実は、わたしはC大へ入学する前に、京都ノートルダム女子大学というところに行っていた。というか普通にちゃんと卒業した。それなのになぜまたC大に行ったかというと、最終学歴がノートルダムになるのが嫌で、とにかく別の学歴を上からかぶせたいという、そんな不純な動機であった。
 なぜノートルダムが嫌いかというと、それもまた複雑でいろいろあるが、端的にいうとノートルダムのイメージと自分が全然あっていないからということになる。それではC大はあっているのかといえば、そんなこともないが、C大に別の学歴をかぶせようとは思わないから、C大は受け入れられているのだと思う。
 先日、そのノートルダムの同窓会へ初めて出席した。今年、わたしたちの学年が幹事なので、去年から学年委員をしている同級生に声をかけられていたからだ。たいして仲のよかった人ではないけれど、70人ほどのうちの学科の人間に電話をかけてまわっているという作業を思うと、その人のためにも出席しなければと思った。
 振り返ってみると、小、中、高、大を含めて、年賀状以外ではほとんど付き合いがなくなってしまった。20代のときは、結婚式に呼ばれて顔を合わすということもあったが、そういう機会もなくなった。年賀状にしても、最近はお互いe-mailアドレスを書いたりして、何度かメールでやりとりしたこともあるが、長続きしていない。
 ノートルダムでのエリート志向、結婚願望の強い人たちと机を並べていることの違和感、そして卒業後、その志向通りに生きていくようにみえる同級生。結婚相手がいかに階層のたかい人かを、延々と聞かされたこともある。人の選んだ人生に、あれこれ言うつもりはないけれど、もう少し、「自分」を生きている人と付き合いたい。ノートルダムでは、そんな人には出会えないような気がしていた。

 「幸せくらべ」。人生を人とくらべて、一生懸命、生きていたような気がする。「自分の人生」といいながら、それがみえなかったから、人のことが気になっていたのだと思う。
 10年以上走ってきて、ここ2,3年の走ることと、そのネットワークの充実ぶりが、今のわたしをつくっているのかもしれない。別に走っていることを、口外するわけではないけれど、自分には大切な至福の時間がある、そしてそれを共有する仲間がいる。自分に自信がなから、自分に確信がもてないから、人のことも気になるし、信じられない。そう気づくまで、こんなに長い月日を費やしてしまった。
 同窓会では、帰天した同窓生に黙祷し、聖歌を歌っている自分がいた。わたしにもこうして過ごした4年間があったのだと、ようやく受け入れたられたような気がする。
 ありがとう、誘ってくれて。

『幸せくらべ」

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