福岡市立総合図書館

e:新しい市立図書館、行った? えらい豪華な図書館やね。

n:うん、豪華過ぎてチョット近寄りがたい気がするよ。

e:そうそう、置いてある本もチョット気取っとうような感じするしね。

D:内装が、「イギリス貴族の館」あたりをモチーフとした設計でそれにアール・デコ様式の光りもんをチョコチョコ配置したりして、豪華というのが必ずしも悪いわけやないとやけど、図書館として無益な豪華さやね。

n:博多パラダイスを改装して築港にあった時は、ホントしょもない建物やったもんね。でも蔵書内容はあん時とあんまり変わらんごたるけど。

e:1階と2階ぐらいしか見とらんけど。ビデオライブラリーと映像ホ−ルが入ったぐらいが目新しいとこやね。ヨット関係の本を見たけど、蔵書内容は以前とぜんぜん変わっとらんかった。

n:あんなに豪華な建物にするぐらいなら、蔵書にもっと金かけて欲しかったね。

D:図書館とは何?というのががぜんぜん議論されとらんから、「貴族の館」みたいな設計になってしもうたんやろうね。隣の「博物館」もそうやけど、公共建築にはまだまだ「権威主義」がはびこっとるんよ。その権威主義が「図書館=貴族の館」という図式を許してしもうたんやろうね。

n:そうやね、外国映画なんかで、重要な相談ごとが行われたり、重大な決断が下されたり、そういう場面に貴族の館の「図書室」が出てくみたいやね。

e:「図書室」で貴族が本読んどる場面はあんまりイメージできんね。皮表紙の豪華な本がズラリと並んどる背景だけが豪華な「図書室」のイメージやね。

D:「重要な相談ごと」や「重大な決断」に権威を付加したい時に館の「図書室」というイメージがその映画監督にある、ということやね。この同じイメージが「図書館=貴族の館」という図式が成立した背景やないやろか。

e:でも、その図式ってチョット違うんやない? 特に、市民図書館であればなおさら権威を付ける必要なんかないよ。

n:市民図書館ならば、むしろ逆に「権威」から無縁でなきゃいかんちゃない。

D:書物の収蔵というのは、時の権力者の特権やった時代があって、特に出版技術がなかった中世では宗教が大きな権力を持っていた、その背後にこの書物の収蔵があった訳やけど、当時の高等教育もその時代の宗教の専売特許みたいなもんで、蔵書という形で情報をコントロールできた訳や。そういうことを考えると、「図書館=貴族の館」というのは権威主義・権力主義の匂いがして、益々問題やね。

e:それと、やっぱ税金で建てる以上あんまり安っぽい建物はダメ、という意識があるっちゃない。
 それにしても貴族の館ちゅのも胆略的やし問題が大きいね。

n:でも、図書館の役割が蔵書と学習・教育・研究っちゅうのも、時代が古いちゃない。むしろ広く市民に閲覧を通して情報を公開する、ちゅう方が使命として大きいんやないやろか?

D:確かに、書物の蔵書・閲覧・研究・学習だけが図書館の役割やなくて、「情報」という枠でその果たすべき役割を考えていくべきやろうね。今の時代、書物だけが情報を発信してるわけやないもんね。そういう意味で、新しい図書館も映像ライブラリーを増やしたちゃろうけど、ことば・音楽・芸術なんかも情報を発信してるわけやし、また、その情報がどういう媒体を通じて我々にとどいているか、ということも考えないかん問題やろうね。実際問題、本からの情報より、テレビ・ラジオ・音楽から情報を得ている場合が多い、というのが今の時代やない。

e:本と言や〜、俺の場合マンガ本やもんね。でも、公立図書館にマンガ本があるちゃろうか? あっても良かと思うけど。

n:うん、ビデオライブラリーあたりも、その収蔵内容は町のレンタルビデオ屋サンとあんまり変わらんごたるし、昔の「TVアニメ」や「TVドラマ」で、もう一度見てみたいヤツとかあるもんね。ビデオ屋サンでは手に入りにくいヤツをもっと収蔵して欲しかね。
それと、情報といや〜、やっぱ、今やインターネットやない?

D:現代の情報社会には問題があって、その一つが、有益な情報も当然あるやけどそれ以上にクズみたいな情報が溢れている、「情報の氾濫」が問題になっとるね。インターネットも含めたTVや映画の視覚メディアという領域で特に顕著になっとって、何らかの規制が必要である、という方向に向かっとる。ただ、どんなに規制しても「情報の氾濫」状況は変わらんやろう。「情報評価の能力教育」とか「良質の情報普及」とかを合わせその対策をやらないかんちゃないやろか。
映像ホールでは、商業映画館では見られんような映画をやってるみたいやね。これが「良質の情報普及」やろうね。

n:情報に目隠し、ちゅうのにも限界があるしね。でも、映像ホールでの上映の選定は「誰が」「どこで」「どんなふうに」やってるわけ? それが俺達にぜんぜん見えてこん、これも問題やと思わん?

e:なんか押し付けられとるごたるやね。情報評価はもっと俺らに見えるようにしてもらわんと。でも、市民参加の評価制度を行政側に求めても、それは無理と思うなぁ。行政制度そのものが元々積極的に公開していこうという姿勢が見られんもん。

D:そうやね、「図書館とは何?というのががぜんぜん議論されとらん」て言うたけど、新しい図書館を建てるという時、本当は「市民図書館とは?」ということに対する提案・議論が最初にあってそれに元づいて建物としての図書館が決まり、その後の運営方針が決まる、そして、この一連の流れに市民が参加でき尚且つ公開制度でやっていく、というのが本来の姿やないやろうか。でも現実にはこれが出来きん。それは確かに行政側に責任あるけど市民側にもその責任があるちゃない、市民の側からも積極的参加運動せんと無理やない。しかし、市民というのも抽象的な存在だけに具体的解決方法にはなかなか結び付かんというのが現状やろう。現実的にこれを解決できる方法があるとすれば、それは何か?
その役割はその建物の設計をする人々にあるんやない、設計者の意識しだいで議論・市民参加・公開の問題を解決方向に向けることができる、設計者にもっと頑張ってもらわんと、と思うんやけど。
その点、今回の総合図書館の設計は向かった方向が間違ってると思うし、その責任はかなり大きいんやない。

n:これは想像やけど、「市民図書館準備委員会」ちゅうのができて、そこで学者先生なんかの知識人といわれる人々が集まって決めていった、と思うね。その結果、迎賓館みたいな「図書館」という旧態依然の図書館像を表現した建物ができ、現代・未来の図書館像を全く提示していない図書館になってしもうた、というわけやね。
これで良いですか? 桑原サン!、て俺は言いたいね。

D:本質を見失った議論ばっかりやってると結局最後は一番無難な手法に落ち着く、ちゅうことやろうね。それに、果たして真剣な議論が戦わされたちゃろうか?って疑問にも思うね。

e:う〜ん、なんか批判ばっかりになってしもうたね、
俺、今度図書館行ったらマンガ本を探してみよう、っと。

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