「嘘をついてはいけないと言われるけれど、嘘をつくことで相手を傷つけないこともあるから、ついていい嘘もある」ということに反対する人はいないだろう。その通りである。自分の思っていることを、それぞれが正直に口に出したらどういうことになるか、想像するだけで恐ろしい。むしろそれは敢えて「嘘」とは言わないのかもしれない。
 それでは、「嘘をつく」とは一体、どういうことなのだろうか。嘘の反対は、「ほんとう」「真実」ということだとすれば、逆に「ほんとう」とはどういうことなのかもわからなくなってくる。
 わたしは「ほんとうの自分を生きているだろうか」と考えたとき、嘘の自分を生きているような気がしている。それには、二つの意味がある。わたしは、ほんとうはそんなにいい人ではないのに、いい人のような振りをして生きてる。あるいは、今の自分はほんとうの自分ではない。ほんとうの自分は、こんなのではないと思い込もうとしている。ほんとうの自分でない自分を生きるのはなぜだろうか。人との関係性をうまくもっていたいからかもしれないし、自分への可能性への期待かもしれない。
 しかしながら、「ほんとうの自分」とはどういうものだろうか。自分のことだから、自分が一番よく知ってはずなのに、実はもっともわからないのは、自分自身ではないだろうか。「自分に嘘はつきたくないから○○する」ということを、大きな決断をするときに思うことがある。つまり「ほんとうの自分」を生きるためには、努力、決断が必要ということだ。
 「嘘の自分」というのは、嘘というよりもむしろ、世間体を気にしてとか、一般的にということに言い換えられるかもしれない。それではつねに、世間体と「ほんとうの自分」が相反しているかというと、必ずしもそうではないだろう。たいていは「世間体」と迎合して、適度なところで生きているのだと思う。それはなにもいけないことではないし、恥かしいことでもない。むしろ自分の気持ちに正直に生きる(自分の気持ちを正直に伝える)という場面は、そんなに頻繁に起こるわけではない。やはり「ここ一番」という場面で、決断することなのだろう。そしてそれは、相手の人やまわりの人を傷つけてしまったり、悲しませてしまったりすることもある。「自分の正直な気持ち」というのは、とてもやっかいなものだ。

 「好きな人に好きといえなかったこと」(朝のドラマ「ちゅらさん」の展開がこういう感じか?)、「嫌いな人に嫌いといえなかったこと」、このような後悔はできるだけしたくないなと思うけれども、自分に嘘をついているほうが、救われるということもある。要は、自分がどれくらい傷つく覚悟ができているかなのかもしれない。

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