Fly High! ―宮崎大輔 もっと高く―
久保弘穀&スポーツイベント特別取材班
プロハンドボールプレーヤーの宮崎大輔さん。
2006年初めの「スポーツマンNo.1」にてまさにNo.1になられ、「ジャンクスポーツ」にも何度か出演されて、少し前には「ゲータレイド」のCMにも出てられたので、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。
マスコミの登場の機会が増えたこともあって、宮崎大輔さんをきっかけにハンドボールに興味をもった、あるいは、実際に試合会場に足を運ばれた人も多いと思います。
わたしがハンドボールの実業団の試合を頻繁に観るようになったのはごく最近ですが、どの会場でも宮崎大輔さんの人気はすごいですから、ハンド界にとってはまさに「旬」な方で、2006年9月にはDVDが発売され、それに次いで「Fly High」」が発売されました。
たいへん申し訳ないのですが、この本を手にとって読むまでは、わたしは勝手にうがった想像をしていました。
宮崎さんの人気にあやかって、あまり深い取材なしに、今のファンがとびつくような本ではないかと、思っていました。
本屋に行けば、その手のスポーツ選手の本があふれているようで、スポーツものに限らず、「これが売れる」となると雪崩式にいろいろなものを出版するような、そういう出版ジャーナリズムに毒されていたのかもしれません。
たいへん失礼ですが、あまり期待せずに読み始めました。
そして、わたしの思惑は見事に裏切られていました。
「Fly High」は、昨日、今日の宮崎さんを付け焼刃的に追ったような浅いものではありませんでした。
宮崎さんの人気が出ている今だからこそ、このようなしっかり取材した「あたりまえの」ジャーナリズムが必要なんだと確信しています。
「Fly High」は、6章からなり、時系列に1章は生まれてから中学生まで、2章は高校(大分電波)、3章は日体大、スペイン留学、4章アテネ五輪予選、5章インカレ優勝、プロへ、6章2006年度〜 という構成になっています。
生い立ちから、現在までを丁寧に追ったものを一読すれば、宮崎大輔さんがどういう選手なのか理解できます。
スポーツマンNo.1の宮崎大輔さんが、「すごい」選手であることは間違いありません。
だれもが努力をすれば宮崎さんのようになれるわけではありません。
でも、宮崎さんが特別な方だから、今の宮崎大輔さんがあるのではない、そういう当たり前のことを丹念に書いていった、そういう1冊だと、わたしはこの本を理解しています。
宮崎さんを「スター扱い」することは簡単です。
実際、すごいですから。
彼を特別な人として、「スター」としてのきらびやかな写真やセンセーショナルな文章で飾りたてることもできるでしょう。
でも、そういうことをせず、ひとりの人間として彼を見つめ、彼の努力、そして彼の近くにいるたくさんの人たちのことがそのまま書かれているのです。
テレビを通じて、宮崎大輔さんを知り、ファンになったという人が、まず、彼のことを知るために「Fly High」を読むことによって、彼のそのままの姿に触れることができます。
そういう良識のあるファン層を作っていくために格好の著書だとわたしは考えています。
わたしは、この本を兵庫ののじぎく国体のハンドボール成年の部を観戦するための移動の電車のなかで読みました。
今から宮崎大輔さんの試合を観るというときでしたから、自分はこの選手を今から実際に見るのかと思うとドキドキすらしてきました。
「Fly High」、「もっと高く」。
現状に満足するのではなく、もっと高いところを目指そうという、そういう気持ちが大切というメッセージがこめられていると思います。
わたしは、トップアスリートというのは、特別な存在だと思っていました。
同じように宮崎大輔さんも特別なんだと。
宮崎大輔さんがすごいのは、あの人には特別な能力が備わっているからだと。
そういう特別な人の特別なことが書いてある、そういう本だと思っていました。
でも、そうではありませんでした。
宮崎大輔さんは、あくまでも普通の人。
普通の人が、どう生きれば、すごい人になっていくのか。
それは、ご本人の努力はもちろん、人生のなかでどういう人に出会って、かかわっていくのか。
自分はどう生きたいのかがあって、どう生きていくのかがある。
そういう自分から発する思いが出発点なんだと。
宮崎大輔さんは、最初から宮崎大輔さんではなかったんだと。
