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大森サイファイ伝言板 PickUp !

※【 】…発言タイトル、[ ]…発言者(敬称略)


SFとSci-FiとSkiffyと……[すがやみつる] 1999年08月08日(日)04時22分07秒 より

 えーと、アメリカの「Sci-Fi」についてですが、前に大森さんの掲示板にもちょこっと書きましたが、あれこれ調査した結果を下記のURLに掲載してあります。よろしかったら、ご覧になってみてください。

http://member.nifty.ne.jp/msugaya/sci-fi.htm

 一般の人たちにとっては「SF=Sci-Fi」だと思います。とりわけ映像関連で「Sci-Fi」がよく使われている印象があります。これも「Sci-Fi」が最初はモンスター映画を中心に使われていたことと関係あるのかもしれませんが。

「Sci-Fi」を自嘲的に使い出したのは、安手のペーパーバックなどを専門に出している出版社の関係者たちのようで、この場合は「サイファイ」ではなく「スキッフィー(sikiffy)」と読むそうです。ただし、いつのまにか「スキッフィー」もポピュラーになってしまったらしく、「Sci-Fi」が最初は「Hi-Fi(ハイファイ)」にヒントを得たものだったということも知らない人の中には、「Sci-Fi」は「スキッフィー」と呼ぶものとだ思い込んでいる人もいるようです。

 以上はアメリカでの話です。

 ぼくは梅原さんの主張自体には異を唱えるつもりはありませんが、「サイファイ」というネーミングについては、すでに英英辞典や英和辞典にも「Sci-Fi」が「SF」の同義語として載っており、かつアメリカやカナダの図書館での分類法でも「SF」や「SF/F(SF & Fantasy」と同義語として扱われているようですので、そちらとの整合性も考えたネーミングにしていただきたいな……と思っております。


(無題)[四不人] 1999年08月09日(月)18時33分20秒 より

 「SFの印象は悪いのか」ということでしたが、私の周りでは「そうでもない」というのが私の感じです。
 あまり本を読まない普通の人にとっては、この世は「SF」に溢れていると言っても間違いないでしょう。見ていないけど「アルマゲドン」も「エヴァンゲリオン」も「SF」だと思っているオジさんたちは大勢います。代表的な意見は「クローンやらインターネットやら現実がSFみたいになってきたねえ」というものです。
 割と本を読む友人たちの間では「パラサイトイヴってホラーなの?」というのが一番多い反応です。「世間で話題になっているかどうか」「読んで面白いかどうか」が重要でSFかどうかはあんまり意味がないからです。この人たちも別に「SF」に悪いイメージを持っているわけではありません。
 最後に良く本を読む友人たちの間では「SF」のイメージは悪いです。この友人たちは殆どが「本の雑誌」や「SFマガジン」を読んでるからです。

 私はだから梅原さんとは違い「大衆」が「SF」を嫌ってるのではなく、「出版関係者」「作家」「業界関係者」の一部が「SF」という手垢の付いた(それ故売り文句になりにくい)レーベルを嫌ってるんだと思います。だからこそ、新しいレーベルとしての「サイファイ」に期待したいのです。
 新しいサイファイレーベルが話題になれば上に上げた二番目の種別の友人たちをこのレーベルに引き寄せるでしょうし、それで商業的にうまく行けば更に書き手が増え、私の読みたい作品も増えるでしょうから。
 私は「新本格」のホントの功績は「ミステリ」を活性化させたことではなく、「わけのわからん有象無象」を含む作品群を出版できたことだと思います。それによって新しい読者を獲得したことが結果として商業的にも成功した原因ではないでしょうか?


怠け者の結論[四不人] 1999年08月10日(火)15時37分53秒 より

>この場合、いっそ特定の編集者数人で、一つのレーベルとして、その編集者たち
>の皮膚感覚で、一定の傾向に納めた叢書なり文庫シリーズなりなんなりを打ち出して行く
 私もそう思います。というか、もしもサイファイに具体的な枠をはめるとするならそれしか無いでしょう。作家や読者が「サイファイとは何か」なんて始めたら泥沼の不毛が始まるだけでしょう。

>ただ、もしそれが売れたならば、フォロワーの方は、今手持ちのSF作家、どんなSF作品も、
>そのままでそれと同じ名前で呼んでやれば良いとは考えないと思うのです。
>なぜそれが「今までのSFと違って」売れたのかということを分析して、
>フォロワーなりに、「あの傾向、あのラインで新しい作家、新しい本を出
>そう」と考えるのが自然な行動だと思うんですね。
 そこら辺が私と三枝さんとで意見の違うとこですね。私は三枝さんほど出版社や編集者の能力に信頼を置いていません。おそらく「サイファイ」が当たったら、何もかもサイファイということになるでしょう。サイバーパンクがそうだったように。
 それに「SFは売れない」という出版関係者の分析も(もし、ホントにそう考えている人がいるのならですが)良く考えた結果とは思えません。正しくは「SFという分野名に昔ほど消費喚起力が無くなった」、つまり同じ作品を「SF」というコピーを付けてもさほど売り上げに貢献しないということでしょう。要は宣伝努力や営業活動の怠慢を特定の分野や作品に押しつけているようにしか見えません。努力をしない人は、考えも努力もせず人の成果にのっかります。つまりサイファイが世に溢れるでしょうね(嘆)。
 だから作家の方々には「そういう性質をうまく利用して下さい」と期待するしかないと私は思っています。

 一方の読者としてはSFがサイファイになってもならなくても関係ないでしょう。極端な話、サイファイ=SFとなってSFという名前が無くなったって、殆どの読者には関係ないのでは。SFという名前が消えても「SF」が無くなる訳じゃないですから。私が物心つくちょっと前までは「空想科学小説」はあっても「SF」はなく、日本で書かれるのは「変格推理」という時代だったのですから。大切なのはジャンルではなく、作品そのもの(が出版されていること)だと思います。
 だから、サイファイが偏狭な排他主義に入っていってサイファイであるか、なんて議論にかまけ、それを聞きかじった浅慮な編集者が「こんな作品売れるわけ無いよ、サイファイの定義にあわない」などと言い出すのを恐れているのです。


いろいろ[小林泰三] 1999年08月11日(水)23時56分12秒 より

>うちの旦那も、話をしていて私が「サイファイ」という言葉を言うと、それは「普通のサイファイなのか、梅原先生の言ってるサイファイなのか」と聞き返します。アメリカではSFの略称のような感じで使われているようですね。もし梅原先生のサイファイが定着した場合、海外で紹介する際に困ると思います。

一社のみで、「サイファイ文庫」を立ち上げるのなら、特定の作風だけに限定することは簡単ですが、出版界全体に強制することはまず不可能でしょう。

《中略》

米国おける Sci Fi の変遷には4つの段階があったということですね。

(1) SF の新名称としての提案
はっきりとはわかりませんが、SF という名称を嫌ったのは、Science Fiction ではない、つまり科学的な要素が少ない SF と区別したかったのでしょうか。

(2) B 級 SF 映画の呼称
提案者がB 級 SF 映画好きだったためということですが、これは SF の新名称とするという提案者の意図に反した形で普及してしまったということですね。

(3) B 級 SF 小説の呼称
これは(2)からの類推でしょう。

(4) SF 映画一般、SF 小説一般の呼称へ

というわけで、40年の歳月をかけて、やっと提唱者の意図に近い使われ方をされはじめたということですね。

で、梅原さんの「サイファイ構想」も同じような道を辿って定着するかもしれないという議論も成立すると思います。
ただ、それは単なる呼称の変更であって、梅原さんの意図した既存 SF からの分離という目的は達成できにないでしょう。

《中略》

ところで、実際に「S-F マガジン」にどのような傾向の作品が載っているか、今月号を使って梅原さんの3つの区分に当て嵌めてみました。(著者敬称略)

まず、国内作品ですが、

「螺旋文書」牧野修
これは間違いなく、言葉の正しい意味で超メタ言語 SF です。しかも、「日常から徐々に違和感なく入り込む異世界」を描いているので、サイファイでもあります。どちらにしても、極めて面白い小説です。
#ところで、これって「やおい」にも入ります?

「バフ熱」深堀骨
「日常から徐々に違和感なく入り込む異世界」っぽいので、サイファイ。

「果てなき蒼(亡民)」谷甲州&水樹和佳子
スペースオペラですね。(個人的には違いますが、梅原区分ではということで)

「火星帝国」川又千秋
スペースオペラですね。(個人的には違いますが、梅原区分ではということで)

「ロミオとロミオは永遠に」恩田陸
これは難しい。でも、恩田さんは梅原的定義ではサイファイ作家のはずだから、サイファイでいいのかな?

次ぎは海外作品

「バックアップ・ファイル」マイクル・マーシャル・スミス
これは綺麗な「日常から徐々に違和感なく入り込む異世界」です。サイファイです。

「燃料」アダム=トロイ・カストロ
これはスペースオペラですね。宇宙船が主な舞台ですし。

「クリスマスの扉」ディーン・ウェズリイ・スミス
「日常から徐々に違和感なく入り込む異世界」。サイファイです。

「ただひとつの影」ステイーヴン・デッドマン
「日常から徐々に違和感なく入り込む異世界(というか、日本)」

「メタリカ」P・D・カセック
まず、これって SF? という疑問は浮かびますが、「日常から徐々に違和感なく入り込む異世界」なので、一応サイファイです。

というわけで、「S-F マガジン」掲載作の多くはサイファイなので、「S-F マガジン」がつまらない人にとっては、どっちみちサイファイは面白くないかもしれません。この点注意が必要でしょう。


構想の目的[小林泰三] 1999年08月13日(金)01時19分33秒 より

皆さん、サイファイ構想の目的としてどんなことを想定されてますか?

(1) お金を儲ける。
(2) 現状の SF というジャンルを変化させずに、SF は売れないという現状を打破し、SF を書きやすい、読みやすい状況にする。
(3) 現在の SF というジャンルを再構成して、SF は売れないという現状を打破し、SF を書きやすい、読みやすい状況にする。

梅原さんは(1)ですが、僕の立場としては(2)です。梅原さんのサイファイには入らないような SF を書き、読みたいと思っているからです。

ついでに、僕の現状認識を説明しておきますと、

(a) SF には本来「日常型」とスペースオペラを含む「非日常型」があった。
(b) 「日常型」は SF ブームの時はもちろん、それ以外の時代も売れてきた。
(c) 「非日常型」は SF ブームの時のみに集中して売れた。
(d) SF ブームの時には、「日常型」も「非日常型」も SF として売られた。
(e) ある時期から、SF は売れないという共通認識が出版界に生まれた。
(f) 「日常型」は相変わらず売れていたが、SF とは呼ばれなくなった。また、「非日常型」はヤングアダルトを除き、出版されにくくなった。

というわけで、「日常型」SF はブームに関係なく、売れつづけているわけでして、それを集めて「サイファイ」と名づけることにあまり積極的な意味が見出せないのです。

逆に、「日常型」と「非日常型」を合わせて同じ名前 (「SF」「サイファイ」「幻想伝奇」など) で呼べば、新たな「非日常型」の読者を掘り起こせるのではないかと考えています。


