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ある日の三枝さんの発言。
三枝 無理なさらずに>小林(お気の毒)泰三さん 1999年09月20日(月)12時41分12秒
誤読もなにも、誤変換のチェックもできない状態の方相手では、文章がちゃんと意図通りであるかどうかさえ、誰にもわかりません。
ですから小林(バカ)泰実さんのご投稿にはコメントのしようがありません。
「AとBは矛盾していますね」
「AはBの誤変換です」
という会話を予想すると、絶望的な気分になります。
議論に戻るのは、せめて、まともな文章が書ける見込みが出てからにして下さい。この記事にコメント、この記事自身、スレッド、返答先、電子メール
この発言だけ見ると、多少穏便ならざる表現も含まれてますが、ま、ありがちな忠告に見えます。しかるに、これが小林泰実ならぬ小林泰三さんへのコメントであるとわかった後には、どうなるでしょうか?
【誤変換のチェックもできない状態の方相手では、文章がちゃんと意図通りであるかどうかさえ、誰にもわかりません。】と啖呵を切っている発言の中で、誤変換があるわけです。
【誤変換のチェックもできない状態の方相手では、文章がちゃんと意図通りであるかどうかさえ、誰にもわかりません。】(以降【誤変換のチェックも…】と略)が真とすると、【誤変換のチェックも…】と書かれている発言は誤変換チェックができていない発言ですから、文章がちゃんと意図通りであるかどうかさえ、誰にも分からない発言であるということになります。
すると【誤変換のチェックも…】は本人の意図通りであるかどうかさえ、誰にも分かりませんから、すなわち【誤変換のチェックもできない状態の方相手でも、文章がちゃんと意図通りであるかどうかはわかる】のかもしれません。
誤変換チェックが出来ていなくても、文章がちゃんと意図通りであるとすると、【誤変換のチェックも…】はやはりちゃんと意図通りの発言となるわけで、すると【誤変換のチェックも…】のだから【誤変換のチェックも…】は意図通りの発言かどうか誰にもわからなくなるわけで……
…うーん、循環論法……
ま、そんなことより、誤変換チェックしてしかるべき発言で誤変換チェックできなかった三枝さんの注意力って、いったいどーなってるんでしょうね………
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