「続・いのちを伝える  これからの平和のために」   竹本成徳さんのお話

はじめに
5月から、コープこうべの生活文化センターに通うことがあって、機関誌や企画のチラシをみては、なにか参加できそうなものはないかとしていました。
 そこでみつけたのが、タイトルの講演です。
 コープこうべの方に問い合わせてみると、竹本さんのお話はとてもいいからぜひということで、また、日時もちょうど生活文化センターに行く日の午前中ということで、行ってきました。

 竹本さんは、日生協名誉顧問、コープこうべ特別顧問、ユニセフ兵庫県支部会長と現在はご紹介されていますが、わたしにとっては、コープこうべの理事長、日本生活協同組合連合会の会長というイメージが強いです。コープこうべは2001年に退任され、日生協も2003年に退任されていました。プロフィールをみて、あぁ、もうそんなになるんだーと思ってしまいました。

ビデオ上映
 タイトルが「続」となっているのは、昨年に引き続き2回目の企画だからということで、初めての人、2回目の人と、まずその場にいる人の立場を同じようにするために、ビデオをみていただきます、ということでした。
さすが、このへんは、話を聴く側にたって、内容を考えてくださっていると思いました。

 ビデオは広島市役所から始まります。
 原爆が広島に落ちたその時間、竹本さんはその場所にいらっしゃいました。
 当時、中学生は「建物疎開」の作業に動員されていました。
 
*建物疎開
1943年(昭和18年)3月、『都市疎開要項』。官公署や軍事施設、軍需工場などを空襲により火災が発生した際に延焼を防ぐ目的で、密集した建物群の一部を除去し、防火地帯を作ること。建物を破壊してできた空き地は、人々の避難先、復旧時のゴミ、資材置き場として役に立ったけれど、目的であった防火帯としての役割は、「焼夷弾」の雨のなかではあまり役に立たなかったといわれています。建物疎開で、民家が取り壊され、市民の強制立退きがすすめられました

 修道中学2年生は、市役所にお弁当と上着をおいて、作業現場に向っていました。竹本さんは、これを「死の行進」と言われていました。
 原爆投下が午前8時15分という時間だったため、作業中に被爆してたくさんの中学生が亡くなっています。原爆の碑も、学校単位のものがたくさんありました。

 現場へ行く途中、竹本さんは担任の岩崎先生に「市役所に帰ってお弁当の番をするように」と言われ、戻ったそうです。同じクラスの斎藤くんと市役所の植え込みでお弁当の番をしていたそうです。
 その植え込みの中に入って行かれた竹本さん。
 なにをそこまでと一瞬思ったけれども、そこへ入って行かれた意味がすぐわかりました。
 その植え込みの場所は、ちょうど市役所の建物によって爆風や放射線が遮られたのかもしれないということでした。竹本さんは、現在、原爆症を発症されていません。爆心地から1キロの場所で被爆されたのに、元気でいらっしゃるのは、その場所でお弁当の番をしていた、そういう偶然があったからでしょう。

 その後、ビデオは、竹本さんが被爆されたあと、たどった街を訪れ、ひとつひとつの場所で思い出されることを語ってられました。
 とくに亡くなった修道中学の先生や生徒の名前が彫られた碑を見て深々と頭をさげられるところは、竹本さんの生の原点はここにあるのかもと思いました。

竹本さんのお話
 竹本さんのお姉さんは、出勤の途中で被爆され勤め先の日銀の地下室に収容されていたそうです。そのお姉さんをお父さんが探しあてて、自転車でご自宅まで連れて帰られました。竹本さんのお父さんは、町内の役員をされていて、救護所となった学校に詰められて、そのあとお姉さんを探しに行かれました。
 お姉さんの状態はたいへんひどく、とても痛ましい姿だったといいます。
 被爆した多くの人が「水」を欲されたのは、放射線によって喉が焼けきられるからだそうで、お姉さんもお水が欲しいといわれていました。
 お父さんは、多くの人が水を飲まないまま結局、亡くなっていたのを見られていて、覚悟をされたのでしょう。竹本さんにトマトをもいでくるように言われ、トマトを急須に絞って、お姉さんに飲まされました。お姉さんはとてもおいしいと言って飲み干されたそうです。
 お姉さんは、翌朝、亡くなられました。
 「先立つ不幸を許してください」と言われたそうです。
 その後、遺体を山に運び、荼毘に付されましたが、竹本さんは、一番、辛かったのはお父さんではなかったかと思うと言われていました。
 他にも、腐敗の始まった遺体が沈んでいる川に入って、わが子を探す親の姿をみて、親の愛の深さを感じたそうです。
 家族と対面できないまま亡くなった人がたくさんいました。熱線、放射線、爆風、それらの一瞬が多くのものを奪いました。
 竹本さんは、全裸、髪も全身の皮膚も焼けただだれてしまった人ばかりだったこと、そういう状態になった同級生を病院に運んだことなどをお話されました。

 命を大切にすること、それが亡くなった人たちからわたしたちが受け継いでいかなければならないものではないか、竹本さんがお話の最後、どういう言葉で結ばれたのか、メモをとらなかったので、正確ではないですが、命を大切にすることは、今、生きている者に託されている、そういうような言葉だったと思います。

わたしの感想
 わたし、今、少し悩むことがありました。
 悩まなくもいいようなことなのに悩んでしまう。それは自分に自信がないから。人を妬む気持ちがあるから。
そういうことがわかっているから、悩んでいる自分がとても嫌でした。
 こういうときだからこそ、自分はなぜここにいるのかという原点に戻らなければならないと思っていました。
 そういうときだったので、今のわたしにはとくに心にしみるものがありました。
 自分はなぜ、そこにいるのか、それをつねに問いかけていきたいと思います。
 そうすることで、先がみえてくるのだと思います。

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