アメリカの書店の話など[小山田] 1999年08月18日(水)15時47分15秒 より

さて、とりあえずアメリカでいくつか書店を見てきましたのでその報告をば。
SFの扱いはどうなっているか、というのが私の関心でした。

《中略》

梅原さんが言及していた『SCI-Fi UNIVERSE』も買ってきました。うーん、これはやはり梅原さんの「サイファイ」とはまったく別物ですね。最新号の特集はスターウォーズで、バックナンバーはスタートレックにバビロン5にXファイルにロストインスペースにディープスペース9。基本はスタートレック(梅原さん的にはたぶんスペオペ)のようです。
また、他の方もおっしゃっているように、Sci-Fi は主に映画やテレビやゲームに使い、小説にはSFあるいはScience Fictionを使っているようです。『SFU』は映像雑誌のようですし、記事の中では小説家のことは「SF writer」と書いています。逆に、別の雑誌『SCIENCE FICTION AGE』では、秋からのテレビ番組の特集に「HOT FALL SCI-FI TV」とSci-Fiを使っています。
ちなみにその特集はバッフィ・ザ・バンパイア・キラーとかXファイルとかですし、『SFU』の映画レビューはターザンやらバッフィやらサイコやらもあり、私が思うSF映画やSFドラマの定義とも相当違っている感じです。

ともかく、少なくともアメリカのSci-Fiは梅原さんの「サイファイ」とはかなりギャップが大きく、混乱の元になりそうです。「アメリカではSCI-FIが定着している」というまさにその理由で、「サイファイ」の名前はまずいだろうなあと私は思いました。

とりあえず、議論するときには、梅原さんの構想にある「サイファイ」は「梅原サイファイ」とし、アメリカのSci-Fiはローマ字でSci-Fiと書くようにしたらどうかな、と思います。


日本の書店の話[小山田] 1999年08月20日(金)05時10分02秒 より

えー、続けます。

アメリカの書店はかのように「ジャンル別」の棚を持っていたわけなんですけれど、さて日本の書店はどうでしょうか? 
今日は近所の書店をのぞいてきました。デパートにある紀伊国屋書店と、別の駅前書店です。どちらもそこそこ大きい本屋です。
まず、小説はハードカバーと文庫とにまず大きく分かれて別のところにおいてあります。ハードカバーもペーパーバックも同じジャンルなら近くにおいてあったアメリカの書店とは違います。

文庫では、どちらも出版社別に分けています。「新潮文庫」「角川文庫」という具合ですね。「角川文庫」と「角川ホラー文庫」は別になっていますから、レーベル別と言ったほうがいいでしょうか。
同じ著者でも、違うレーベルなら遠くにありますし、違うジャンルのものでも同じレーベルなら近くにあります。同じ著者の純文学とSFとエッセイが隣あっている、基本的にジャンル意識のない棚になっています。
ただ、ハヤカワ文庫SFと創元SF文庫を近くに並べていることには若干ジャンルを意識していることが感じられますが、ハヤカワNVが間にありますから、これは「海外小説」というくくりであろうと思います。ハヤカワJAが近くにあるのは、出版社が同じだからでしょう。
紀伊国屋ではハードカバーは「日本文学」と「海外文学」に分かれているだけでした。
駅前書店では「小説・随筆」「ミステリ」「時代小説」のジャンル分けをしていましたが、SFはジャンルとして立てられていません。なによりSFの新作の多くは文庫で出ていると思いますので、文庫を含まないのではSFの棚としては成り立たないでしょう。

つまり、日本の書店は(SF小説に関しては)アメリカのようなジャンル別の棚を持っていないということではないでしょうか。


ジャンルとレーベルとコピー[小山田] 1999年08月20日(金)10時26分18秒 より

さらに続けます。

ジャンル別になっていない日本の書店では、あるジャンルの本を読みたいと思う人は、何を目安に本を探すのでしょうか。

ひとつには、ハヤカワ文庫SFや、角川ホラー文庫のような、「ジャンル志向のレーベル」の中から探す、ということが考えられます。これらのレーベルに入っているものは、レーベル名が示す通りにSFやホラーというジャンルに含まれると推定できるからですね。
ただし、その場合「ジャンル志向のレーベル」に入っていないものは、見落とされることになりかねません。

もうひとつには、帯や裏表紙や、広告やPOPについている「コピー」を頼りにすることができます。たとえ集英社文庫のようなジャンル志向でないレーベルに入っていても、裏表紙に「本格SF」と書いてあることで、『絹の変容』がSFのたぐいであろうことは知れます。
ただし、これらはジャンル志向のレーベルに入っているものより、発見することは難しいかもしれません。

あとはなんでしょうか。SFマガジンのような「ジャンル志向の雑誌」はどうでしょう。
しかし例えば「『パラサイト・イヴ』はSFマガジンのベストテンに入っていたからSF」というような認識が成り立つためには、SFマガジンを読んでいなければなりません。一方、「『パラサイト・イヴ』は角川ホラー文庫に入っているからホラー」あるいは「『パラサイト・イヴ』は裏表紙にバイオホラーと書いてあるからホラー」という認識は、書店の店頭で本を手にとってみるだけで成り立ちます。その意味では、雑誌の力は、レーベルやコピーの力には及ばないだろうと思います。
評論などにおけるレッテルつけにしても同じことが言えます。
ジャンル分けされていない日本の書店では、レーベルとコピーが、ジャンル本を探す大きな拠り所になっているのだと思います。ですから「本来SFである作品が、ホラーやミステリとして売られている」というのは、「ジャンルとしてはSFである作品が、ホラーやミステリ志向のレーベルから、ホラーやミステリのコピーをつけられて売られている」ということだろうと思います。


さて、「コピー」は、個々の本に対してつけられるものです。「本格SF」「バイオホラー」「テクノサスペンス」など、種々のジャンル名を合成したり言葉を足したり考案したりして、非常にバラエティに富んだコピーが見られます。ひとつの作品にしか用いられないコピーもあるわけですし、おそらく編集者ひとりが了承すればどんなコピーも使えるのでしょう。
ただし、コピーは表紙や広告でちらっと見られるだけものですから、ぱっと見て内容がわかることが必要な条件でしょう。

「レーベル」は、複数の作品に対してつけられるものです。たいていはひとつの出版社に属する作品群ですね。「ジャンル志向のレーベル」の場合、その出版社の編集者が「ある共通のジャンルに属する」と考えるような作品群が、そのレーベルに入れられることになります。 ひとつの作品、ひとりの作者ではレーベルにはなりません。

ともかく「コピー」と「レーベル」このふたつは、出版社や編集者、ひいては作者の意向によって決めることができるものです。

一方、「ジャンル」はそうではありません。
アメリカの書店におけるクーンツの扱いを見る通り、いくら作者が「ホラーではない」と言っても、読者は〜そして読者代表としての書店は〜HORRORに分類してしまいます。
ジャンルは、最終的には読者が決めるものであり、出版社や編集者や作者の意向は、参考にされるにとどまるのだろうと思います。
読者のそれぞれが決めるということは、ジャンルの境界線は常にあいまいであり、議論の余地があるということです。クライトンが、書店によって違う棚に置かれていることがそれを示していると思いますし、「これはSFではない」という論議がよく見られるのも(私にはそう見えます)そのことを示していると思います。特に日本のSFの場合、書店が「ジャンル分けの見本」を示してくれませんから、ジャンルの境界線どころか、ジャンルの中心がどこかすらコンセンサスがなくても不思議ではありません。
そしてそれは、出版社や編集者や作者には根本的にはどうしようもないことだろうと思います。


コピーとレーベルとジャンル、これらは性格が違うものです。だから議論する時には分けて考える必要があるというのが私の考えです。たとえば「SFは嫌われている」と言うとき、その「SF」というのがコピーなのかレーベルなのかジャンルなのか、ということをはっきりさせたほうがいいと思います。


梅原構想の考察[小山田] 1999年08月20日(金)10時29分55秒 より

そういうわけで、梅原「サイファイ」構想についても、

コピーとしての「サイファイ」
レーベル名としての「サイファイ」
新ジャンルとしての「サイファイ」

の、それぞれの観点から考えるべきだろうと思います。


まず、コピーとしての「サイファイ」です。そもそも梅原書簡は「梅原がその作品をSFとしてではなくホラーとして世に出すほかはない」という現状への憤りから始まっています。ここで「SF」とか「ホラー」とか言うのはなんでしょうか。日本にはジャンルの棚はありませんから、SCIENCE FICTIONの棚に置かれなかったことが問題ではないでしょう。梅原作品をハヤカワから出そうとして断わられて角川ホラーで出したという話でもないから、レーベルの問題でもない。だから、問題は「SF」というコピーが使えなかったことにある、と私は思います。(それはつまり「SF」というコピーをつけると売れない、という編集者の現状認識に由来するのでしょう。)だから梅原構想はまずコピー構想であるはずです。

さて、コピーとしての梅原「サイファイ」の長所は、なんといっても新鮮なことです。「SF」というコピーをつけると売れなくなるのなら、SFという言葉をやめればいい、というのは正しいし、新しい言葉には、新しい形式の小説への期待を感じます。旧来のSFにつきまとっていたイメージ(私にとっては「後味が悪い」とか)をぬぐいさるには、新しい響きの言葉が必要でしょう。

短所は、「ぱっと見てわかりにくい」ということですね。「SF」という言葉は浸透していますから、「宇宙もの」とか「未来もの」とか誤解はあるにしても、まったく不明ということはない。しかし「サイファイ」はほとんど浸透していない言葉ですから、人によってはまったく不明なコピーになります。それなら「超絶エンターテインメント」のほうがまだしもわかりやすい。
もし、「サイファイ」からSci-FiやSCIENCE FICTIONを連想できる人がいたとすると、今度はアメリカでの用法とのギャップが問題になります。


次に、レーベルとしての「サイファイ」です。レーベル名の場合、ぱっと見のわかりやすさはそれほど必要ではありません。
作品「群」である以上、収録されている作家や作品で内容がわかる、ということもあるでしょうし、別途コピーをつければよいということもあるでしょう。
「異形コレクション」というのはあまりわかりやすい名前ではありませんが、菊地秀行氏が書いていたり「ホラーアンソロジー」というコピーがあったりしたことで、内容はわかりましたよね。
ですから、レーベルとしての「サイファイ文庫」なり「サイファイアンソロジー」なりの場合、「サイファイ」という言葉のわかりにくさは問題ではありません。理解してくれる出版社や編集者が現われれば、実現の可能性は高いといえます。

問題は、レーベルはひとりの作家ではできない、ということです。
その点で、梅原さんの喧嘩っ早い姿勢は、よしあしというところでしょうか。
梅原さんの言う「サイファイ」はやはりSFに近いものですから、そのような作品の書き手はSFファンの中からも出てくるだろうと思います。あのように旧来のSFを口を極めて攻撃する姿勢が、旧来のSFにものたりないSFファンの共感を呼べばいいのですが、どうも無駄な反発を招いている感があります。ちなみに私が「サイファイ」っぽいものの書き手として期待しているのは、ヤングアダルトでSFっぽいものを書いている人たちだったりしますが、ファン大会によく出ている方々は、梅原構想には賛成しかねるでしょう。
あまり間口を狭めると、レーベルとして成り立つだけの作家が集まらない、という危惧があります。


最後に、ジャンルとしての「サイファイ」です。
私が梅原構想に感じる最大の魅力は、ホラーやミステリやファンタジーのレーベルから出たりいろんなコピーつけられていたりして、そのためにひとつのものとして見えなかった『パラサイト・イヴ』や『天使の囀り』や『ソリトンの悪魔』や『蒲生邸事件』や『オルガニスト』を、ひとつのジャンルとして見る視点を与えてくれたことにあります。
だから、これらの、旧来のSFとは異なる、エンターテインメント性にあふれたSF的作品群を「SF」ではない名前で呼ぼうという提案には全面的に賛成します。
(「サイファイ」という名称にはやはり疑問を感じますが。)