挫折をしたくないから、挑戦しない。
そんな生き方のどこがおもしろいのか。
無難に生きて、あくびをして1日過ごすこと。
そんな生き方、おもしろくない。
宮崎大輔さんの軌跡を読んで、そんなふうに感じていました。
第1章は、宮崎大輔さんが生まれたときから中学生のときまでを追っています。
そしてハンドボールとの出会い、中学での様子。
スポーツとの出会いというのは、人それぞれに歴史があり、偶然があると思います。
結果的にそのスポーツを愛することになり、その後、続けていくことになるので、人によっては人生を左右する出会いになるかもしれないのですが、そのきっかけや出会いは、びっくりするほど偶然の重なりのように思います。
宮崎大輔さんも、小学校3年のときに明治北小学校に入っていれば、サッカーという競技をその後も選んでいたかもしれません。
それが引越しでサッカー部のない明野北小学校に通い、お姉さんがハンドボール少年団に入ってられたので、宮崎さんもそこに入ることになりました。
でも、ハンドボールだけではなく、いろいろなスポーツを楽しみ、また、絵の才能にも恵まれ、マルチな少年だったようです。
また、お父さまがわりと厳しく筋の通った方であったこと、食欲旺盛な家だったことなど、この頃のさまざまな環境が、今の宮崎大輔さんにつながっていることが書かれています。
中学時代もハンドボールをされましたが、ここでバスケットボール部に変わるというとき、当時の顧問の亀井先生が、それを阻止するという、かなり意図的な作為があったようです。
これは、結果的にはよかったことだと思いますが、今、振り返れば、随分と思い切ったことをされたということになるように思います。
中学のときも、もちろん運動能力の高さから、ずば抜けていた選手のようでしたが、むしろ、熱心な顧問の亀井先生、一万田コーチ、甲斐先生との出会いが、大きかったようです。
たまたまこのような環境がよかったからという見方もできるかもしれません。
でも、わたしは、出会いを「モノ」にするかしないかは、その人の能力だと思っています。
宮崎大輔さんは、指導者との出会いを、プラスにもっていける力があったということだと思います。
第2章は高校時代(大分電波)のことが書かれています。
大分電波高校は、宮崎大輔さんが在学中の2年に「大分国際情報高校」と校名変更されましたが、今でも「電波」と呼ばれているそうです。
校名変更は、ここ最近さかんになっていますが、新しい通称がすぐに浸透するところと、旧い通称で呼ばれて続けるところと、いろいろです。
京都外大西高は、「西高」と言われることが多いです。
愛工大名電は、愛工大名電ですね、名古屋電気とは、もう誰も言わないように思います。
京都学園も京都学園。名門「京商」とは、ほとんど言われないでしょう。
ということは、やはり「電波」は、その電波時代のことが強烈に多くの人の記憶に残っているのでしょう。
いまだに「電波」といわれるのは。
わたしは、スポーツ選手の高校時代の様子を書かれたものを読むのが一番、好きなのです。
それは、「高校のときの練習が一番きつかった」というのが、どういう競技にも共通しているからです。
また、自分の話題に引っ張って申し訳ないですが、ジャイアンツの希望枠に内定している立命館大学の金刃憲人(かねと のりひと)くんは、市立尼崎高校の後輩になりますが、彼が希望枠内定のインタビューで、「高校(市立尼崎高)では試合より練習が厳しかった印象しかない」(こちアマより)と言っていたのにはびっくりしました。
すでに実績をもって、市尼の体育科の1期生として入学してきた彼が「厳しい練習」とは、よっぽどだったのだなと、今さらながら驚きました。
それから、松商学園が、上田佳範(日ハム→中日)選手を擁して高校野球選手権(いわゆる夏の高校野球)で準優勝したときのメンバーをその後、取材しているものを読みましたが、そこにも高校時代の練習のキツさが、いろいろな選手の口から語られていました。
高校時代の部活というのは、目的がはっきりしています。
野球なら甲子園、ラグビーなら花園、陸上(長距離)なら都大路、サッカーなら国立というように、「全国大会」の場所が聖地となっているところもありますが、多くの運動部は、「全国インターハイ出場」というのが共通の目標になるのでしょう。
目標が同じだから頑張れる。
同じ目標だから、練習のモチベーションもあがる。
同じ目標だから、指導の方向性もはっきりする。
まして、身体は、いくらでも無理がきく時期。
