恋におちて  小林明子 詞 湯川れい子 作曲 小林明子

 週末は彼に逢えない事情があって、でも逢いたい、この気持ちどうしたらいいんだろう、という歌です。
 内容はかなり深刻なんですが、そのわりに曲はそれほど暗くありません。初めて聴いたとき、「カーペンターズと感じがにてる」と思ったのですが、編曲者かプロデューサーかがカーペンターズと関わりのある方で、小林明子さんもカーペンターズにかなり影響をうけているということをあとできいて、納得したものでした。
 そんなに暗くないといっても、詞はかなり切ないです。
 「どうしても 口の出せない 願いがあるのよ 土曜の夜と日曜の 貴方がいつも欲しいから」。
 どうも、彼は妻子もちなのかな。週末は逢えない、連絡もとれないのでしょう。「ダイヤル回して手を止めた」って、当時はダイヤル式で、電話は一家に一台というとき。今だったら、携帯電話があるけど、でも、やっぱり電話できないし、メールもできないってところでは、たいして変わりがないのかもしれません。
 ところで、彼(彼女)の私物(手帳、携帯電話のメモリーなど)を、見ますか? 見たいと思いますか?
 わたしは、絶対に見ません。見せられても見ません。なにか「疑い」をもったとき、見たいと思うことがあるかもしれませんが、絶対に見ません。やましいことがあるからとかではなくて、やっぱりそういうとこって、入ったらいけないところだと思っています。
 電話はともかく、メールくらいできるかなと思っても、でも、メールできても切なさは同じかな。逢いたいけど、逢えないというより、自分が入れない世界がある。それが切ないのかな。

 わたしが「家庭」というか「結婚」というか、そういう繋がりって何?と強烈に印象づけた事件があります。不倫相手とその妻が外出中に、相手の家に放火して子ども2人を焼死させたという事件です。事件そのものでなく、その子どもを殺された夫婦は、結局、破綻せずに「家庭」を維持し続けているということです。当事者同士がよければそれでよくて、事情もほとんど知らないわたしが、何かを言うのもヘンなんですが、でも、やっぱり「そんなに家庭(結婚)って大切なの?」と思いました。
 彼女が事件を起こすきっかけくりのひとつは、彼女の手記によれば、妊娠中の妻に妊娠中絶をなじられたことだといいます。中絶なんてねぇ、したくてする人、誰もいないのにね。まぁ、妊娠中絶を繰り返してしまうというのも、いい加減過ぎない?とは思いますけど。
 放火のことについても、手をくだしたのは彼女のほうだけど、原因を作っているのは、夫のほうでしょう。そういう夫と一緒にやっていくということと、スネにキズもったまま妻と一緒にいるというのも、耐えられないような気がするのですが、そうではないんですね。命を奪うということ、それも幼い子どもの命を奪うことの重大性をいってしまえば、何も言えなくなってしまうけど、でも、そこまでして、相手の「家庭」に衝撃を与えたのに、「家庭」は壊れなかったって、あまりにあまりだと思います。

 「恋におちて」で切ない気持ちになっている彼女は、結局、どうなりたいんだろう。ウィークディも週末も関係なく、いつでも逢える、いつでも自分だけをみてくれる彼になって欲しかったのかなぁ。この歌は「金曜日の妻たちへ」の主題歌だったのですが、どのドラマも「いろいろあっても、結局はもとのサヤにおさまっている」という結末でしかないんですよね。
 わたしは、「家族(家庭)」への帰属意識をあまりもっていないほうだと思います。それって冷たいって思われるかもしれないけど、そういうのでなくて、「家族(家庭)」って偶然というかたまたま、もちろん共有する時間が長い分、思い入れは強いけど、それって家族だからでなくて、個人と個人の繋がりでないかなと思います。

 「恋におちて」の歌から随分とはなれてしまいました。
 この歌は「不倫の彼」を想う歌なんですけど、これくらいの想いだったら別に「不倫」でなくてもおおありなんではないかって、思います。それってロクな恋愛をしていないってことの裏返しかなぁ。そう言われれば返す言葉がないですけど、でも、人の心って他人がどうこうして、動かせるものではないでしょう。自分のほうが好きでどうしようもなくても、そういう想いって悲しいけどたいていズレていて、そのズレがわかるから、相手には入っていけないって思います。そういうのって、オモテには出せませんから。人って自分の気持ちに従って生きているようにみえるけど、実際はそうではないなと、思いました。(2002年3月24日)