ただしかし、梅原構想は、それらの現存する「サイファイ」っぽい作品を受け入れようとしているでしょうか。
瀬名さんすら敵にまわそうとしているご様子からは、『パラサイト・イヴ』を『ソリトンの悪魔』と同じジャンルにするつもりはないだろうかという気もしてきます。
読者である私にとっての現状の問題点は、「サイファイ」っぽい作品群をひとつのジャンルとして呼ぶ名称がないために、応援することも推薦することも、もちろん書店で類似作品を見つけることにも不自由しているということです。
もし現存する類似作品が排除されるのならば、私にとっては「梅原サイファイ」というジャンルはあまり助けにはならないだろうと思います。

もちろん、ジャンルは誰かに強制されるものではありませんから、読者としては、梅原さんには感謝しつつ、「サイファイ」っぽい作品群には別の名前をつけるのがよいかも知れません。
個人的にはどこかで見た「ネオSF」というのが気に入っていますが。


すさまじきはログの流れ[四不人] 1999年09月02日(木)19時37分09秒 より

私が覚えている限りの論点は
・サイファイという言葉は適当か
・サイファイ構想とはコピーかレーベルかジャンルなのか
・サイファイに加えるべき作品を限定することは本当にサイファイにとって有利なのか
・超メタ言語作品とは何か
・SFは嫌われているか
などだったと思います。


ちょっと整理したいのですが[四不人] 1999年09月03日(金)12時55分26秒 より

 最近のやり取りを整理しますと、

・最近「SF」というコピーあるいはジャンル全体が多くの出版社で忌諱されているように思える
・そうした忌諱は「普通の読者」にもあるかも知れないが、無い可能性も十分高い
・梅原さんは(少なくとも昨年の段階では)「多くのジャンルで「SFに対する忌諱」が「大衆(「普通の読者」と同意といっていいでしょう)」に存在する」と考えておられたようだが、この点は三枝さんとはやや認識が異なる
・上の異なる点と言うのは「多くのジャンルで」という部分で、三枝さんは「読者に「SFに対する忌諱」があってもそれは活字分野のことである」という考え方である
・一方四不人は「SFに対する忌諱」は「出版社」には存在するが、「普通の読者」にはないのではないかと考えている ・ここで「普通の読者」とは「普段それほどSFを読まず、SFに特別の思い入れもない、ごく普通の読者」を指す


三枝さん、いかがでしょうか[四不人] 1999年09月03日(金)19時54分29秒 より

三枝さんと私で最も意見が分かれたのは
「SFからある部分(超メタ言語作品、スペースオペラなど)を排除したかたちにサイファイをするのが有利なことかどうか」
であったと思います。これについて論じたいと思います。

もはや過去ログの彼方ですが、論点を整理したときに
・SFに対する忌諱は「普通の読者」にもあるかも知れないが、無い可能性も十分高い
・三枝さんは「読者に「SFに対する忌諱」があってもそれは活字分野のことである」という考え方である
と言う点を指摘させていただきました。

 梅原さんの理論の場合、大まかに要約すれば
1.「普通の読者」にはSFに対する忌諱がある
2.それらは映画や小説の売れ行き、コピーの付けられ方を見れば明らかである
3.現在のSFの主流は「超メタ言語作品」である
4.従ってそれを排除すれば「普通の読者」から忌諱されなくなって売れるであろう
ということだと思います。
 この理論の場合、1及びそれを支える理由である2が成り立たなければ3が真であるかどうかに関わらず4が成り立たなくなってしまいます。
 三枝さんの「理論」の場合でも同じ事になってしまいます。また梅原理論の場合は、現状認識である2が間違っている可能性が高いものの1を支える理由として2が挙げられているのに対し、三枝さんの場合「何故(活字に限ったとしても)SFに対する忌諱が読者に生じたのか」と言う点に触れられていないので、更に基盤が脆弱ではないかと思います。

 もちろん梅原・三枝両氏に共通する「SFに対する忌諱が読者に生じた」という正しい可能性も十分あるのですが、以前に三枝さんがおっしゃっていた「宝くじの確率を上げる」という立場からするといかがでしょうか?

 次に私が主張するように「SFの大部分をサイファイに入れる」場合について検討します。
 もしも「SFに対する忌諱が読者に存在しない」場合には梅原理論の3が真であっても間違っていても「サイファイの売り上げにはあまり影響しない」ですよね。
 また「SFに対する忌諱が読者に存在する」場合については梅原理論の3が真である場合に限って「サイファイの売り上げが落ちる」かもしれません。3が真でない場合にはその可能性は低くなります。
 従って、「宝くじの確率を上げる」なら「「SFからある部分を排除したかたちにサイファイをしないほうがいいのではないか」というのが私の推論です。

 間違っている点があるかも知れません。特に梅原理論や三枝さんのご意見の理解に関して間違っている点があればもしご指摘頂ければ幸いです。
 私が最も知りたいと思っているのは、
・三枝さんが「SFに対する忌諱が読者に生じた」と思われている理由
・梅原理論の3が真だと三枝さんが考えておられるなら、具体的にそれはどんな作品なのか
と言う点です。


SFの古典[akaosug] 1999年09月04日(土)14時44分04秒 より

SFの古典とはどこまでか、について、気分的なものとしては、ガーンズバックさんのScientyFiction以前の作品をそう呼びたいように思います。つまりジャンルとして成立する以前に頑張って(?)書いていた人に対する尊敬を込めて、です。
じゃあ時期的に重なるステープルドンやチャペック、ザチャーミン、ウェルズなどはどうかとか、1984は違うのかとかと牛いうと、まあそのへんは文脈依存で。日本でなら、やはり45年で分けるのかなあ?
「火星の月の下で」はSFかとかはともかく、ドイルやバロウズは古典の範囲になりそうですね。

ところで、死者の代弁者さんの調査があるかもしれませんが、図書館で子供の本のコーナーを見てると、昔あったSFの叢書みたいのって今は全然置いてないんですよね。
児童向けに供給されるSFってのは蛙「文学」全集の例によって最後の1,2巻だけというのが現況のような気がします。なんででしょう?


お仕事を優先して下さいね[四不人] 1999年09月06日(月)00時37分49秒 より

 正規の返事をいただく前(なんだか梅原ー青山書簡みたい)ですが、幾つか予備的な論点を書くだけ書いておきます。

(1)ある傾向の作品群(今回問題になっているのは「超メタ・・」です)が「主流になっている」というためには、
  ・その作品群の数が多く、他の傾向の作品群が目立たない
  ・その作品群のフォロワーがたくさんいる
  ・賞を取るのはその作品群のものが多い
  ・新人にその作品群を書くものが多い
  ・そうした傾向の作品群しか売れない、出版されない
などの場合だと思いますが、いかがでしょうか? ここに挙げた条件を全て満たす必要は無いでしょうが、すべて当てはまらないとしたら「主流になっている」とは言えないと思うのですが、いかがでしょう?

(2)三枝さんの推論の1「現在の活字SFの主流は「超メタ言語作品」とか、「SFとしての新しさに拘泥して娯楽性を忘れた、新しいだけの面白くない作品」である」という場合のSFとは翻訳SFを含むのでしょうか?
 もし含まないとしたら、翻訳SFを分けて考察するのは何故でしょうか。

(3)映画やコミックスなどでは、「SFに対する忌諱」があるにも関わらず「面白い作品」が産生され、結果としてその「忌諱」は消滅した、というのが三枝さんのお考えだと思います。それでは何故、ヤングアダルト作品やSF的作品、それにSFそのもの(最近では「星界の紋章」)の成功にもよらず、活字分野では「忌諱」が消滅せず、「SF」という名を捨て「サイファイ」を立てる必要が生じたのでしょうか?

(4)瀬名秀明さんの作品について。これはサイファイに入る作品だと思われますか? はっきりとおっしゃってないので、梅原さんの意見は分かりませんが、青山さんとのやり取りを読む限りでは「梅原さんはサイファイでないと考えている」という印象を私は持っています。三枝さんのお考えはいかがでしょうか。
 もし入らないとすると、ジャンルとしての「梅原(あるいは三枝)サイファイ」の性格がよりいっそう分からなくなると思うのですよ。

(5)もしもおっしゃるように「「現在の活字SFの主流は「超メタ言語作品」」とすると、既存作家の作品の多くが「サイファイ」では無いということになってしまいますが、既存作家の作品中には多くの優れた作品があります。それらを全て排除することのデメリットと、「レーベルのスタイル提示がしやすい」というメリットとで、後者を取るのはどういうメリットがあるのでしょうか?


サイファイ作家はどのくらい儲かるのか?[小林泰三] 1999年09月06日(月)07時35分29秒 より

梅原構想においては、サイファイを立ち上げる重要な目的に利益をあげるということがあります。つまり、利益を無視した SF に対し、儲けが出るサイファイという構造です。
では、サイファイ作家はどのくらい儲かる商売なのでしょうか?
サイファイ作家のモデルとして、梅原さんの場合を検証してみましょう。

梅原さんの著作の価格は以下の通りです。(紀伊国屋サイトのデータ)

             新書        文庫
『二重螺旋の悪魔(上)』  922円       800円
『二重螺旋の悪魔(下)』  922円       800円
『ソリトンの悪魔(上)』  951円       800円
『ソリトンの悪魔(上)』  922円       667円

それぞれの売り上げ部数ですが、新書版は S-F マガジン誌上で、梅原さん自身が

『二重螺旋の悪魔』   7万部    『ソリトンの悪魔』  8万2千部

と発表されていますし、新書と文庫の合計は今年の5月の青山さんへの書簡で

『二重螺旋の悪魔』   19万部    『ソリトンの悪魔』  18万部

と発表されていますので、文庫版の売り上げは

『二重螺旋の悪魔』   12万部    『ソリトンの悪魔』  9万8千部

ということになります。
印税率を10% とすると、印税収入の合計は30,921,600円となります。『二重螺旋の悪魔』が発売されたのは1993年8月ですから、この収入は約6年間分に相当します。1年あたり、平均515万。
実際には、資料購入、取材、打ち合わせ、事務消耗品、光熱費などの経費を引かなくてはならないので、印税以外の収入があったとしてもこれを大きく超えることはないと思います。
年収500万と聞いて、皆さんはぼろ儲けで羨ましいと思われますか? それとも、そんなものかと思われるでしょうか?
因みに、作家としては高収入の部類に入ると思いますが、梅原さんと同じ年齢で他の仕事 (例えば会社員) をしている方の中にはこれ以上の年収の方も珍しくはないでしょう。

単に金儲けがしたいなら、たぶん他の仕事を選んだ方がいいでしょう。
小説執筆以外の才能がない、もしくは小説以外で収入を得る気がない方には一考の価値があるかもしれません。
#ただし、梅原さんほどの才能が必要なことは言うまでもありません。


面白いものを発見しました[死者の代弁者] 1999年09月10日(金)14時42分59秒 より

だいぶ古いんですが、森下一仁さんの日記・1999年8月2日にあった言葉を引用してみます。元ネタは「1980年に出た『読書巷談・縦横無尽』(日本経済新聞社)」という本の、向井敏氏による言葉だそうだから、もっと古い。しかし1980年というと、多分「SFの夏」真っ盛り、という時代だったんじゃないでしょうか。

