「沈黙の春」
            レイチェル・カーソンが伝えたかったこと

 「沈黙の春」は今から42年前の1962年に、アメリカの海洋生物学者のレイチェル・カーソによって書かれている。化学薬品が大量に使用されている現実を、丁寧に追っていくことで、化学薬品の恐ろしさを世間に広く訴えた作品である。

 「春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のかすみがたなびき」という描写で始まり、人や家畜、動物、森や野原などの自然の変異を紹介し、そして一章は「アメリカでは春がきても自然は黙りこくっている」という文章で締めくくられている。「沈黙の春」という邦題もおそらくこの部分からとられたものであろう。情緒的な文章だが、その後に紹介される現実は、事実に基づき、綿密に書かれている。

 40年以上経っても、「沈黙の春」が読まれ続けているのは、レイチェル・カーソンの大切にしたものが、今の時代にも共感できるものがあるからではないだろうか。レイチェル・カーソンから今、学ぶべきものについて、考えてみたい。

 化学薬品は、第二次世界大戦のおとし子と言われている。人間を殺す発想で兵器として開発されたもので、それが戦争の終結後に、「虫を殺すもの」として使用されるようになった。

クリア湖でブユを退治するために、DDTを使用して、その結果、カイツブリという鳥が姿を消したこと(4章)、土壌をBHCで殺菌したために、それが蓄積して農作物がBHC汚染されたこと(5章)、牧場を作るのに土地の「改良」目的でセールブラッシュを除草剤で駆除し、そこの生態系を壊したこと(6章)。他にも鳥の死(8章)、川の汚染(9章)、化学薬品の空中散布(10章)など、これらの事実を示して、いかに化学薬品が自然界に偏った負荷をもたらしているかということを実証している。

 しかし、これは「自然を大切に」という自然を護る対象としてとらえて、無条件に保護することを訴えているのではない。「化学薬品による異変」を、ひとつひとつ示していくことで、その影響がどういうものなのか、読者に伝えようとしている。レイチェル・カーソンは、海洋生物学者だから、専門家としての「正しい」見解を書くこともできる。あえてそれをせず、事実の積み上げをして、むしろそういう視線を大切していることころが、多くの共感につながっているのではないだろうか。

さらにレイチェル・カーソンは、「事実を判断する」ために必要なことにも言及している。化学薬品により野生の生物が姿を消し、自然に負荷がかかっているのかどうか、自然保護主義者と化学薬品製造会社では、まったく違った見解を示す。このような主張をそのまま鵜呑みするのではなく、自分自身で判断するためには、「野生生物の世界をよく観察している人たちの説明をきくことである」としている。そこに住む人たち、野や山を歩いている人たちが、化学薬品が使われる前と使われたあとにどういう変化を感じたのか、その声に素直に耳を傾けて判断していけばよいとしている。

1959年、ミシガン州でマメコガネの大防除が行われたという。マメコガネが発生したから駆除したという政府に対して、そこに住む人は、マメコガネを防除しなければならないほど発生したとは感じていなかった。駆除のためには莫大な費用がかかり、ヒトやモノがつぎ込まれ、利害関係が発生し、駆除の必要性とはなれて、判断がされてしまうことを危惧している。そして、それは駆除のためには莫大な費用がつぎ込まれるのに、その影響を調べるための費用はほんのわずかなことも指摘している。

「事実をみて判断する」ことを軽視した結果、ミシガン州ではマメコガネの駆除という名のもとに多くの鳥や動物を「みな殺し」にしたのである。

 事実を積み上げること、事実を判断することをレイチェル・カーソンは大切にした。そしてさらに、目の前で起きていることだけではなく、その行為(殺虫剤の使用)が将来、どういう影響を及ぼすのか、それを十分に考えて総合的に判断することの大切さも言っている。目先に害がないとしても、将来はどうなのか、できるだけいろいろな可能性を考えてみる。

 自然を征服しようとしたのは、人間の愚かさである。自然を人間に役立つものと考え、そこに住むすべての生物を愛する気持ちが、「沈黙の春」を書かせたとすれば、そこには何事にも謙虚な姿勢のレイチェル・カーソンの姿がある。

 この謙虚な姿勢こそ、レイチェル・カーソンから学ぶべきことではないだろうか。

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