鍛えればそのまま力になってどんどんと吸収していく時期です。
その時期の練習がきつくなるというのは、必然のことなのかもしれません。
2章は、宮崎大輔さんの「電波」時代のことが書かれています。
電波の監督の冨松さんの指導ということになるのですが、それはそれはきつかったようです。
おそらくその時点でも抜群の運動能力を発揮していたであろう宮崎大輔さんも「全国で一番、きつい練習をしたのではないか」と言われています。
練習前の5キロダッシュ(20分間)など、ダッシュする距離ではないですから。
また、そのあとバックステップの練習を1時間も続けるそうです。
2章では、宮崎大輔さんの高校での試合の軌跡が書かれています。
全国優勝はありませんが、出てくる高校名は、ハンドボール「業界」では有名どころばかりです。
また、登場してくる高校というのは、強豪校が多いですから、当然のことながら、現在、日本リーグで活躍する宮崎大輔さんと同世代の選手の出身校であったりするので、それもまた楽しみです。
このあたりは、宮崎大輔さんを入り口にハンドボールに興味をもったという人には、ちょっと楽しめないかもしれないですが、それは仕方ないですね。
また、電波の同級生、末松誠さんとのかかわりも丁寧に書かれています。
お2人とも、日本を代表するプレーヤー、そういう人が高校時代を共にしていたというのは、すごいことです。
でも、わりとそういうパターン、多いように思うのですが、それはハンドボールという競技の特徴でしょうか。
たとえば、大崎電気の豊田さん、前田さん、石原さんは、浦和学院の同級生ということですから、そのメンバーって反則じゃないの、浦学、何をしてくれるの!って感じです。
全国大会にむけてのきつい練習、そして試合、高校時代の宮崎大輔さんの活躍が存分に書かれています。
第3章は「スペインの空」
日体大、スペイン留学の頃のことが第3章には書かれています。
宮崎大輔さんは、日体大の1年のときからセンターとして試合に出てられました。
先輩のなかに入っても物怖じせず、1年のときから中心選手として活躍されました。
このあたりも捉えようによっては、とても秀でた選手の学生時代物語になりそうなのですが、ごく自然にチームに入って活躍するという様子が書かれています。
特別であって特別でない存在、そういう一面の表れのように思います。
そしてスペイン留学。
実は、わたしはこの頃、スペインにいらっしゃる頃の宮崎大輔さんをテレビでみています。
わりと短い番組でしたが、「輝いている人を紹介する」という感じの番組だったと思います。
その頃、わたしはすでにハンドボールと接点をもった頃だったので、よく覚えているのです。
「宮崎大輔」さんというお名前は、わたしにとっては、とっても覚えやすい名前だったものですから。
スペイン留学で、宮崎大輔さんのハンドボールに対するものはさらに進化していきます。
もうすでに高校、大学で十分に活躍されていて、この時期にさらに高いレベルのところにいらっしゃったのは、とてもいいことだったのでしょう。
でも、宮崎大輔さんが所属したチームでは、チームメイトが口をきいてくれないという仕打ちに遭われます。
こういうことって、ありがちなんでしょうね。
違うもの(東洋人)を排除するという思想は。
これは相当、きつかったようですが、ある試合で、宮崎大輔さんの活躍で勝利をするということがあって、チームメイトの態度が、変わったそうです。
なんとも、変わり身の早いスペイン人だと。
これがスペイン流なんだそうです。
第4章は、2003年のアテネ五輪最終予選の戦いぶりが書かれています。
宮崎大輔さんはチーム最年少22才で代表チームに入り、エースとして活躍されます。
アテネ強化プログラムは2年半。アテネにむけての思いの強さの大きさが伝わってきます。
日本、中国、台湾、韓国のなかから1チームが五輪出場権を得るという厳しい大会。
当時の実力からして韓国と日本のどちらかということになります。
その韓国戦で勝ちを逃してしまいます。
その様子が詳細に書かれていて、結果がわかっていても、ハラハラしてしまいます。
得失点差で日本は2位でした。
負けたわけではないのに、五輪の出場権を逃してしまう。
その悔しさは負けて逃すより、辛いものかもしれません。
北京への思いが強いのは、ギリギリのところでアテネを逃してしまったから。
それが大きいと思います。
第5章は日体大に復学してからのことが書かれています。
宮崎大輔さんは、2年に復学されました。同級生は4年生です。