>型破りであればいい、現実ばなれした遊びを楽しめばいいということを口実に、テーマがぐらぐらしていて読者を途方に暮れさせるようなSFがじつに多いんですが、そんななかで初期の光瀬龍のように手堅くまとまったのは珍しい。(向井敏氏の言葉)

この、「テーマがぐらぐらしていて読者を途方に暮れさせるようなSF」って言葉が「型破りであればいい、現実ばなれした遊びを楽しめばいい」と関連させるような形で出ているのを見ると、SF(コアなSF)はどうも新規なものを求め続けて自壊した(読者離れが起きた)という事実が過去にあるようです。なんか歴史上の謎解きをするみたいですね、「あれほど栄華をほこった○○文明はなぜ滅びたのか」みたいな。


「読者離れ」か「近寄ってこなかったのか」[四不人] 1999年09月10日(金)19時49分11秒 より

>この、「テーマがぐらぐらしていて読者を途方に暮れさせるようなSF」って言葉が「型破りであればい
>い、現実ばなれした遊びを楽しめばいい」と関連させるような形で出ているのを見ると、SF(コアなS
>F)はどうも新規なものを求め続けて自壊した(読者離れが起きた)という事実が過去にあるようです。

 森下さんの日記による紹介によれば「1960年代にはあんなに面白かったSFが、今ではすっかり色あせてしまっている」とか「確かな事実のうえに立って、しかも意想外の仮説や推論を展開してゆく、いわゆるハードSFにその傾きがいちじるしい」とも述べておられますね。ただ向井さんの言葉がSF全体に向けられたものか「日本SF」に向けられたものか、あるいは「日本のいわゆるSF作家が書いた作品」よく分かりませんけども。
 こういう意見がSFをずっと読んでこられた方(向井さんもそのおひとりですね)や評論家の一部、それに出版社などにあったのは事実だと思います。

 今月号の「本の雑誌」と言う雑誌にこの雑誌の編集部が選んだ「90年代のベスト100」が掲載されていますが、ここに挙げられているSF的作品を見ると

「消えた子供たち」 「図南の翼」 「ハイペリオン」 「リプレイ」 「陰陽寮」 「ソリトンの悪魔」 「スキップ」 「秘密」 「空想科学読本」 「七回死んだ男」 「エリコ」 「ウォッチャーズ」

と、見落としがあるかも知れませんが12作品もあります。(「アレはSFとは言えない」とかおっしゃる方があるかも知れませんが(苦笑)、これらはいずれも「SF」として売っても普通の読者にはそんなに違和感のない作品だと思うのです。)
 もちろんこれはこの雑誌の編集部が勝手に選んだものですけれども、ここに挙げられた作品を見ると必ずしもSF的作品全体が読者離れをおこしているとは思えません。ここに並んだ作品を見て思うのは、「日本人のSF作家(だと自分でおっしゃっている人)の作品が少ない」ということですね。「エリコ」と「ソリトンの悪魔」(これを書いた頃は梅原さんは自分をSF作家だと思っていらしたのでは)くらいでしょうか。
 だから「いわゆる日本のSF作家は一般の読者を引きつけるような作品をここ最近あまり生み出してこなかった(ゼロじゃない)」「日本のSFで一般読者を引きつけた作品はたくさんあった(従って一般読者が「SF」からはなれて言ったわけではない)が、その多くはいわゆるSF作家ではない作家から供給されている」ということは言えると思います。

 死者の代弁者さんがおっしゃっている「コアなSF」というのはこの「いわゆる日本のSF作家が書いている作品」ということでしょうか。それでも「読者離れ」が起きたというよりは「普通の読者を引きつけるような作品が少なかった」ということではないでしょうか。


ベストセラーとロングセラー・ほか[死者の代弁者] 1999年09月11日(土)14時34分31秒 より

ところで「パラサイト・イヴ」とか「スキップ」「らせん」とかベストセラー(梅原サイファイのお手本になるような)小説っていうのはどのくらい売れ続けているんですかね? トータルでの売り上げは凄いのでしょうが、発売2年後はどのくらい売れているのだろう。ちょっと興味があります。

ああ、それには私にも興味があります。ベストセラーにならなかったものはロングセラーにもなりにくいとは思いますが、ベストセラーにはなってもロングセラーにならなかったものはけっこうあると思います。『大往生』とか『遺書』とか。小説のほうがベストセラー→ロングセラー化する確率は高いと思いますが。今の時代と結びついているような「情報」小説というのは、その点若干の懸念がありますか。本来なら科学的知識・情報が背後にあるSF、なんてのは、ベストセラーにしやすそうですが(『日本沈没』がその顕著な例ですね)、ロングセラーにはなりにくいかな。名前の挙げられた3冊の中では、『スキップ』が一番ロングセラーになりそうな気がします。

「キャラ萌え」と「SFの面白さ」ってのは、べつに相反するものではないと思っています。SF的な面白さがあって、キャラが立っているものがあっても、不思議はないでしょう。そして、「キャラ萌え」で読んでいた人が、「SFの面白さ」に目覚める可能性も否定できないと思います。

これは難しい問題ですね。「キャラ萌え小説」で小説を読んでいた読者が、キャラ萌えでない小説を読む可能性があるとすれば(「SFの面白さ」が本来、キャラ萌えとは無関係なものであるということに目覚める可能性があるとすれば?)、「キャラ萌え小説」を読んでファンになった人間が、同じ作者の別の小説を読む、もしくはその作者がリスペクトしている別の作家の小説を読む、ということになるでしょうか。放っておいたら、キャラ萌え小説の読者は、ずーっとキャラ萌え小説しか読まないでしょう。

「本を読み慣れた人間」が少数派だとしても、その人たちは、ちゃんと本を買ってくれます。それから、ウェブに感想を載せてくれたり出版社に葉書を出してくれたりもするので、無視はできないでしょう。

無視はできませんが、重要視する必要もないと思います。今までSFの出版社は、「本を読み慣れた人間」を重要視しすぎていたのではないか、という私感もあるのですが…。

今月号の「本の雑誌」と言う雑誌にこの雑誌の編集部が選んだ「90年代のベスト100」が掲載されていますが、ここに挙げられているSF的作品を見ると(中略)と、見落としがあるかも知れませんが12作品もあります。

なるほど、現在の出版状況を考えると、選ばれた冊数としては適正のような気もします。ミステリーとかの占める割合も知りたいですね。「本の雑誌」のリストを見まして、また考えていることを述べてみたいと思います。興味があるのは、日本SF大賞と日本推理作家協会賞の受賞作(それぞれ、プロのSF作家とプロのミステリー作家が選んだベスト作品)が、そのリストと照らし合わせてどの程度重なっているものがあるか、ということでしょうか。もし、日本SF大賞の受賞作が、そのリストと著しく離れているものだとしたら、マズいのは日本SF作家クラブだけ、ということになりますので、梅原さんの日本SF作家クラブ批判にも納得できるものが出てくるでしょう。一般読者に嫌われているのは「日本SF作家クラブ関連の作家・作品」で、「SF」ではない、という点では、梅原サイファイ論の根本部分でちょっと違ってきてしまうかも知れませんが…。

あと、まだいくつか疑問があります。

1・ここにあがった「ベスト」は、即「ベストセラー」ではないことは明らかなので、1990年代の「ベストセラー小説」が知りたい。
2・なんとなく、キャラ萌え的小説が少ないような気がするので、シリーズものやキャラクターものに関しての「ベスト100」への入り具合が知りたい。

などなど。

死者の代弁者さんがおっしゃっている「コアなSF」というのはこの「いわゆる日本のSF作家が書いている作品」ということでしょうか。

SF作家として世間的に認知されている作家が書いているSF、という意味ですが、それはすなわち、「いわゆる日本のSF作家が書いている作品」ということですね。

それでも「読者離れ」が起きたというよりは「普通の読者を引きつけるような作品が少なかった」ということではないでしょうか。

普通の読者を引きつけるような作品を、故意に回避したのか(編集者がそのような指導をしたのか)、それともそのような技術(ハリウッド映画的手法?)を身につける気がなかったのか、技術としては知っていても、うまく使えなかったのか。とりあえず、「普通の読者を引きつけるような作品が少なかった」ということはあるでしょうね。普通の読者を引きつけるような作品が多かったら、今のようにSFが売れている・売れていないという話ではなく、「売れてはいるが、コアなSFファン(SFを読み慣れた人間)が面白く読めるようなものは少ない」とかいうような話になると思います。

SF作家ってなんでしょうか?

具体的には、SF専門誌(今ならSFマガジンしかないので、SFマガジン、ですね)に掲載されるような作品が書けるような作家、であり、なおかつ「SF的作品」を書くことで生計を立てている作家(少なくとも出版社サイドに損益をもたらしていない作家)、ではないか、と思います。


(無題)[小林泰三] 1999年09月13日(月)19時12分17秒 より

僕の印象では SF の範囲が狭くなったような気がするんですよ。
昔なら、「SF」で通っていたものが今では「SF 風」になっているという感じです。
僕らが子供のころは SF なんかはちゃんとした大人が読むものじゃないという感覚があったようで、SF を買ってくるたびに親から「また、アホな本買うてきてるわ。たまにはまともな小説読み」と言われたものです。
で、実は SF って大人向きだと知られた後でも、この感覚がまだ生きていて、大人が読むに耐えるんだから、その時点で、もはや SF とは言えないという心理もあるのかなと最近考えています。

それから、この掲示板を読んでいる方から、「SF を読むためには基礎知識が必要だから、ついつい敬遠してしまう。ミステリは一般常識で読めるので取っ付きやすい」という主旨のメールをいただきました。確かにこれはあると思います。内容をイメージしにくいものはつまらなく感じますから。
僕らの年代がどうやって基礎知識を得ていたかというと、図書館の SF ジュヴナイル全集とテレビドラマだったと思います。
今、図書館から SF 全集が消え、SF ドラマが深夜枠に追い込まれているのは SF の将来にとって、不安要因ですね。


ベストセラーとロングセラー[細田] 1999年09月14日(火)18時57分02秒 より

ベストセラーとロングセラーの話をしますと、同じ100万部のセールスでも、流通過程においてはそれなりの無駄が出てしまうわけなので、たとえば本を1年で100万部流通させて10万部の不良在庫が出てしまうよりは、こまめに重版をかけて10年で100万部流通させて1万部の不良在庫が出たほうが収益は大きいと思います。ロングセラーのほうがベストセラー(瞬間的なベストセラー)よりはありがたい、というのは、読者も出版社も作者も同じでしょう。

ただ、今の流通を含んだ時代的問題は、娯楽志向の商品に「ロングセラー」が出にくい、という構造で、これは本よりもCDとか映画のほうが顕著だと思います。流行の歌なんて、最近は3か月ぐらいでもうモノによっては流通が止まってしまいますよね。10年前からずーっと売られ続けているもののほうが少ないぐらいで。

角川商法的な大量宣伝・大量販売、というのは、川(=一般大衆)から水を汲んで風呂桶を一杯にするのに、大人数でデカいザル(笑)を使ってやっているようなもので、きわめて短期間で桶は一杯になりますが、無駄が多い上、それに携わっている人間はヘトヘトになってしまうし、やる側が若くないとそのようなことは出来ません。本来なら風呂桶(=小説)というものは「いついつまでに一杯にしないといけない(=読まないと時代遅れになってしまう)」ということも滅多にないような商品ですから、爺さんがコツコツ、柄杓で水を入れていてもいっこうにかまわない(東京創元社的商法?)ものなんですね。ところが、風呂桶がこの調子なら10日ほどかければ一杯になるかなぁ、とのんびり爺さんが桶を10分の1ぐらい一杯にして、翌日同じ川のところに行ってみると川の流れが全然変わっていたり、干上がっていたりする(笑)。

