那須正幹さんのお話
  (京都生協平和活動交流会 「ズッコケ三人組 平和を語る」より

ズッコケと平和?
 2006年1月28日、ウィングス京都で京都生協の平和活動交流会で那須正幹さんのご講演を聞きました。
児童文学者の那須さんのお名前より、むしろ「ズッコケ三人組」(以下、「ズッコケ」)のほうがよく知られているかもしれません。わたしも「那須さん」と聞いても最初はピンときませんでした。それよりも、わたしはずっと大切にしている絵本があって、その絵本を書かれたのが那須さんということがわかって、むしろびっくりしています。
 わたしのもの書き仲間にも、児童文学を書いている人がいますが、児童文学というのは「本が売れない」ので、たいへん厳しい世界だそうです。絵本はまだ売れる、ということで、なるほど、絵本は買うけど、児童文学の分野はどちらかというと、図書館で借りるという感じかもしれないです。

 プロフィール
 那須さんは現在、広島県でお生まれになり、現在は山口県の防府市に在住されています。
 1972年にはじめて本を出版され、現在で186冊です。
 那須さんにとっては186冊の本の作品、どれも我が子のようで、みんなかわいいそうです。でも、不肖の子どももいるなか、「ズッコケ」は親孝行な子どもで、毎年、印税を運んでくれるよくできた子どもだそうです。「ズッコケ」は1978年に刊行され、2004年12月、50巻で完結しました。

ズッコケのこと
 那須さんと同じ時期に活躍されていたのは、あまんきみこさん、かんざわとしこさん、宮川ひろさんなどで、いわば「正統派」。「ズッコケ」は新刊がでても書評でとりあげてもらえなかったそうです。唯一、(あかぎかんこさんまたはうのよしこさん)が、1年の総括のところで1行のみ触れられただけと言われていました。
 当時は「ズッコケと○○(不明)は、図書館においたらいけない」ということで、評判は悪かったそうです。
 ただ、すでに「本ばなれ」ということが言われていたので、「本の嫌いな子も読む」ということで消極的に賛成という立場だったのかもしれません。

 「ズッコケ」というのは、どこにでもいる子ども、ヒーローでない、成長もしない、というのがコンセプトだそうです。ただ、彼らは「自分で考えて行動する」のです。そしてそこにあるのは「ごっこあそび」だそうです。
 
 この「ごっこあそび」ということを、子どもの頃にしっかりやっておくというのは、大切なことと聞いたことがあります。つまり「おとぎ話」で、とっても怖い思いをする、その現実との落差によって、現実に自分が怖い思いをしたときに対処できるようになるというのです。「男女共同参画」や「平和」の集まりのなかで、ヒーローものや残酷な話が槍玉にあげられることがありますが、それっていつも違うんだけどなーと思いながら、いつも聞いています。もちろん、わかりやすい「勧善懲悪」にうんざりすることはありますが、「ごっこあそび」「おとぎばなし」に入り込める年代と、われわれ大人とを同一視して作品を評価するのは、根本的に違うのです。

 「ズッコケ」の発刊から約30年、その間に届くファンレターにも変遷があるそうです。
 発刊された78年といえば、ピンクレディがレコード大賞をとり、キャンディーズが解散し、大平内閣、江川「問題」、口裂け女、田宮二郎の自殺、ET、インベーダーゲーム、国鉄、ソ連という時代です。

 80年代までは「はちべい」そっくりの子(このあとの説明が記録できませんでした)、90年代は「できないことをやてくれる存在として、そして21世紀になると「あんな友だちがほしい」という内容になり、子どもにストレスが感じられると言ってられました。「はちべい」が人気があったけど、この頃は「もーちゃん」。もーちゃんはほっとするのだそうです。
 ファンレターは、いいほうに変わっているのではなく、苛酷なほうへ変わっているのだそうです。

 「ズッコケ」が48巻まで発刊されたとき、「60巻までやりませんか」と言われていたけれども、50巻をひとつの目標としていたので、そこで終わりにされたそうです。
 理由としては、他に現実の子どもと「ズッコケワールド」との間に格差がでてきたということがあります。「ズッコケ」は3人組だけれども、今の子どもは「むれ」になって遊ばないこと、親友なんていないということ、「3人組」というのが作りにくいそうです。
 学校からの帰りに「群れて」帰るようなことがなくなってきたと、言われていました。
 作者である那須さんの目線の変化もあって、30代でみる6年生と60代でみる6年生は全然、違っていて、60代でみる6年生は何をしていてもかわいく感じるのだそうです。

 「ズッコケ」はいろいろなことをしてきました。会社を作る、ホームレスになる、大地震を経験する、オンブズマンになる、ハワイ旅行をするなど。
 でも、「戦争」はしていません。それは那須さんが無意識のうちに避けていたのではと言われていました。
 3人組というのは、平和と民主主義なしには存在しないそうです。
 はちべいはちょろちょろし、もーちゃんはおっとり、はかせは理論。これは「平和と民主主義」そのものだといいます。戦時では、ズッコケは存在できませんでした。

