花子のノート

わたしが広島へ行って考えたこと 

                                           2005年8月5、6日

 わたしが今回、広島へ行こうと思ったのは、「平和」について自分に何ができるのか、広島へ行けば、きっと確信がもてるのではと思ったからです。

でも、実際に広島へ行くと決めるには、時間がかかりました。「平和」というのは、大切な問題だけれども、できれば難しいことは考えたくないという気持ちもありました。でも、「被爆・終戦60年」で、京都生協では平和について、ひとりひとりが考え、学んでいこうという節目の年なので、この機会に広島へは行かなければと思い、「重い」気持ちを振り切って、参加することにしました。

平和活動といえば、学習会や平和活動交流会、各行政区の平和のとりくみに参加すること、年に1回、ピースリレーに参加することで十分ではないかと思う一方で、それでほんとうに「平和」のために何かしていることになっているのかというわたしのなかの疑問に、今回、広島へ行ったことは、それに十分、応えてくれるものでした。あらためて、参加してよかったと思っています。

 広島では、1日目は「虹のひろば」への参加、広島平和記念資料館(原爆資料館)、東館の見学、2日目は平和祈念式典への参加、原爆碑めぐり、原爆資料館(西館)の見学をしてきました。平和や戦争、原爆について、いろいろな角度から集中的に考える機会になり、これまでに知っていたことや、さまざまな思いが、線になってつながっていきました。そして、もっといろいろなことを知って、平和な世界(安心して暮せる社会)にしていくために、頑張っていきたいと思いました。

 原爆資料館の西館は、遺品や原爆資料を展示し、1945年8月6日に広島に何が起こったのかを伝えています。原爆の熱線、爆風、放射線の威力がどれほど大きなもので、広島の町と人々を壊滅させたのかが、高熱で溶けたガラス瓶や曲がった建物の鉄骨、放射線のために抜けた髪の毛などの展示物や説明文から、リアルに伝わってきました。武器(兵器)に善し悪しはないけれども、それでも核兵器が人々にもたらす被害、不幸、悲しみは、はかりしれないほど大きなもので、もう二度と使われてはいけないと、強く思いました。

 また、遺品のなかには、中学生のものがたくさんありました。被爆したときに着ていた焼け焦げた服はとても小さく、こんなに小さな子どもを建物疎開の作業に従事させなければならないほど、人々を巻き込んでいた当時の日本の逼迫していたことが窺えました。黒こげになったお弁当箱、着ていた服などの遺品がかろうじて確認された人、遺品も遺骨もみつからない人など、核兵器は被害を受けた本人だけではなく、遺された人の気持ちも癒されることのなく壊してしまうものなのです。

 「原爆慰霊碑めぐり」で、建物疎開作業中に被爆をして亡くなった広島第二中学の325人の生徒を悼んで建てられた碑を訪れました。本川沿いの碑で、隣には広島市立商業や河内村温井に義勇隊の碑も並んで建っていました。そこが爆心地から600メートルほどしか離れていないこと、広島の「町」を守るために生徒たちが建物疎開の作業をしていたことなどが、広島を訪れ、その場に立ってみることで、体感としての理解になりました。また、生徒たちの無念さや親たちの哀しさを、資料館で生徒たちの遺品をみることで、さらに強く感じることになりました。

 「戦争反対」、「人を殺してはいけない」ということに真っ向から反対する人はいないでしょう。でも、「イラク戦争」を正当化しようとしたり、核兵器をもったり開発したりすることを正当化しようとすることは、当たり前のように行なわれています。虐待、暴力が自分の弱さの裏返しの行為だとすれば、自分の弱さを認め、同じように相手のことも認められるようにならなければなりません。そのためには、たくさんの価値観に出会って、たくさんの価値観のなかで、お互いに共存していることを、日々、忘れないことが大切だと思います。

 わたしが「平和」のためにできることは、まず、「戦争」について、これからもいろいろなことを知り、自分のなかの平和への思いをより強くもっていくこと、たくさんの価値観と共存していくために、自分の弱さと向き合うこと、そして、それをたくさんの人に伝えていくことだと思いました。