もちろんこれは雇用問題とかもありまして(苦笑)、角川商法のほうが当然多くの人間が出版で食っていくことは可能です。
そのかわりこのやりかたは「クリエイターを食い潰す」傾向とその弊害が、大なり小なり出てしまうようですね。


もはや未来には恐怖も希望も持たなくなったのがSF離れの原因でしょうか[死者の代弁者] 1999年09月15日(水)19時44分29秒 より

その中でも自分が特に面白く思うのは、いわゆる80年代SFにも定番的書目ができつつあることですね。

具体的には、どのようなものが「1980年代SFの定番的書目」になっているでしょうか? 『ニューロマンサー』とかは想像がつくのですが…。コードウェイナー・スミスは、1980年代に多く翻訳されたとしても、1960年代の作家ですよね。

余談ですが、ある本や作家が古典とか定番になるためには、現代現役で書いている作家がどれだけリスペクトしているか、ってことにあるのではないか、と思っています。ミステリーだとレイモンド・チャンドラーとか、エラリイ・クイーン、鮎川哲也、といった作家の作品ですか。

《中略》

ただ、「本屋に読みきれないほどの本がある」という環境は、悪いものではないと思います。「毎月毎月どんどん入れ替わってゆく」のは、明らかに悪いことだとは思いますが。

今の書店に対する、個人的な「悪さ」は、書店としての個性があんまり感じられなくなっていることですね。どこへ行ってもある本はあるが、ない本はない、という。

以上、レス関係は終わりです。

SFが今、なぜ売れなくなっているか、に関しては、世間一般の「科学離れ」というよりは、「科学」や「未来」に関する考え方の変化があるんじゃないか、と思います。

私が「本格SF作家」と思う作家は3人しかいなくて、小松左京・クラーク・レム、なんですが(もう一人欠かせない作家として、ウェルズがいますけどね)、この3人に関して言うと、このかたがたは「人類」の「未来」や、それが「宇宙」に関してどのような意味を持つのか、ということについて、とてもスケールの大きな話を提供していたわけで、ここらへんに「本格SF」の未来がありそうな気もします。つまり、今現在の正確な科学知識や科学技術ではなく、読者にどのようなヴィジョンを提供し、それによって読者を畏怖させることができるか、ということですね。


なるほど。すっきりしました。[小林泰三] 1999年09月17日(金)12時44分42秒 より

>小林さんはやはり、ログを全く記憶なさっていないようですね。
>何回も、「私は梅原さんの構想の良い部分は良い、違う部分は違うと、普通に評価しているだけ
>だ」ともうしております(笑)。

>【梅原構想の良い部分はちゃんと評価しましょうよ】というのが、ここで私が話してきた理由だ
>ったはずですが(苦笑)

いや。今まで三枝さんが梅原構想のどこに賛成してして、どこに反対しているのかよくわからなかったのですが、これではっきりしてきました。

「梅原克文のサイファイ構想」によると、梅原構想は以下の5項目にまとめられます。

(1)「サイファイ」の定義
(2)「サイファイ」は商業的に成功を収めた作家を模範とする。
(3)超メタ言語的な小説は排除する。
(4)サイファイ作家は、アマチュアのイベント(SF大会の類)などに無料サービスで参加してはならない。
(5)「サイファイ、大衆娯楽サイエンス・フィクション」と、「スペース・オペラ、宇宙冒険活劇」とは別々の形式なので、今後は両者を厳密に区別しなければならない。

各項目について、三枝さんが賛同する「なんでもSFと呼ぼう運動」に抵触しないかどうか確認してみましょう。

(1)「サイファイ」の定義
→「なんでもSFと呼ぼう」と言ってるのですから、問題外です。

(2)「サイファイ」は商業的に成功を収めた作家を模範とする。
→「なんでもSFと呼ぼう」と言ってるのですから、問題外です。

(3)超メタ言語的な小説は排除する。
→「なんでもSFと呼ぼう」と言ってるのですから、排除しません。

(4)サイファイ作家は、アマチュアのイベント(SF大会の類)などに無料サービスで参加してはならない。
→「なんでもSFと呼ぼう」と言ってるのですから、サイファイ作家は認めません。

(5)「サイファイ、大衆娯楽サイエンス・フィクション」と、「スペース・オペラ、宇宙冒険活劇」とは別々の形式なので、今後は両者を厳密に区別しなければならない。
→「なんでもSFと呼ぼう」と言ってるのですから、区別しません。

ありゃ? いいところが残らないんですけど...>三枝さん


どうしたんだ、三枝さん[四不人] 1999年09月17日(金)19時16分29秒 より

 三枝さんはROMしている間に、ちょっと鋭さがなくなってしまいましたね。若干の表現の誤りがあると思いますよ。
 青山さんのページに掲載されている「梅原克文のサイファイ構想」を見ますと、

> 現在、ほとんどの出版社が「SF」の二文字を嫌っている。いや、それ以前に大衆読者が「SF」の二文字を嫌っている。
> 最大の問題は、SF関係者たちが「SF」の「シニフィエ、記号内容」を二種類の意味で、無原則に使い分けてしまう
>点だ。つまり、ある時は「大衆娯楽小説」を「SF」と呼び、ある時は「マニアックで大衆受けしない小説」を「現代S
>F」と呼ぶのである。これでは大衆からの信頼を失い、ブランドの地位から滑り落ちるのは理の当然だ。

と述べられています。これを読む限り、梅原さんは「SF関係者たちが「大衆娯楽小説」を「SF」と呼んでいる」と考えておられるのは明らかですね。彼の主張のポイントは「(梅原氏が)大衆に受け入れられていない(と考えている)超メタ言語作品と、売れる大衆娯楽SF小説と区分する事で売れる作品まで受け入れられなくなるのを防ごう」と言う点でしょう。従って、三枝さんの書き込みにある

>「あれはSFではない」「SFと似て非なるものだ」「SFに似たクズだ」といった表現で、大衆ウケする
>SFガジェットをつかった通俗的な作品類はきちんと評価されず、SFから排除されてきました。
>つまり「なんでもSF」とする環境が保証されていなかったのです。
>結果、「そんなものはSFではない」「SFとしては良くない、目新しくない」と言われるのが嫌さに、
>大衆受けするSF作品は、最初から「SF」とは名のらないようになったのです。そして、「SF」とさ
>れる側には「SFとして目新しいだけの、つまらない作品」ばかりが残るようになりました。
>結果SFの衰退が起こったというのが、梅原仮説のよってたつ歴史認識であったはずです。

というのは、「梅原仮説のよってたつ歴史認識」ではなく、「三枝さんが梅原構想を支持する上でよって立っている歴史認識」の誤りですね。
 同様に

>SFの主流の人たちが大衆受けする通俗的なSFを「あれもSF」と呼べないならばいっそ別のジャンルをつくってそれらを
>正当に評価しようというのが「サイファイ構想」です。

というのも、「三枝さんの考える「サイファイ構想」」ということですね。梅原氏のものとは微妙に違うものだと考えるべきです。


補足しておきますが[四不人] 1999年09月17日(金)20時01分42秒 より

 確かに「サイファイ構想」には
>さて、「SF」と「SFもどき」が存在するということは、日本の旧SF関係者たちも、よく書いていた。

とありますが、ここで彼が「旧SF関係者」と読んでいることは、彼が「現在のSF関係者はそうではない」と考えていることを示しています。さらに彼が「サイファイ構想」のなかで「SFもどきのクズ作品」「SFマインドが感じられない作品」などについて述べた部分をよく読むと、

> 実際に黒字を稼いでいるのは、往々にして、それら「SFもどきのクズ作品」だったり、「SFマインドが感じられない作品」だったりするのだ。
>大衆は、旧SF関係者たちの定義基準など、まったく相手にしていなかったのだ!

相手にしていなければそれが原因で衰退するわけもないですね。
 さらに

>「娯楽SF小説」は存在するし、「SFもどき娯楽小説」も存在する。そして大衆は、両者を厳密に区別していなかったことは、もう明らかだ。それを厳
>密に区別したがるのは、「スコラ的基準」にこだわる旧SF関係者だけだった。
> 大衆の視点を基準にするなら、「娯楽SF小説」と「SFもどき娯楽小説」を統一するブランド名があるべきなのだ。出版社もその方が商売上、何か
>と便利であろう。

と言っておられますので、彼が「SFの衰退の原因が「SFもどき」をSFと呼ばないことにあった」と考えてサイファイをおこした訳じゃなく、「黒字を稼ぐ」という共通点のある「娯楽SF小説」と「SFもどき娯楽小説」をあわせて新しいブランドを作れば便利だ、と考えてサイファイをおこした、と言うことだと思います。
 ましてや、もはやログの彼方でどなたかが言っていたように思いますが、「梅原氏は自分の作品が「SFもどき」の扱いをうけたのでSFを捨てた」というのも誤りですね。青山ー梅原往復書簡や、「サイファイ構想」を読む限り、梅原氏は「SF関係者が自分の作品を「SFもどき」だと思っていた」と思っていなかったのは明らかです。一番最初の梅原書簡には

>SFアドベンチャーの元編集長、石井紀男氏からも、こう言われました。
>「梅原克文が、もう七、八年早くデビューしていたら、SFアドベンチャーは潰れずにすんだ」と。
>我田引水、自画自賛に聞こえるでしょうが、よくお考えください。
>梅原克文もSFで、「神林長平、大原まり子、野阿梓、征悟郎など」もSFでは、ブランド商売が成り立たないのです。

とありますから。


今のSF作家は自分の書く小説を普通の人に読まれる必要を感じていないのかな[死者の代弁者] 1999年09月18日(土)09時38分28秒 より

「梅原構想の良い部分」を、小林さんのような形で斬られてしまうと、確かに良い部分というのはないのかも知れませんが、私は、梅原さんの問題提起にはそれなりに意味があるのではないか、と思っています。前提からはじまって、それを是正するための構造(梅原構想)に、いささか難を感じる、ということで。

まず、梅原さんの問題提起で喚起される「SF業界」についての一番の疑問は、昔のSF作家(SF作家第一世代って言うんですか?)と比べると、今のSF作家はSFファン以外の人間を相手にした小説を書いている度合いがものすごく低い(低すぎる)んじゃないか、ということです。それは、一般雑誌(小説現代とか小説すばるとかオール読物とか、あるいは週刊新潮・週刊文春といった大衆週刊誌)から注文が来ないのか、来ても作家のほうで書けないのか、作家がSFのジャンル内読者で満足しているのか。具体的には、星新一・小松左京・筒井康隆・半村良の4人に、田中光二・山田正紀を加えた6人の作家に限定して言うと、そういった「SF作家」のかたがたは、それこそSFマガジンにしか書けないような「SFらしいSF」を書きながらも、世間一般のSF度が薄い読者を対象に、SFマインドを持った普通の話を書いていたような気がします。