那須さんと原爆
 那須さんは昭和17年に広島で生まれられました。広島市の西のほうの地名だったと思います。爆心地からは3キロくらいのところです。
 だから被爆されたのは3歳、ほとんど記憶はないといわれていました。
 低い畑にあった平屋の家で、屋根が半分とんだそうです。
 縁側にいて自分は母親におぶるようにして立っていて、縁側には、おばさん?がきていて、あさりをもってきてくれていました。
 ガラス障子があって、雨戸の戸袋が熱線を遮ったのかもしれません。
 そのおばさんかお母さんかわかりませんが、日傘をさしていて(日傘ということはおばさんでしょうか)、半身、大やけどでした。

 那須さんが記憶しているのは、その後、雨が降って、押入れに入っていたことでし。
 国民学校の1年の教科書の絵を眺めていて、それがオキヤタローという人の作品で、カラーだったということです。でも、実際にのちのちにみると、ブルーと黄色の2色で、とっても「カラー」といえるものではなかったのですが、そのときの色として、記憶にあるそうです。

 3歳のときのことですから、びっくりしたけど、怖い、悲惨という感覚はなかったといいます。
 「ドロ人形(被爆した人)が逃げてくる」という様子、それから火事場ドロボーのこと。
 それから、みかんの缶詰が熱くなっていて、それを食べた記憶です。食べ物の記憶というのは、残るものです。
 それと近所の人(亡くなった人)を焼いたこと。
 これらのことは覚えているということでした。

 那須さんのお父さんは、教員をされていたので、原爆投下の日かが2週間、家には帰らず、生徒たちを探していました。2年間、原爆症で寝ていましたが、80歳まで生きられました。
 2人のお姉さんがいて、1人はケガはしたけど、元気で73歳まで生きられています。
 当時は、悲惨、怖いというのが、那須さんにはなかったといいます。
 原爆が「当たり前」で、自分だけのことではなかったからだそうです。
 実際、那須さんのお話を聞いていても、サラっとお話されるので、ほんとうにそうなんだと思いました。
 「被爆体験をきく」というと、悲惨な話として、こちらもかまえてしまいますが、そういう感じではありませんでした。
 それは、3歳のときということもあるかもしれません。

 「原爆」のことで悩んだり、怖いと思ったは、被爆者検診にひっかかった中学2年のときで、そのとき同級生の女の子がなくなったということもあり、白血球が少ないと診断され、悩まれました。
 それ以前は、まわりに被爆した人がいっぱいいるので、怖いと思わなかったそうです。
 原爆というのは、ジクジクと怖くなるのです。悩んだ人はたくさんいたと思います。
 2度と戦争はしてはいけないということで、「平和と民主主義」が24年に宣言されたのに、喉元をすぎれば忘れてしまうのでしょうか。なぜ、大東亜戦争を肯定し、軍備を整えることをまたしようとしているのか、理解に苦しみます。

 那須さんは、本はあまり好きではありませんでした。というかおもしろい本がなかったのです。
 中学から、手塚おさむさんの本を読み出して、昆虫に興味をもって、松くいムシのことを研究されました。
 その後、「こどものいえ」という同人誌にお姉さんにすすめられて入り、1972年に「首なし地蔵の宝」という本を出されます。

 原爆や戦争については、書かなかったけれど、「屋根裏の遠い旅」を75年に書かれました。
 戦争に勝った日本のお話(だと思います。すみません、ちゃんと聞いてなくて)。
 原爆のことは、書けなかったそうです。
 ピカを文学の対象にしなかったということです。
 それは、子どもが生まれると変わり、また、いぬいともこさんも「原爆のことを書いたほうがいい」といわれました。
 「原爆の子の像」というのは、那須さんが高校1年の5月5日に建てられました。感動的だったそうです。
 那須さんは、サダコさんと学年が一緒で、進まれたもとまち高校にはサダコさんのクラスメートもいました。
 彼らに電話をして話しを聞くと「ワシらだまされた」というのです。
 美談ではなく「あんなもの」とめちゃくちゃ言うそうです。
 そこで、「あたなたちの視点から書きたいと思う」ということで、「折り鶴の子どもたち」という本を書かれました。
 サダコさんのことを「いい人」という人もいるけど、「キライだった」という人の話を聞かれ、そうしてサダコさんがどういう人だったのかを書かれました。
 6年竹組のクラス会では、「史実をちゃんと書いてくれた」と言われたそうです。
 わたしは、当日、この本を購入しましたが、まだ読めていません。

 原爆について知られていないことが多いのではないか、放射能、放射線、原子症、原爆症、被爆者、、、など。そう思ってられたときに、89年に書いた「ボクらの地図旅行」という絵本があるのですが、こういう形なら書けるのではと思われました。

