かけっこ嫌いの私がなぜ、自ら走るようになったかというと、「走ってみたら楽しかった」ということであるが、そのいきさつは結構、複雑だ。荒っぽくいえば、早朝に近所の神社に行くことになって、なんか気分がよくて走ってみたら、もっと気分がよくなったということだ。一人で走り始めて、大会に出るようになって、距離もハーフからフルへと延びていった。仲間がいるわけでもなく、一人で走っていて、大会へも一人で参加しということであったが、ひょんなきっかけからインターネットをするようになって、たくさんの仲間に出会った。
それまでとにかくマイペースで、走る時間もあまりとれない頃もあり、タイムが伸びなくても気にしない、関門制限にひっかかっても仕方ない、好きでやっていることだから、そのことで落ち込まないと、自分なりの楽しみ方をしていたのであるが、自分とはまた違ったランナーとインターネットを通じて出会うことができた。
サブスリーを狙って、着々と練習を続けて達成するランナー、100キロまたはそれ以上、300キロを走ってしまおうという超ウルトラランナー、東京国際女子や別大などのエリート大会を走れるほどのランナー、とにかく出会ったランナーの数だけのランニングライフがそこにあった。そんなたくさんのいろいろなランナーと、インターネットを通じて日々、交流したり、あるいは実際に会ったりして感じることは、早さや実力にかかわらずみんな謙虚で、「走る」という共通点で互いに互いを認め合っているということだ。
少しでもいい結果を残したい、いい走りをしたいと思いで、それぞれ日々、努力しているが、実力が違っても「頑張る」という点においては共通のものがある、そんな共通の思いが、実力を超えたいい関係につながっているのではないか。
「かけっこなんて大嫌い」でも少し触れたが、陸上というのはシビアな競技である。道具らしいものをいえばあえて、シューズであろうが、それ以外はまったく同じ、生身の人間がヨーイスタートして、一番先にゴールした者が勝ち。勝ち負け、つまりそのレースにおける実力の差が、自分からも人からも一目瞭然なのだ。
トラック競技では、先頭集団がだんだんとばらけてきて、どんどん差が開き、やがて周回遅れになるということもある。ついていきたくてもついていけなくて、後退していく、苦しい、後ろからはトップの選手が明らかに違うスピードで抜かしていく。実力の差を見せつけられても走り続けなければならない、それは屈辱的な場合もあるかもしれない。なんて非情なスポーツなんだろう。
何事も努力が大切でそれが結果につながるというけれど、陸上の場合はとくに努力が一筋縄で結果につながるとは限らない、つながるときもあれば、そうでないときもある。でも結果はそのときの実力の差として受け入れなければならない。結果を受け入れることができるからこそ、人も認めることができる。私がたくさんのランナーから感じる、優しさはそんなところにあるのではないだろうか。
走ることが好き、走っている人が好き。私はずっと走っていたし、走る人を応援したい。
陸上バンザイ!