内部事情はよく知らないんですが、一般雑誌の編集部サイドから注文が来なくても、たとえば○十万部売れている作家なら、自分のほうで自分の作品を売り込みに行ってもかまわないんじゃないか、と思うんですよね。少なくとも、編集者のほうの何人か(特に若い編集者)は、名前ぐらいは知っていると思いますし、色々なコネクションをたどってコンタクトをはかれば、「門前払い」ということはないと思います。「普通の小説を書けるSF作家」がいない(SFらしいSFを書く普通の小説家は、けっこういるみたいですが)というのは、今のSF作家に、ジャンルSFを越えたエンタテインメント小説を書く技術がない、少なくとも一般小説を書いている作家たちと勝負できるレベルに達していない、ということでしょうか。そんなことはない、と思いたいのですが…。

梅原さんは具体的に「神林長平、大原まり子、野阿梓、征悟郎」などの名前を挙げておりますが、大原まり子さんなどは日本SF作家クラブの代表になっておられるようなかたでありながら、一般小説業界での作品の人気・評判・話題、ってのはほとんど出てませんよね(そこらへん、誤解があったら申し訳ありません)。新作が出ると、各週刊誌・新聞の書評欄の、「SF」という枠でくくられたコラム的結界(笑。隔離病棟?)で、小谷真理を筆頭とした身内的「SF評論家」に、ちょこっと褒められておしまい。セールス的にもベストセラー・リストにはほとんど出てこず、一般小説業界の影響(SF評論家以外が褒めたり、SF関係以外の何かの賞の候補になったり、というような)もほとんどない、というのが、今の日本を代表するSF作家の現状、というのは、やはりあまりにもあんまりだと思います。

セールス的には難のある「メタ言語的SF作家」だけではなく、たとえば森岡浩之、神坂一、あかほりさとる、といった、SF業界内ではバカ売れしている作家のかたがたクラスでも、あまり「SFファン以外の本好きな普通の人」を相手にして書いているとは思えませんし、普通の人を相手にしている雑誌に作品を発表したり、という例を知りません(ここらへん、梅原構想から「スペースオペラ」が外される原因になってるんでしょうか)。

SFが嫌われている、という梅原サイファイ構想の最初の一句は、確かにショッキングなもので、私なども「そんなことはないと思う」的反感を持ったのですが、一般読者とSF読み読者との「距離」が広がっていることは確かでしょう。でもってそれは、「科学離れ」とはあんまり関係がないことと思うんですが…。


大原まり子のこと[たろう@大原まり子ファンクラブ] 1999年09月19日(日)01時53分57秒 より

死者の代弁者さんの今のSF作家は自分の書く小説を普通の人に読まれる必要を感じていないのかなに関して、大原まり子のことだけについて。

現在、大原まり子が継続的に小説を書いているのは、SFマガジン、文學界、週刊小説の三誌のようです。小説CLUB、海燕、問題小説、小説TRIPPER、などこれまで多くの小説誌に作品を寄せてきたようです。SFマガジン、獅子王、LOGOUTなどのSF色のある雑誌に載ったものの方が少ないぐらいです。従って、大原まり子に関しては、

作家がSFのジャンル内読者で満足している

ということはないようですし、

一般雑誌の編集部サイドから注文が来なくても、たとえば○十万部売れている作家なら、自分のほうで自分の作品を売り込みに行ってもかまわないんじゃないか、と思う

必要はないようです。他の作家に付いては情報を持っていないので何とも言えませんが、少なくとも大原まり子に関しては、そういうことです。
また、

大原まり子さんなどは日本SF作家クラブの代表になっておられるようなかたでありながら、一般小説業界での作品の人気・評判・話題、ってのはほとんど出てませんよね(そこらへん、誤解があったら申し訳ありません)。

これに関しても、

小谷真理を筆頭とした身内的「SF評論家」に、ちょこっと褒められておしまい。

というようなことはありません。残念ながら資料不足で具体例はあげられませんが、多くの(小谷真理と巽孝之に代表される身内(?)以外の方の)著書で彼女の作品は批評・評価されています。

セールス的にもベストセラー・リストにはほとんど出てこず

は本当かもしれませんが(仮に本当だとしても、その原因をどこに求めるべきかは議論の必要があります)それを理由に大原まり子を

セールス的には難のある

作家であるように書くのは筋違いであるということは、死者の代弁者さんにもおわかりですよね。彼女の著書から窺い知れる経済状況や彼女の仕事ぶりからみて、大原まり子はセールス的に難のある作家ではなさそうです。彼女の仕事ぶりについては彼女自身のページをご覧下さい。
大原まり子の小説の中には(言葉本来の意味での)メタ言語的な要素を持つものもありますが、そうでないものの方が圧倒的に多数です。
もちろん(言葉本来の意味で)メタ言語的であることとセールス的に難があることとは何の関係もありません。


あっ、幸田露伴よりヒットするんだ(笑)[森岡 浩之] 1999年09月19日(日)17時13分43秒 より

梅原氏の根拠のない決めつけには困惑したり、ときには怒りを覚えたりしているのですが、『サイファイ構想』そのものには「どうでもいい」という以上の感想を持っていないので、ここには出てくるつもりがなかったのですが、びっくりするようなことが書いてあったので、ちょっといわせていただきます。

>死者の代弁者さま。
全体にいろいろ思うところはありますが、自分の名前が出たところだけ。

|セールス的には難のある「メタ言語的SF作家」だけではなく、たとえば森岡浩之、神坂一、あかほりさとる、とい
|った、SF業界内ではバカ売れしている作家のかたがたクラスでも、あまり「SFファン以外の本好きな普通の人」
|を相手にして書いているとは思えませんし、普通の人を相手にしている雑誌に作品を発表したり、という例を知りま
|せん(ここらへん、梅原構想から「スペースオペラ」が外される原因になってるんでしょうか)。

ええと、ひとりだけほかのおふたかたに比べて著しく商業的実績で劣っているんですが、ということはおいといて(詳しく述べると、悲しくなってしまう)、死者の代弁者さんはいったい「SF業界」ということばをどういう意味で使っておられるのでしょう? べつに揚げ足をとるつもりはありませんからジャンルSF読者ぐらいの意味と解釈しましたが、それにしてもこの認識はいささか奇妙です。「SF業界内でバカ売れして」いるだけで「本好きな普通の人」を相手にしなくても、神坂、あかほり両氏ほどの売上げが可能なら、SFが衰退したなんてとんでもない話じゃありませんか。
そもそもおふたりがご自分をSF作家とは考えていらっしゃらない可能性もかなりありますが、それはご本人に訊いてみなければ確かなことはわかりません。
ただ森岡の『星界の紋章』についていえば、SFファンだけを視野に入れたものではないことは断言できます。中心にはSF的テーマを据えつつも、むしろあまりSFに関心のないヤングアダルトの読者にアピールすることを心がけたものです。いまは事情が好転していますが、執筆当時、すなわち90年代の前半は、ヤングアダルトの棚からも宇宙ものがめっきり少なくなり、実績のあるシリーズか、ゲームのノベライズぐらいしか見あたらない、というのがわたしの認識でしたし、SFファンの高齢化が指摘されて久しく、危機感を覚えていたのです。
そのために赤井さんに表紙をお願いしたりしたのですが、おかげで濃ゆいSFファンには却って避けられてしまったようです。発売当時は「知り合いの書いた本でなければ、手にとらなかった」とよくいわれました。まあ、わたしだって、自分の書いた本でなければ……。
でも、おかげでSFファン以外の読者も獲得できたし、ジャンルSFファンもほんのちょっとだけですが増やすことができた、と自負しています。
おそらく、死者の代弁者さんのいわれる「本好きな普通の人」というのはいわゆる大人の読者のことでしょう。その意味では、『星界の紋章』とそれにつづくシリーズは普通の人を視野に入れていませんが、いくつかお話も頂いていますし、いつになるかはわかりませんが(くそっ)、一般エンタテインメント読者にもSFファンにも喜んでもらえるような作品を書いてみたい、とは思っています(売れるかどうかわかりませんけど。ちなみに今年出した短編集、全部初出がSFマガジンで、それこそSFファン以外は対象にしていませんが、あまりSFに馴染みのない読者のかたからも好意的な反応を頂いています。売れてませんけど)。
べつに死者の代弁者さんがそうだと決めつけるつもりはありませんが、もしSF作家がなんの商業戦略も持たずに漫然とジャンル読者の支持に寄りかかっているとお考えのかたがいらしたら、その認識を改めていただければ幸いです。もちろんSF作家を代表してどうこういえる立場ではありませんから自分のことにだけ限定すると、わたしは商業戦略というものは空論の段階で不特定多数のかたに披露するものではなく、実践しつつときには修正を加えていくものだと考えているだけです。

>ゆ〜びっくさま。
サブジャンルだなんて思って現状に甘んじている奴です(苦笑)。
梅原氏が「スペース・オペラ」を構想から外していらっしゃるのは、たんに忘れていただけでしょう。
一昨年のSFマガジン誌上の論争でこんなやりとりがありました。

|その中には(引用者註:梅原氏が言及しなかった、アメリカにおけるSF草創期や黄金期の作家たちのこと)、
|氏の基準からしても『正しい』SF作家はごちゃまんといるはずなのだが、なかでも不思議なのは、E・E・
|スミスやエドモント・ハミルトンといった広義のスペース・オペラ作家を無視していることである。
(SFマガジン1997年9月号・「SFゲンリ」から解き放たれて/永瀬唯)

|これも言葉足らずだった。スペース・オペラについて言及するのを忘れていただけだ。私の立場は『スペース・
|オペラ作家=デファクトスタンダードSF作家』だ。彼らは大衆娯楽作家であり、私の同類だ。 (SFマガジン1997年11月号・てれぽーと欄/梅原克文)

このあと、考えを変えられたようです。推測ですが、もともとスペース・オペラのことを考えずにつくった構想なので、どうしても形式合理的に包含できなかったのでしょう。
過って則ち改むるに憚ること勿れ、といいますから、それはそれでいいんですが、なぜか『スペース・オペラ=娯楽SFの一種』という伝統的な考えに立つ人間にたいして勘違いだ、現実的な視点を持っていない、洗脳されているといったことばを、過剰な感嘆符とともに投げかけるにいたったわけです。どうやら梅原氏も一昨年までは洗脳されていたようですが、まあ、洗脳が解けてよかったですね。
梅原氏は「スペース・オペラ」の商業的側面についての知識はほとんど持っていない、という確信をわたしはいだいています。それも、プロの出版業界人としてどうこうというレベルではありません。本屋に日常的に通う宇宙SF好きな読者のわたしが氏の言動には首を傾げています。そんなかたに『それ自体だけで商売になる「立派なブランド商品」である』などと断言されても、サイファイの形式合理性を守るために一生懸命後付の理屈をこねているとしか思えません。
さて、いまだ洗脳されているわたしはこう思います。「イデア」をやるとややこしくなりますから、あくまで商業的側面に限定します。あまり読者のかたには関係ない話になってしまうかもしれませんが、ご容赦ください。
SFは過去にいろんな物語形式を産みだしてきました。なかには、半村良氏の伝奇SF、夢枕獏&菊地秀行両氏の伝奇ヴァイオレンスのように書店の棚を塗り替えるほどの隆盛を誇ったジャンルもあります。架空戦記にしても、高木彬光氏の『連合艦隊ついに勝つ』や檜山良昭氏の大逆転シリーズといった先行作品はあるものの直接のブームのきっかけは荒巻義雄氏の『紺碧の艦隊』や川又千秋氏の『ラバウル烈風空戦録』といってもいいでしょう。
SFはこういった物語形式を創りだすダイナミズムを内包したジャンルです。いまはまだですが、ひょっとしたら近い将来、「スペース・オペラ」が伝奇SFや伝奇ヴァイオレンス、架空戦記に匹敵する隆盛をえるかもしれません。たとえそうなっても、職業人としてのわたしはSFというジャンルのダイナミズムにより魅力を感じます。ですから、そうなったときにもスペース・オペラ作家ではなくSF作家と名乗りつづけるでしょう。 まして、サイファイ作家って……、なんか窮屈そうで嫌だ。いえ、べつにサイファイ作家に名乗りたいというかたを止めるつもりはありませんが。


