8月29日(土)

昨日、モスクワ14番学校の校長が1時から学校へ来ているというので電話で連絡をして、入学手続きに早速出かけていった。
ちょっと年かさの秘書の人は申し訳なさそうに
「校長が電話をしているのでもう少し待ってくださいね。」
と、言った。どういうわけか、今日はあの雰囲気のいい副校長先生がいない。
「ちょっと、待っててね、見てくるから。」
秘書の人は、もう一度校長室へ行ってくれた。
「どうぞ、お入りください。ということですよ。」

歳のころは55・6の女性、顔面神経痛で右側の頬が妙な盛り上がり方をして、その筋肉が時々ピクリと動く。私たちのことを見てもニコリともしないで、 「さあ、立っていないで、そこへお座りなさい。」 と、校長の執務机の前にそなえてある大きな来客用のソファをしめした。

ああ・・・。駄目かもしれない。この雰囲気じゃあ・・・。我が家の誰もが一瞬にして感じていた。
「あなたたちのことは昨日、もう副校長たちから聞いています。」
自己紹介をしようとした夫の言葉を待たずにまずそう言った。
「ところで、なぜあなたたちはこどもをロシアの学校へ入れたいと思うのですか。彼女はロシア語が出来るのですか。日本の学校もあるでしょうに・・・。どうしてわざわざロシアの学校なのです。」
「わたしたちはせっかくロシアに来ているんです。ロシアの学校にこどもを行かせたいというのは、別に特別変わったこととは思いませんが・・・。」
と、夫。
「だけど、もう7年生にもなるのでしょう?えーと、何歳でしたっけ。」
「12歳です。」
「7年生というと充分学科は難しい。ロシア語を話せない彼女がこの学校に通うなんて大変なことです。そのことをあなたたちは考えたのでしょうね。」
「いえ、確かに今、彼女はロシア語を喋ることはできませんが、1989年から1991年までロシアに住んでいたころはスラスラと喋ってまるでモスクヴィチカだと言われていたほどです。また、わたしたちの知り合いのロシア人で小学校6年から3年間日本の学校に通った人がいますが、彼も日本語を習得するのに5ヶ月とかからなかったといいます。」
「その人はその人です。あなたのこの娘のことを言っているのです。ちょっとこちらへいらっしゃい。」
威圧的な口調で娘に命令した。
「なんていう名前かおっしゃい。」
「なつめといいます。」
「何歳で、日本では何年生でしたか。」
「12歳です。日本では7年生でした。」
「あなたはわたしの言うロシア語をよくわかっていますか。」
「いいえ。だけどすこしならわかります。」
「じゃあ、これを読んでご覧なさい。」
校長は本を指し示した。娘はロシア語のアルファベットを確かめるようにゆっくりと発音した。
「つぎのは。」
とりあえずアルファベット通り、その文章を読んでみたのだが、アクセントが違っていた。ロシア語はアクセントのある「O」以外をすべて「あ」に発音する。
「ほら、みてごらん。正しく本を読むことも出来ないじゃあありませんか。論外です。日本人は日本人の行く学校へ行けばいいのです。それとも日本語を教える学校へ行ったらいいじゃありませんか。」
わたしはムっとしていた。
「ということは、校長先生は私たちの娘をこの学校に入れたくないとおっしゃるのですね。」
キっとした口調でわたしは言った。
「いいえ、決してそういうことを言いたいのではありません。お嬢さんにとって、ロシアの学校へ通うということはとても大変だということを心配してあげているんです。」
「子どもの言葉の習得は早いというのが定説です。3.4ヶ月したら、ロシア語を理解し、もっとうまく読めるようになると思いますが。」
夫が抗戦している。
「学校は言葉を習うだけのところではないのです。数学、物理、科学、文学。それに対するテストもあります。彼女ではそれを受けるのも不可能です。テストを受ける彼女がかわいそうだから、わたしは言っているんですよ。ロシア語でテストをうけるということは、いい点が全くとれないということになりますね。どうです。」
夫とわたしは顔を見合わせてしまった。娘のほうに目を向けると不安そうに青白く緊張した面持ちでチョコンと座っている。なんだか、娘を見るとせつなくなる。
「今からわたしが教育委員会に電話をかけてあげましょう。いろいろと専門的な立場から相談に乗ってくれるでしょう。それに日本語で教えている学校を紹介してくれるかも知れませんしね。外国人を受け入れていいかどうかも知っていることと思いますから。」
外国人学生を受け入れるかどうかは、教育委員会の問題ではなく、ただ一人校長の決断にかかっているといってもよさそうであった。私たちは14番学校以外に3校の学校訪問を済ませていた。いずれも夏休みで校長先生がいらしていなかったが、外国からの生徒受け入れに対して、無理難題を吹っかけられたところはなかった。
どの学校でも決まって、日本での成績証明書と在学証明、そしてパスポートと医者からの診断書があればいいと言われていた。

