小学1年の頃のことだったと思います。子ども会のクリスマス会があって、プレゼント交換のためのプレゼントを買いに行きました。100円以内というきまりだったので、わたしは母から200円もらって、兄のと2人分のプレゼントを買いに行きました。「プレゼント用だからと言って、包んでもらいなさい」と言われ、文房具やさんで絵柄のはいった鉛筆や消しゴムを買いました。お金を払う時に、「包んでください」と言うと、おばさんは、「100円くらいで包まれへん」と言って、トンボのボールペンの袋に2人分のプレゼントを入れてしまいました。
 家に帰って、母にそれを見せると、「なんで言わなかったの!」と怒られました。そして、母は「包んでもらってくる」と文房具やさんへ行こうとしました。わたしは母を必死で止めました。家を出ようとする母に「行かんといて」と言って腕にすがったり、引っ張ったりして、母が行かないようにしていました。
 結局、その後どうなったのかさだかではありませんが、クリスマス会へはちゃんと包んたプレゼントをもって行けたことだけは憶えています。
 さて、わたしはなぜ、母を止めたのでしょうか。
 「100円くらいで包まれへん」と言ったおばさんと、母とを会わせたくなかったといえば、随分と配慮のできる子どもなのですが、そうではなく、わたしは、おばさんにも母にも「いい子」にみられたかっただけなのです。おばさんにも何も言わず帰ってきて、母にも何も言えず、いい子を演じようとしたけれど、それは母が文房具やさんに行ったら、ばれてしまうから必死で止めたのです。
 このような状況でわたしには、どういうことができたのでしょうか。
 「包まれへん」と言ったおばさんに、「クリスマス会だから」ともう1度、頼んでみること。「100円以内がきまりだから」と言ってみること。「お母さんにそう言われた」と、母のおつかいであることを言うこと。「なんで包んでくれないの」と文句を言うこと。母に「100円では包んでもらえなかった」と言うこと。母におばさんの悪口を言って共感してもらうこと、等。こんなにいろんなことができるはずなのに、わたしには何もできませんでした。それだけでなく、わたしが泣かなければならない理由はないのに、号泣していました。
 このことは、わたしが今、いろいろな行動をとろうとするときの、「規範」のようになっています。わたしは、みんなに悪く思われたくないという、気持ちの小さな人です。でも、だからといっていつでもいつでも「いい子」でいれるわけではありません。ここ1番、何か言わなければ、何か行動しなければと思ったときは、文房具やさんで簡単に引き下がった自分、母に何も言えなかった自分を思い出します。そして、泣きじゃくっている自分ではいけないと思って、勇気を出して行動しています。
 ただ、何も言えない分、よかったなと思うこともあります。言えない分、その気持ちを文字にするエネルギーをもちあわせていました。今、わたしが、こんなふうに文章を人に読んでもらえるのは、そのエネルギーの蓄積かもしれません。

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