スペオペ作家というのはやはりサブジャンル作家なんでしょうか[死者の代弁者] 1999年09月20日(月)03時09分06秒 より

>「SF業界内でバカ売れして」いるだけで「本好きな普通の人」を相手にしなくても、神坂、あかほり両氏ほどの売上げが可能なら、SFが衰退したなんてとんでもない話じゃありませんか。

私は「SFが衰退した」とか「衰退しているように思う」というようなことは言っていないと思います。「本好きな普通の人」を相手にしないで繁栄している、という事実はある、というようなニュアンスは、前の色々な発言(キャラ萌え小説発言関連とか)でしていたつもりだったのですが、意図がうまく伝わらなかったようなら申し訳ありません。「本好きな普通の人」に対する「SF作家」の影響力の低下、具体的には「本好きな普通の人」が楽しめる、SF的要素の入っている(私としては、単なるガジェットを使っている、という意味ではなく、できるかぎり濃く入っている)「ジャンル内作家」による作品の、セールス面での影響力の低下は感じますが…。

>おそらく、死者の代弁者さんのいわれる「本好きな普通の人」というのはいわゆる大人の読者のことでしょう。その意味では、『星界の紋章』とそれにつづくシリーズは普通の人を視野に入れていませんが、いくつかお話も頂いていますし、いつになるかはわかりませんが(くそっ)、一般エンタテインメント読者にもSFファンにも喜んでもらえるような作品を書いてみたい、とは思っています(売れるかどうかわかりませんけど。ちなみに今年出した短編集、全部初出がSFマガジンで、それこそSFファン以外は対象にしていませんが、あまりSFに馴染みのない読者のかたからも好意的な反応を頂いています。売れてませんけど)。

「いくつかお話も頂いてい」る(進行している)件に関しましては、このようなところでは公には出来ないとは思いますが、楽しみにしています。でも、ジャンルSF作家から一般エンタテインメント作家になるのは、クーンツなどの話を見ていると大変そうですね。

やはりこれも、あんまり公には話せないこととは思いますが、「一般エンタテインメント読者にもSFファンにも喜んでもらえるような作品」というと、たとえばどのような話が森岡さんとしては考えられるでしょうか? 戦略の一つとして、こういう傾向、というのだけでも伺えるとありがたいことだと思います。

>べつに死者の代弁者さんがそうだと決めつけるつもりはありませんが、もしSF作家がなんの商業戦略も持たずに漫然とジャンル読者の支持に寄りかかっているとお考えのかたがいらしたら、その認識を改めていただければ幸いです。

森岡さんに関しては、了解しました。どうも申し訳ありません。他の作家のかたがたに関しても、そのような動きがあるのかどうかは、デビューして数年以上経っているかたがたを除いては、言動を控え目にすることにしましょう。


ホラー文庫を参考に、サイファイ文庫を考える[死者の代弁者] 1999年09月23日(木)08時18分07秒 より

○川サイファイ文庫、あるいは○○カワ文庫サイファイ、といったシリーズを、角川ホラー文庫を参考に考えると、たとえばこのような形で立ち上げたりするといいかもしれません。この場合の「サイファイ」というのは、梅原構想にもとづく「サイファイ」とは関係がなくなるし、また、「サイファイ」という名称が適当かどうかも不明ですが。

1・表紙カバーは、人に見られても恥ずかしくないようなものを。具体的には、マンガ的イラストでないもの・女性の裸でないものを使用する。新書判の、昔のハヤカワSFシリーズみたいなのがいいかも知れない。また、「ジャンル」「レーベル」として目立たせるため、その文庫の、書店の棚での存在感が感じられるような、作家・作品ごとにバラバラではない、サイファイ文庫としての統一レイアウトを考える。
2・初期には翻訳もの・SFマンガものも含めていろいろ出してみる。コスト的な部分を考慮して、比較的若い作家に、数年後には移行することも考える。もちろん、利益が出るようなら翻訳もの・マンガものもラインナップとして考えても問題はない。
3・結果としてベストセラーになったようなものは、メディア・ミックス的展開を考える。最初から、ある程度メディア・ミックス的展開も視野に入れて作品を考える必要はないとは思う。
4・売れていそうなものより、売れていなさそうなもののほうが多くなっても、たいした問題ではない。売れていそうなものが何点かあれば、とりあえず「サイファイ文庫」の他の作家の作品も読まれる可能性はある。
5・作家名で読まれるような作家も、とりあえず「サイファイ」というジャンルに即したような作品なら入れてみる。赤川次郎、影山民夫、森村誠一、乱歩などの旧作の再録など。
6・数年先に直木賞クラスの賞を取りそうな、普通の話も書ける若くて伸び盛りの作家の作品も、ラインナップに入れておく。「あの直木賞作家も、昔はサイファイ文庫から本が出ていたのか」と読者が思うことによって、サイファイ文庫の認知度が高まることも考えられる。直木賞受賞作家に、受賞後サイファイを書いてもらう必要はない。
7・文庫書き下ろし作品は少なくてもかまわない。
8・新人を出すため、「サイファイ新人賞」を設け、そこから出た作家を起用する。
9・ラインナップは、「サイファイ」という用語を幅広く考え、「サイファイとは何か」ということが、ラインナップを見てもよく分からないようにする。何となく、サイファイっぽいものとそうでないものは分かるかもしれないが。「サイファイの百貨店」のようにして、文庫自体に勢いをつかせる。
10・女性読者をターゲットのメインとして考える。


舞台は日常[四不人] 1999年09月28日(火)17時59分09秒 より

>舞台がまず日常から始まるかどうかですね。
>小説内世界での常識は、この現実社会と同じであるということが「サイファイ」の条件です。

と言うことなのですね。了解しました。
 とするとやはり私には疑問が残ります。
 第一はそう言った要素が売れる可能性と直結しているのか、と言うことですね。

>「サイファイ」の舞台と登場人物の認識は、現実の世界、現代人と同じです。そのことで読者
>は容易に作品世界に意識を入り込ませることができますし、登場人物に自己投影することもでき
>やすくなります。
> そういった要素は売れる可能性につながります。誰だって、共感やあこがれを持つことのでき
>る主人公が好きなのです。

 感情移入や共感が容易であることが売れる可能性に繋がる、というのは同意します。問題は「舞台がまず日常から始まる」ことや「小説内世界での常識は、この現実社会と同じである」ということが本当に「感情移入や共感が容易であること」に結びつくか、と言う点です。

>一方「スペオペ」と「ヤングアダルト系のファンタジー」は、「読者と作品登場人物が共通の認識
>を持てる」というサイファイ的な条件を、舞台設定を「だいたいどの作品も似たようなトーンであ
>るゆえ、あらかじめ読者の間に知識として存在する異世界」とすることによって「売れる条件」を
>確立しています。

 というのは疑問です。たとえヒロイックファンタジーが好きな読者でも「グィン・サーガ」「吸血鬼ハンターD」を「だいたいどの作品も似たようなトーンであるゆえ、あらかじめ読者の間に知識として存在する異世界」として認識しているとは思えないですから。

 「舞台がまず日常から始まる」ことや「小説内世界での常識は、この現実社会と同じである」ということが本当に「感情移入や共感が容易である」ことに繋がるなら、現代小説は時代小説に比べて売れるはずですが、そんな話は聞いたことがないです。「昔も今も人間なんて変わらないもんだ」というなら未来でも宇宙に舞台が移っても同じ事でしょう。
 確かにミステリがSFに比べて売れている理由として「舞台が現実だからおじさんにも分かりやすいのよ」といった説明を聞いたことがありますが、そんな読者が果たして「舞台がまず日常から始まる」から感情移入しやすい、と言う理由でミトコンドリアが叛乱を起こすと言う話を読もうと思うだろうか。疑問です。
 以前に死者の代弁者さんが「普通の読者はSFに何を求めるのだろうか」と言うことをおっしゃっていたと思うのですが、サイファイにしろSFにしろ求められているのは「舞台がまず日常から始まる」ことや「小説内世界での常識は、この現実社会と同じである」ということではないように思います。分かりやすい、というのは必要だと思いますが、それと「舞台がまず日常から始まる」というのはイコールではないでしょう。
 現実問題として、登場人物に感情移入できるかどうかに「ファウンデーション」「銀英伝」「宮本武蔵」「新宿鮫」「ジュラシックパーク」の間に差があるでしょうか? 

 第二の疑問点は、「舞台がまず日常から始ま」らない物語を排除することにメリットはあるのか、と言う問題です。「舞台がまず日常から始まる」ものしかラインナップに取り込まない、と言う場合、例えば「リングワールド」「陰陽師」「ノヴァ」「虚無回廊」などという作品は皆落ちてしまいます。それに「異物侵犯パニック」と言う場合には「アルジャーノン」(文庫化おめでとう)も「夏への扉」も落ちてしまうでしょう。SFやファンタジーの豊穣な部分を放棄するほど、「小説内世界での常識は、この現実社会と同じである」ために感情移入がしやすいことや「ジャンル内で、どれを引いても同じテイストになるようにということ」はメリットのあることなのでしょうか? あまりに資源の利用を考えていない構想だと思いますよ。

》取りようによってはどうとでもとれる基準を元にするのはどうかと思います。
>梅原さんの提案は明確であり、どうとでもとれるようなものではないです。

 えーと、彼の説明はそう明確ではないと思います(笑)。見解の相違でしょう。でも彼の説明を読む限りでは「結晶世界」や「暗闇のスキャナー」もサイファイだと言うことになってしまいますよ。「定義的にはサイファイだが、超メタ言語作品だからサイファイではない」というのは説明として不完全でしょう。

> 私としては、逆に四不人さんにおたずねしたいです。比較的新しい作品なので「金のゆりかご」とか「Y」
>「イツロベ」を例に加えてみましたが、それらは「売れた作品」なのでしょうか? 四不人さんが断言なさ
>れっているところを拝見すると、それなりに売れたのでしょうが、私は初耳です。

 えーと、「イツロベ」は新しすぎてよく分からないですが、私の周辺では評判は良かったです。私は地方都市在住ですが、「Y」はよく書店で見かけます。三冊とも、割と早くに近所の図書館に入りました。出てすぐにこの図書館に購入請求の出る本はよく売れる、と言うのが私の経験則です(笑)。ところが「天使の囀り」はまだ入っていません(泣)。だから根拠が薄弱で申し訳ないんですが。


三枝さんへ(1)[四不人] 1999年09月29日(水)13時21分49秒 より

>四不人さんは、「梅原さんの定義が明確ではない」ことをサイファイ構想の最大の欠点のようにおっしゃいますが。
>では、質問をします。
>明確でわかりやすい定義をもったジャンルが一つでもありますか?