「もしもし、わたし14番学校の校長ですけど、今、日本人が入学したいと来ていまして・・・。ええ、そうなんです。日本語のわけのわからない成績証明書とやらを見せるんですけど・・・。子どもはロシア語を全く分かっていません。」
私たちの持って行ったのは英語の証明書だった。必要ならば夫はロシア語の翻訳を添えるとも言った。なのに、彼女は教育委員会の担当官が見ていないのをいいことに日本語の証明書を持って行ったかのように報告している。
「ここに今、担当官の電話番号と教育委員会の住所を書いてあげます。必要な手続きをして来なさい。それが終わってからまた、いらっしゃい。」
その言葉が終わるか終わらないうちに、わたしはもう彼女の目の前で反対方向を向いてコートを来始めた。
「彼女はなつめの入学を許可したくないだけなんだわ。」
彼女にもわかるように大きな声でロシア語で夫に言ってやった。

「もういい。なんな、気にしないでいいのよ。いい学校が必ず見つかるから・・・。こんな学校へ来なくてかえってよかったのよ。」
なんて、強がりを言ってみたけれど、他のところでもどんな展開を示すか全く予想がつかなくなってしまった。

昨日までの学校訪問でとてもいい感触を得ていたわたしたちは意気消沈してしまった。
やっぱりここはロシアなのだ。なんでも一筋縄ではいかない。
「しかし教育だけは違う、さすがに文化大国だ。」なんて、期待と夢を胸一杯に膨らませてわたしが馬鹿であった。
娘は必要もない口頭試問まで受けさせられ、さぞや大変だったにちがいない。まっすぐ校長のほうを向いて健気に答えていた姿を思い出したら、いたたまれない。
「なんな、受け入れてくれる学校が出てくるまで何校でも行ってみようね。平気だよ。どこかにあるよ、いい学校が。」
「そうだ、そうだ。」
と、ヘンヘン。
わたしのロシアの教育に対する夢を期待を、大きく、大きく膨らませて、娘に前日語って聞かせたのだ。
あの校長に対する怒りがまたぶり返してくる。
「それにしても頭にくるなあ、あのクソ校長。」
「ママ、そんなことで頭にきてたら損だよ。もういいじゃん。ここへ来なくていいんだし。もうあの顔を見なくてもいいんだし。そうでしょ。」
ウーン。ごめん、なんな。どうもママの方が修行が足りないなあ。




家へ帰ってとりあえず、お茶を飲んで頭を冷やしてから、27日に行って感じの良かった学校へもう一度電話をしてみた。
校長先生が午後4時まではいらっしゃるという。
「30分以内に学校にいきますから。」
と、言うが早いかコートを着て出かけていった。
まず、校長の秘書室へと通された。
「ちょっとお待ちくださいね。校長先生に今、来客中なんですよ。」 しばらくすると校長先生が表われた。ヨレっとした綿シャツにジーンズというラフなスタイル。俳優でいうとちょっと薄汚れた2枚目半の役をこなすようなタイプ。
「こんにちは。はじめまして。」
と、緊張して我が親子が型通り腰を低くしていると、
「まあまあまあ、とにかくお座りなさいよ。」
すぐそばの椅子をさす。ご自分もそこらあたりにあるしょうもない椅子を引っ張ってきて、足を組んで斜めに座って、
「わたしに日本人の知り合いがいたんだよ。イワザァキって言ってたかな。大学で何かを教えてるんだってよ。どこに住んでるかは、今は思い出せないなあ。まあ、そんなことどうでもいいさ。」
「ところで、ナツメ。9月1日から君はうちの学校の生徒だ。7年G組に編入だ。わかったかい。」


エッーこんなに簡単に編入が許可されるワケ?


14番校の校長はすごく悪いやつだったの?結局、外国人の学生を引き受ける大変さがイヤだったのかなあ。 それともこのパンキン校長先生がよっぽど変わっているのかしら?


と、いうわけで、むすめは1741番学校の7年生になったのです。

メデタシ・メデタシ




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