の風景』講談社 

向田邦子さんの「阿修羅のごとく」の評論を『女性学年報』21号(2000年11月発行)に書いています。著作権のことがあるので、許可が出るまでは期間限定にします。
著作権はも執筆者の「花子のノート」管理人にありますので、とりあえず。

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