 そでこわたしはびっくりしました。
 「ぼくらの地図旅行」という本をわたしはもっていて、それは処分できず、宝物のようにしている本だったからです。
 えっ、あの本の作者が那須さんだったの!という驚きです。
 「ズッコケ3人組」の本は知らないけど、「ぼくらの地図旅行」は知っています。大好きで何度も読みました。
 絵がすごいよくて、西村繁夫さんという方なんですが、これもこの本をひっぱり出してきてわかったことですが、中大の商学部を出てられるのです! 先輩じゃないですか!
 と、大好きな本だったのに、知らないことが多いというのにも驚きました。

 「ぼくらの地図旅行」の書き方で、被爆体験を書いていこうという試みが始まりました。
 この本の完成には6年かかりました。
 RCCがヘリを飛ばしてくれて、爆発のあった580メートルから実際に広島の町をみられたそうです。
 原爆についてはその後、情報公開され、エノラゲイは8時15分に1万メートルから投下していますが、1万メートルから580メートルまで届くのには17秒かかるので、実際には8時16分ではないかと、そういうことでした。
 「絵で読む広島の原爆」という本を西村さん、編集者とともに作って、宿題を終えたようなお気持ちだそうです。
 
憲法9条
 憲法9条がなかったら、ベトナムへ行っていたかもしれません。
 そのとき那須さんは20歳でしたから。
 憲法9条のおかげで、今まで生きてこれたのだから、その恩返しをしなければなりません。
 それなのに、自民党の改憲草案はひどい。
 全文で、国民に愛国心を強制している。
 憲法というのは、国家が国民に約束するものであって、「国民がこうします」というものではないこと。
 また戦争の放棄は「安全保障」という言葉に置き換えて、「公の秩序」のためだったら、何でもできるようなことを書いている。
 これは国連憲章と同じで、「緊急ならなんでもできる」ということ。
 「公益」「秩序」、なんでも理由にできるのです。
 だからイラク戦争がおこったのだから。
 
 平和の話というとちょっとひいてしまうかもしれない。
 でも、憲法9条が自分の生活のなかでどうかを考えてほしい。個人で選択するということだから。
 公益、公の秩序に反しない、ということでいいのか。
 大切に育てた子が戦争に行かされて、殺されてはいけないのだから。
 国の安全と個人の安全、どちらが大切なのか。

 その他(質問タイムで出たこと)
 ・ズッコケの40歳を書いたのは、中年が元気になって欲しいから。
  なぜ、40歳にしたかは、78年に卒業したら40歳になっているから。
 ・ハカセは、少年時代の自分。だから好き。でも人気はない
 ・ファンタジー小説については、必要なのはリアリズムだと思う。
 ・大人にも子どもにも読ませたいもの、両方をクリアするもの、両方のニーズを満たすものが必要。
  問題作ほど読ますこと、評価しないから与えないではない。いいものと悪いものを読むこと。
 ・防府出身は、伊集院静、高樹のぶ子など。」
 ・朝8時に起きて、9時から4時まで1日10枚書く生活。相撲があるときは、もう少し早く切り上げる。

わたしの感想
 淡々と話されましたが、那須さんの子どもへ向けられる優しい眼差しを感じました。
 「ズッコケ3人組」をリアルタイムでみていないと思っていたけど、わたしの絵本生活のなかに、那須さんはしっかり入っていたことが感動でした。
 参加しようかどうか、実はちょと迷ったのですが、行ってよかったです。
 というか、聞いておくべき話だと思いました。

 そのあと、活動交流会は、活動報告などがありましたが、こっちのほうはもうちょっと企画に工夫がほしかったというのが正直な感想です。
 もっとも怒ったのは、午後の報告が始まっているというのに、遅刻集団がわがもの顔で入ってきたことです。
 遅刻するのはしゃあないとしても、そしたら静かに入ってきてよねと思う。
 自分を中心に世の中がまわっているという感じで、そういう人が「平和」を語ってもわたしは信じないことにしています。
 自分のまわりのことが配慮できない人に「国家の平和」を語られてもね。

 活動報告は、好感度ありのものもあったけど、何が言いたいのかさぱりというのもありました。
 わたしも商品分野で「活動報告」の企画を担当したことがあるけど、これって難しいんですよね。
 あまり深く考えることもないかもしれないけど、でも、一定の時間を割くのだから、もうちょっと考えてほしいという内容でした。
 でも、発表するにあたり、それぞれ工夫をしたことは、よかったのではと思います。

 最後の締めは、手話コーラスで。
 みんなでやったら楽しかったです。

 那須さんのお話が聞けたこと、そういう機会がもてて、よかったと思います。
 ありがとうございました。

 今回で、昨年3月の「ビキニデー」に始まる、終戦、被爆60周年の企画は終わりました。
 ずっと参加して、報告記も書けて、とってもよかったと思っています。
 いい機会を与えてもらって、よかったと思っています。
 ありがとうございました。

那須さんのことはこちらのサイトが詳しいです。
こちらも
花子のノート