角松敏生

CONCERT TOUR 2000“Flow”

2000年9月5日 新潟県民会館


角松、勝負のツアー

 98年の解凍以来、角松のライブを見るのももう5回目。これまでの3度のツアーは、基本的に凍結以前を踏襲した内容で、「そんなんでいいのか!?」と辛口のレポートを書いてきた私です。正直な話、復活後の角松には「ああ、このままこの人は時代からズレていってしまうのだなぁ」と失望していましたが、ついに角松敏生、勝負に出ました。
 新作“存在の証明”では、打ち込み控えめアコギ中心の新たなサウンドを提示していますが、今回のツアーも従来の角松敏生とはひと味違うライブを見せてくれました。
 まず、登場の仕方からして今までと違う(笑)。メンバーが演奏する中、セットの真ん中から逆光の照明を浴びながら登場!というのがこれまでの角松の定番(これだけでもあの人がいかにナルシストか分かるというもの)でしたが、今回はバンドメンバーが揃った後、フラッと舞台の下手から登場し、マイクに向かって「どうも」と一言(笑)
 衣装もいつものキメキメのスーツではなく、カジュアルな服装で、逆の意味で意気込みが感じられました。


完璧なバンドの演奏

 ドラマーには久々に石川雅春が復帰。私が角松にハマリ始めた88年頃、ライブで主にドラムを叩いていたのが彼。やはり角松にはジャズ・フュージョン系の手数の多いドラマーがよく合う。私は江口信夫よりも石川雅春の方が好きです。

石川雅春(Dr)
青木智仁(B)
浅野祥之(G)
小林信吾(Key)
友成好宏(Key)
田中倫明(Per)
本田雅人(Sax)
春名正治(Sax)
山田洋(Manipulater)
鈴木かずみ(Cho)
高橋かよこ(Cho)

 今回はなんとサックスが2人。前回ツアーに引き続き、T-スクエアを辞めた本田雅人が、角松バンドの常連・春名正治と共に分厚いホーン・サウンドを聴かせてくれました。本田雅人のソロ・コーナーもありましたが、いやぁ、本当に彼のプレイには惚れ惚れする。
 WOWOWで放送された東京タワーでのライブでも本人が語っているように、今回は打ち込みサウンドは控えめ。新作のサウンドから、私は「もしや今回はオール打ち込みなしで演奏するのでは!?」と期待していましたが、やはりそうはいかず、新作からの曲の半分くらいは同期演奏をしていたようです。私は一度は「完全生演奏角松バンド」というのを見てみたいんですけど、それはかなわぬ夢なんですかねぇ?
 とはいえ、“浜辺の歌”“痴漢電車”“Flow of Love”あたりの、バリバリ演奏系のナンバーはおそらく同期なし。ミュージシャンとしては確実に(残念ながら)オールド・タイプに属する角松にとって、今演るべきことは、「ヒップホップを俺はとっくの昔に取り入れてたんだ」とか言って、いまさらのスクラッチをすることではなく、若僧達には手も足も出ないような完璧なバンド・アンサンブルを聴かせることだと思う。その意味で、後半の演奏は本当に素晴らしかった。


本人から語られたシビアな現実

 特筆すべきは今回の演奏曲目。新作の曲以外で演奏したのは、“あるがままに”“風のあやぐ”“Realize”“No End Summer”のみ(多分)。そう“Girl In The Box”も“Take You To The Sky High”もなし!
 時代遅れで角松マニアにしか通用しない(失礼)80年代の代表曲を切り捨てたライブに、私は彼の気迫を感じました。そしてその気迫は、アンコールの“Flow of Love”で本人の口から語られたのでした。要約すれば、
「自分は過去の遺産で食うために戻って来たわけではない。アーティストとしてのリアルタイム性を失いたくはない。今の時代、自分のようなアーティストの売り上げを伸ばすより、新人を連れてきて100万枚売る方が簡単だ。しかし、自分は20万人いるリスナーにプラスして、もう10万人増やしたい。そうすれば、日本の音楽界は変わるはずだ。」
 そう話した彼が、次に演奏したのは、ほぼ原曲のままのアレンジの“No End Summer”。そこに彼の自分の音楽への愛情と自信を感じるとともに、ファンとしては危うさも指摘せねばなるまい。


私的角松論

 角松は言った。「こういう厳しい状況だけど、あえて言う。ついてくれる人だけついて来てください」と。もちろん、会場は拍手喝采だった。でも、本当にみんな意味を分かっていたのだろうか?
 それは「このままファンのみんなだけはついて来てくれ」という意味ではもちろんない。彼の中には「自分の信じた音楽を演り続ければ、もっと多くの人が支持してくれるはず」という自信不安が渦巻いているはずだ。
 80年代の代表曲の中で、当時最先端だったサウンドを使っていない唯一の曲が“No End Summer”だろう。曲本来の良さテーマの普遍性。あの曲の本質的な部分に、彼は自らの活路を見いだしたのではないだろうか?
 今の角松敏生は、残念ながらピークを過ぎたアーティストだ。しかし、長野五輪で国民的な人気を博し、その後も愛され続けている“WAになっておどろう”を作曲したのも同じ角松敏生なのだ。
 僕は、彼の音楽の弱さ(または広く支持されない理由)は極めて私的な作品が多いからだと思う。もちろん、その身を削るような作風が魅力ではあるんだけど、それでは、角松本人のメンタリティーにシンパシーを感じないと、その魅力を理解できないんだな。誰にでも理解できる「普遍性」に欠けているんだと思う。そこをブレイクスルーしたのが“WAになっておどろう”だろう。
 新作の“愛と修羅”“浜辺の歌”のメロディーに、僕は“WAになっておどろう”と同じ普遍性を感じる。例えは悪いけど、郷ひろみだって一時は完全に「過去の人」だったのが、今や日本一のスターだ。角松敏生にだって、まだまだ可能性はあるはず。懐かしのシンガーになってしまうのはまだ早い。

 



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