この年、日体大はインカレを制覇、宮崎さんにとっては、初の頂点です。
でも、ナショナルチームのエースとして活躍している実力は、学生リーグでは、その力をもてあますことになり、実業団の大崎電気に所属されます。
ハンドボールに限らず、実業団で競技を続けるということとともに指導者になるというのは、スポーツ選手にとって目指す道のひとつだと思います。
日体大を辞めるということは、教員免許を取得できないということなので、その点はとくにお母さまが、躊躇されたようです。
体育教師になって後進の指導にあたるというのは、親にとっては進んでもらいたい道であるから、その可能性が大学を辞めることで、断たれるというのは、してほしくない選択だったかもしれません。
もっとも教員免許をあとから取得することは、十分可能です。
大学を辞め、実業団に所属して、まさに「ハンドボールで生きていく」、その選択を22歳のときに決断されます。
ここではたいへん「珍しい」試合展開について詳細に説明されています。
どういう競技でも、およそ「セイフテイリード」というものがあします。
もちろん、試合の結果は最後までわからない。
だからといって、これくらい点数差がつけば、勝利は間違いないというだいたいの目安はあるでしょう。
ハンドボールで残り2分で4点差あれば、もう「勝ち」も同然。
相手チームがシュートを決めたら、自チームから攻撃できるのだから、そこで消極的にならない攻めをしても、4点差を詰められるというのは、ありないと思います。
しかしありえないことが、起こってしまいました。
2004年全日本総合の湧永製薬との決勝戦で、2分4点差を同点にされ、延長で敗れてしまったのです。
その様子が詳細に書かれていて、たいへん興味深いです。
2005年のプレーオフは大同を破って優勝、その年の全日本総合も優勝するが、そこには「2分4点差」がチームに教訓として重くのしかかっていたようです。
第6章 今の大輔 これからの大輔
最終章。
2006年に宮崎大輔さんは「スポーツマンNO.1決定戦」で1位になります。
それで一気に「ハンドボールプレーヤー 宮崎大輔」の名前が広く知られることになりました。
ハンドボールという競技が、あらゆる身体能力が求められるということの裏返しでしょう。
宮崎大輔さんほどの運動能力があれば、どういうスポーツに取り組んだといても大成されていたでしょうけど、でも、ハンドボールに取り組んだからこそ磨かれた身体能力もあるのではと思います。
スポーツマンNO.1決定戦のタイトルをとって、まさに「メジャー」になっても宮崎大輔さんはハンドボールプレーヤーであることを一義的にし、決して個人を全面に出されていません。
それが、賢明なことなのかどうかはわかりません。以前から宮崎大輔さんのことを知っている者にとっては、たいへん好感のもてる対応と感じています。
その他、ディフェンスへの取り組み、ファンとの接し方についてなど、決して浮かれることのない冷静な態度、そして現役選手が講習会に参加することの意義を、同じ大崎の中川善雄さんから学ぶところなどが書かれています。
実際に宮崎大輔さんは、講習会で子どもたちとプレーするのがとっても楽しいようです。
それは「ハンドボールのため」という大命題があることはもちろんですが、それ以前に純粋に楽しんでられるように感じます。
自分のことだけを考えるのではない。
自分の今があるのは、自分のまわりの人たちのサポートがあってのこと。
そういうことを、トッププレーヤーが大切にしていることに敬意を感じずにはいられません。
わたしはこの本を読んだのが2006年10月7日でした。
わたしは、9月に立て続けに大きな挫折を経験していました。
ひとつは、自分なりに練習して挑戦したはずの丹後100キロマラソンで、目標にしていたタイムに程遠いばかりではなく、ギリギリの完走になってしまったことです。
もうひとつは、9月末に受験した資格試験がうまくいかなかったことです。
そして、もうひとつは意気込んで書いたはずの原稿が、取材先のOKをもらえず、自分では持て余してしまって、編集者の加筆によってようやくOKをもらえたことです。
とくに3つめの、原稿に関しては、自分の力に賭けて、絶対にいいものを書くと、そういう強い思いをもって挑んだにもかかわらず、挫折をしてしまいました。
わたしなんて、全然ダメなんやから。
もっと頑張れるはずだったのに、なぜ、頑張らなかったのか。
わたしは、どうしてできなかったのだろう。
