今、甲子園球場で高校野球選手権大会が行われている。高校野球フリークのわたしにとっては、1日4試合を追いかけるのに忙しい毎日だ。なぜ好きかと問われると困ってしまう。好きなものは好き。ただ、いくつかのきっかけはある。まず、兵庫県の地方予選の応援に行ったり、母校が出場したり、別の高校の同級生が出場したりと、追いかけているうちに、自分にとってなくてはならない存在になった。それでも春と夏、1回ずつ甲子園球場に通う程度だった。2年前、ひょんなことから京都成章高校を地方予選から応援してからは、応援団と一体感をもって観戦することが楽しくなった。そして実際に観戦してみると、テレビで実況や解説なしに観るほうが楽しくなった。テレビは甲子園球場で起こっていることのほんの1部を切り取って放送しているに過ぎない。

 一概にはいえないが、1回戦、2回戦では大差のつく試合が多くなった。べつに観てる側のおもしろさを優先するつもりはないが、そういう試合はちょっと観るのが辛い。攻撃時間と守備時間が極端にアンバランスで、はっきりと力の差がみえてくる。甲子園での1試合は、何ものにも変えられないからこそ、そういう試合があまりないようにと思う。

 一方、僅差の試合というのは、観ていてもやきもきする。大差のつく試合が辛いというのは、負けている側であって、勝っているほうにとっては点差が大きくつくことに越したことはない。

 試合を観ていて思うのは、「流れ」があって、それがどっちのチームにむいているかということである。これは野球に限ったことではない。どんなスポーツであっても「流れ」をいかに自分のほうへもってくるか、それが勝敗を決めるのであろう。野球でいえば、勝つためには、27のアウトをとらなければならないが、そのひとつひとつのアウトの意味が違う。ここ一番で打てなかった、あるいはアウトにできなかった、というそういうプレーが積み重なって、流れを変えていく。

 わたしは、一応、マラソンをしているものだから、よくそれを人生にたとえられるけれど、それってちょっと違うよなと思う。苦しいときもあれば、楽なときもある。苦しいときは上り坂で、楽なときは下り坂、苦労をすれば必ずまた楽になるというたとえだろうが、下り坂が必ずしも楽とは限らないし、その逆もある。要は、上り下りに限らず、どれだけプラス志向で走れるかということだと思う。
 100キロの大会に出たとき、10キロ走った時点で水を受け付けなくなって、吐き気でフラフラになってしまった。その大会のために、自分なりに練習してきて、周りの人に何らかの迷惑をかけながらエントリーした大会なのに、この先いったい何キロ走れるのかと絶望的な気持ちになった。自分の不甲斐なさと吐き気とでコース途中で座り込んで泣いてしまった。「わたしは一体、なにをやっているのか」と。
 でも意外なことに40キロを過ぎた頃に、突然、元気を取り戻した。理由はよくわからない。ちょうど折り返すコースで、たくさんのランナーの方に声をかけられたからかもしれない。エイドで無理やり食べた梅干がきいたのかもしれない。リタイア間違いなしと思って、開き直れたからかもしれない。それまでまともに走っていなかったから、力が温存できていたからかもしれない。とにかく、40キロからは、前向きに走ることができた。

「流れをつかむ」

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 もう少し、楽に生きたいなと思うことがある。身の程の生き方というのも考えたこともある。でも一方で、大きな流れをつかみたいと思っている自分がいる。それはわたしの身の程とは、かけ離れているのかもしれない。
 高校野球を、球児たちが「甲子園出場」という大きなメモリアルを自分の人生のどういう位置付けにしていくのだろうかと思いながら観ている。でも、楽しそうだ。今を精一杯、生きているからかもしれない。彼らをみながら、もう少し考えたいと思う。10代の若者が、ひとつひとつのプレーで、流れを必死で引き寄せようとしている姿から、きっと何かがつかめると思う。

 人生に流れはあるのだろうかと考え、過去を振り返ってみた。そして今の自分を考えてみた。過去にわたしは、毎日が腐っているような日々を送ったことがある。そのときに比べたら、今は十分に前向きに生きていると思う。でも今、流れを自分のものにしているかといわれれば、決してそうではない。流れに逆らおうとしてしんどいのか、流れにのりきれなくてしんどいのかわからないが、とにかく今のままではいけないと思っている。
 流れはワンチャンスだと思う。つかむべきときにつかまなければ、今度、いつつかめるかわからない。野球でいえば、ここ一番のひとつのプレーだ。普段やってないことは、咄嗟にはできない。どんなファインプレーもそれまでの練習に裏打ちされたものだと思う。また、ファインプレーはやろうとしてできることではない。あと一歩の思い切りで、身体が動いたときにできるのだと思う。
 わたしにとっての流れとは何だろうか。もしかしたら単に、流れをつかもうとしている自分に酔っているだけなのかもしれない。そういう姿勢が、見方によれば前向きにみえるのかもしれない。でも、「こんな自分になれればいいのに」と思って、実際にそれに近い自分になっても、自分が想像した満足感がないことがある。「もう少し、もうちょっと」という思いは、持ち続けなければならないのだろうか。

わたしは、40キロを過ぎて、流れをつかんだ。
 それは、偶然ではない。偶然としても、いくつもの偶然を積み重ねた結果、流れをつかむことができたのだ。