 ちょっと違いますね。梅原構想の最大の問題点は、「特定の系統の作品は売れるから、それ以外の系統の作品は区別(あえて排除とは言いませんが)してサイファイを立ち上げよう」と言っているにも関わらず、その「系統」とは何かが遂に明確でないことです。非常に恣意的に「これはいい、これは悪い」と言っているように思えます。しかも前提になっている「特定の系統の作品は売れる」という根拠が(彼以外には)よく分からない。
 私はおっしゃるように、明確で分かりやすい定義を持ったジャンルなんてないと思います。梅原さんが主張されるような「サイファイ」と「超メタ言語作品」を明確に分けるものなどなく、連続したスペクトルを持つものだと思います。だからこそ、「サイファイだから売れる」「超メタ言語作品だから大衆に受け入れられない」などという区別は不可能だし、無益だ、と主張しているわけですよ、私はずっと。
 でも三枝さんは「わかりやすい特徴を絞り込んで明確にしたほうが有利だ」「そういう絞り込みで成功した例がある」「サイファイはそうなるべきだ」というお考えだったのですよね? (できるだけ要約は避けたいのですが、もはや元発言がどこでおっしゃったのかすらわかんなくなりましたが、要約が間違っていればご指摘いただきたいです)それを主張されるのなら、そのサイファイの「わかりやすい特徴」とは何なのか、と言うことを問題にしているのです。

>境目がびっしりくっきりつけられないことは、サイファイ構想の欠点でしょうか?

 欠点にならないでしょう。だからこそ梅原さんみたいに「超メタ言語作品はだめだ」「スペオペは違う形式だ」と区別しない方がいいと申し上げています。超メタ言語作品やスペオペとの間に「境目がびっしりくっきり」付けたいと考えておられるのは梅原さんの方で、それは無意味だよ、と。そうしなければサイファイにはもっと成功の可能性がある、というのが私がずっと主張してきたことなんですが。


梅原さんによるサイファイの定義[小林泰三] 1999年09月30日(木)00時40分07秒 より

梅原さんの「サイファイ宣言」によると、「サイファイ」とは

---------------------ここから------------------------------
(1) 「サイファイ」の定義は、大ざっぱにはこうである。
 1.「現実的で日常的な舞台設定から物語の幕が開いて、徐々に超科学・超自然の世界へ客をいざなっていく大衆娯楽ストーリー」。

 2.ただし、1.の定義から外れていても、「サイファイ」と認めるケースもある。つまり、以下の定義が当てはまるケースである。
 「超科学や超自然といった領域を扱って、金儲けできる物語や、金儲けできそうな物語」。

 3.つまり、「サイファイ」に、理想や理念はないのだ!
 あえて言うなら、「金儲け」が「サイファイ」の理想であり、理念である!

(3) 超メタ言語的な小説は排除する。
 この「超メタ言語的な小説」とは、梅原克文の造語である。
 つまり、個々の文章や、個々の場面に現実味がなく、言葉と現実との一対一の対応関係を壊して、勝手に『言葉だけの宇宙』を作ってしまったようなタイプの小説である。
------------------------ここまで-------------------------

(1) と (3) を合わせて、定義と考えてよいでしょう。

つまり、A「現実的で日常的な舞台設定から物語の幕が開いて、徐々に超科学・超自然の世界へ客をいざなっていく大衆娯楽ストーリー」とB「超科学や超自然といった領域を扱って、金儲けできる物語や、金儲けできそうな物語」からC「超メタ言語的な小説」を除外した小説というわけです。
A 関しては定義としてそれほど問題はないと思われます。しかし、B はやや曖昧です。小説のジャンルの定義に「金儲けできる」というのは奇妙に思えます。
パラフレーズすれば、売れる SF もしくはホラーということでしょうか?
#あとどのくらい儲かれば条件を満たすのかも明確ではありません。

この定義でいくと、『星界の紋章』や『朝のガスパール』はサイファイということになります。特に『朝のガスパール』は A、B 両方の定義を満たしています。

次ぎに「超メタ言語的な小説」ですが、はっきり言って梅原さんの定義はよくわかりません。
うまくパラフレーズしていただける方はおられませんでしょうか?

あと少し気になるのが A を満たしかつ売れなかった小説はサイファイと読んでいいのかということです。素直にとれば呼べそうですが、「あえて言うなら、『金儲け』が『サイファイ』の理想であり、理念である!」という文を読むと金儲けできないような小説はサイファイの資格がないような気もします。


かなり強引に展開してて突込み所満載で申し訳無いですが[ぐりふぉん] 1999年09月30日(木)22時37分40秒 より

>まず「ジュヴナイル」と「ヤングアダルト」は「ジャンル」だと思っていません。

えーと、四不人さんのおっしゃってる意味は良く解るんですがじゃぁ「ジュブナイル」って何?と聞かれたら私はやはり「ジャンル」の一つですと答えてしまいそうです。

確かに「ハードボイルド」と「ジュブナイル」を「ジャンル」として同列に扱うのは可笑しいように思えるんですがそれは小説をジャンル分けする場合に「ハードボイルド」や「SF」が縦線で分けるものとすれば、「ジュブナイル」と言うのは横線で分けるジャンル分けという気がするからです(色における彩度と明度みたいなものか?)

縦と横というのはあまり良い言い方ではないので「ハードボイルド」と「ジュブナイル」のジャンルとしての特性の違いをもう少し考えると「ジャンル特有のガジェットが有るか無いか」というのが一つのポイントとして有るんじゃないかと思うんです「SF的ガジェット」という言い方はこのボードで何度も登場しているし「ハードボイルド的ガジェット」や「パズラー的ガジェット」というのも有ると思うんですが「ジュブナイル的ガジェット」というのは思いつかないんですよね。

ここで話をジャンルの境目は曖昧であると言う話に戻ると「ジャンル特有のガジェット」というのは、ジャンルの枠を越えて使えるので「SF的ガジェットを使用したミステリー」とか「パズラー的ガジェットを使用したハードボイルド」というのが成立するために境界が曖昧になるんじゃないかと思うんです。そして有る作品が「パズラー的ガジェットを使用したハードボイルド」なのか逆に「ハードボイルド的ガジェットを使用したパズラー」なのかが作者、出版者、読者で解釈が違ってしまうことも十分に考えられます

ただガジェットの共有がジャンルの境目を曖昧にしているとしてもジャンル特有のガジェットがガジェットとして認識されるためにはジャンルそのものが成立している必要があるので、やはりジャンル毎の境目は存在するわけでそれは各々の王道的作品を見比べればハッキリするはずなんです。
歴史の長いジャンルの場合、王道的作品ばかりを作り続けることは難しいので相性の良い他のジャンルのガジェットを取込んだりする事でどんどん幅を広げていきますから、現状を見て境目は曖昧であると言う話よりもジャンルが成立した次点でどういう境目が存在したかを考えた方がいい訳です

それで、あるジャンルが成立する過程を考えるとまず強烈な個性を持った作品が登場し、その後ノンジャンルや色んなジャンルの中から同系統の作品が登場して作者側や読者側の注目を集めます。
この時点でぼんやりとしたジャンルらしきものが見えて来て「○○のような作品」と象徴的な作品名と比する事で語られたり、「○○物」と特徴的なガジェットで語られ始めるのですが、有る時誰かがジャンル名を思いつきその名前が普及する事でジャンルが成立するというのが基本パターンだと思うのですが。
重要なのは、名前よりもまず先に共通概念がある程度存在していて多くの人間がふさわしいと思える名前が登場した時にジャンルとして成立すると言う事で、つまりジャンルの境界と言うのは通常ジャンルが成立する前にある程度自明なものとして共通概念が存在しているのです。

ここからサイファイの話になります(あー長かったよぉ(;_;))
サイファイは梅原さんが「CIを行うのだ」とおっしゃっているように戦略的に作り上げようとしているジャンルなので、自然発生した他のジャンルとは違いあらかじめジャンルを区別する共通概念が存在するわけでもなく象徴する作品があるわけでもなく特徴的なガジェットが存在している訳でもないです
この状態からサイファイがジャンルとして成立するためにはサイファイ構想によって多くの人間が共通概念として受け入れられるような他のジャンルとの違いや象徴的な作品、特徴的なガジェットを提示する必要性が有るんですが、残念ながら【多くの人間が共通概念として受け入れられる】所までは説得力をもち得ていないように思うんですね。

このボードを読んでいて色々考えながら「梅原克文のサイファイ構想」を何度も読み返しましたけど、前半部分は非常に説得力があってうなずける事が多いんですが、肝心のサイファイの話になると、どーも腑に落ちてこないんですよね

私は「サイファイ」というネーミングにいまいちピンと来る所が無いんですがこれだけ色んな人が語っているのだから誰かがぴたっと来る代わりの名前を思いついててもよさそうな気がするんですよ
これは逆にCIの為の概念の立ち上げがきっちりと出来ていないという事なんじゃないのか?梅原さんの言う「偶然の空白」って本当にあるんだろうか?
そんな風にすら思えてきてしまいます。


分かりにくいたとえかも知れませんが[四不人] 1999年10月01日(金)00時07分14秒 より

 なるほど。ガジェットによるジャンルの境界と越境ですか。
 私のイメージは多次元空間ですね。X軸Y軸Z軸・・・に新奇さ、謎解きの比重、鬼畜度、科学性、論理性、幻想性・・・ととっていけば、特定の作品は「エンターテイメント多次元空間」(笑)の中の一点として表されます。多分多くの作品をプロットしていけば、幾つかの雲のような固まりができて、それの一個一個がSF、パズラー、ハードボイルド、ヒロイックファンタジー・・・ってことになるのでは、と思ってるんです。
 こういう多次元空間に、どこかから光を当てれば反対側に影ができますが、光源の方向によって、ハードボイルド雲の影とパズラー雲の影が重なったり遠ざかったりします。SF雲の影もいろんな雲と重なり合うでしょう。だから境目を決めるのは無理じゃないでしょうかね。

 梅原さんの主張は、「「大衆受けする」という軸に垂直な方向から光を当てると、「超メタ言語作品雲」と「サイファイ雲」はきっちり分離する」みたいなことをおっしゃっているので、「分離しないんじゃないか」「そんな軸はないのじゃないか」という話をしていたのです。「分離するって言ってるのに分離してないじゃん」と。


イメージのSF[たかはし] 1999年10月03日(日)22時40分32秒 より

>だとすると、従来の SF と手を切るとか、別のものだと主張することが
>意味不明になってしまいますね。

これについてなんですが。
きのう、ミステリ読みのともだちからメールをもらいました。

その方は、サイファイ構想のターゲットになっているのは、今までSFを読んでない自分みたいな人だろう、とした上で、なんでSF読まないんだろうと自分で考えてみると、

≫専門用語がぶしつけに出てきそうで、話がわかんなかったり読むのが大変だったり
≫しそうなイメージがあるから…ってのは大きいんですが、それ以前に、
≫何読んだらいいんだかよくわかんないから、ですね。

と書いていました。

梅原さんの戦略のアウトライン(実際の物言いはともかく)は、上記のような「イメージ」を「従来のSFを正しく把握したもの」だとして、そのイメージにそのまま乗っかった上で、「でも、サイファイは違うんですよ」ということにして、「これがあなたの読むべき本です」と勧める戦略ですよね。そういう意味では、きわめて意味明瞭であると言えるのではないでしょうか。

#今までのSFも好きなわたしには、すげー納得いかない戦略ですが。

ちなみにその方は、ミステリについても以前はトラベルミステリやいわゆる社会派ミステリのイメージしかなかったので読んでなかったとのこと。やはりイメージ戦略重要、なんでしょうかね。む。


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