こんな重い気持ちを、引きずって、自分のダメさ加減を痛感していたのです。
9月はわたしにとってとても充実していました。
1日の時間をどう使うのか。
練習時間、勉強時間、そして原稿を書く時間。
もちろん正規のしなければならない仕事の時間もあります。
走っていたら勉強のことが気になり、原稿のことが気になりと、落ち着きませんでしたが、でも、悩みながら時間を配分し、目標に向って努力することに充実感を感じていました。
ふだんだったら、「まぁいいか」、「明日にしよう」とついサボってしまうようなことでも、目標があったから、それを達成するために、いつもはできないような練習ができたり、すぐくじけて寝てしまうのではなくて、もうちょっと頑張ろうと勉強時間を確保したり、わたしにだってできるのかもしれない、そんな希望ももちました。
そうやって迎えたいくつかのことですが、その充実感は結果にはつながりませんでした。
まず、100キロマラソンが近づくにつれて、その日がくることが怖くなりました。
どうして、こんなことに挑戦しようと思ったのだろうか。
100キロ走ることに何の意味があるのか。
こんなにいろいろなことを犠牲にして、自分の好きなことばかりやっていていいのか。
自分の怖さを肯定するために、いろいろな言い訳を考えていました。
それでも、スタートラインに立って、目標としたタイムを達成するために積極的に走り出すことができました。
通過時間も順調にこなしていっているのに、原因不明の足の痛みが出てしまい、後半でタイムを大きく落として、目標達成はできませんでした。
制限時間に辻褄を合わせたようなゴールタイムに、自分の不甲斐なさを感じ、また、「これくらいできればいいだろう」という自分への甘えを痛感しました。
わたしって、なんでこんなにダメな人間なんだろう。
そういう挫折感でいっぱいになりました
資格試験の勉強にしても同じでした。
自分なりに努力をして挑んだにもかかわらず、全然、対策をしていない問題はお手上げになっただけではなく、確実にとれるものまでミスで落としていました。
自分なり頑張ったといっても、それは単なる自己満足。
現実の厳しさをわかってないで、ちょっと頑張ったからって、それでいい気になっていただけなんです。
そしてさらに追い討ちをかけるように、原稿の失敗があります。
ものを書くという点においては、妥協はしない、いいものを書けるまで自分を追い込める、そんな自負はあったのに。
そして、今回の取材対象を書くことによって、自分の転機になるようなものを書いてみたい、そんな思いで書き始めた原稿でした。
こんな気負いは、すぐにバレてしまいました。
ものを書くには謙虚さが必要なのに、それを忘れていました。
自分のために書いた原稿、そんなのが受け入れられるわけがありません。
見事に見透かされて、返されてしまいました。
そして、自分ではどう直すこともできませんでした。
最初に書く段階で、方向性を誤まったものを修正することができませんでした。
結局、他の人の力を借りて、原稿にすることができました。
情けないです。
わたしが書けなくなったら、何も残りません。
それを自ら放棄してしまったのです。
ほんとうにわたしって、ダメな人間。
能力もないのに、いろんなこと挑戦しようとするのが間違っているのです。
いまさら、何をしようというのでしょう。
無難に平和になんとなく生きておく、それがわたしに与えられたこと。
ダメなんだから、何かしようなんて思わないほうがいいのかもしれません。
と、わたしは自分を見放すしかありませんでした。
自信喪失を痛感していた9月の出来事。
挑戦したら挫折をするから、挑戦することをやめてしまったほうがいいのではないかと思っていました。
10月は、何も考えない、頭を真っ白にする、そうして過ごしていた10月でした。
兵庫のじぎく国体を観にいくことは、そんな自分へのプレゼントでした。
好きなスポーツをみて、少しは元気にならなければと。
そのときに読んだのが「Fly High」でした。
この本のテーマは、まさに「挑戦」です。
わたしがあきらめた、やめようとしている「挑戦」です。
挑戦をあきらめるくらい、努力したのかどうか。
まだまだそんな域には達していません。
いつも挑戦すること。
そういう姿をわたしはスポーツ選手から受け止めています。
その姿に少しでも近づくことで、わたしも元気になれるのではないかと。
「Fly
High!」を読んで、もっと頑張らないと、わたしなんてまだまだ、そんなメッセージを受け止めました。