9月7日(金)
 

ロシアの歴史の教科書は、歴史とは何か。歴史を学んでそれを学問として確立していくためにはどんな考え方をすればいいのかと、いうことをまず教えてくれる。

歴史は覚える教科ではなく、考え学ぶ1つの学問への門なのである。
人間存在がいかにして、時をためてそして過ごしてきたか。
今、現在の自分はいかにしてあるのか。
隣人とはどう付き合うべきなのかを問う勉強なのだ。


ここでちょっと7年生の教科書の冒頭部分をのぞいてみよう。
わたしの言いたいことがおわかりいただけると思う。


「ロシア人の先祖は何だろうかという問題に対して、おそらく、たいていの人はスラブ人、特に東スラブ人とこたえるであろう。東スラブ人とはウクライナ人とベラルーシ人も含まれると答えるであろう。

それではその東スラブ人とはどういうものであろうか、

もともと、今のスラブの土地にいたのか、別のところからやってきたのか。

また、その東スラブ人はどういう言葉を喋っていたのだろうか。

残念ながら、当時その東スラブの土地に住んでいた人たちが何語を喋っていたのかを示す資料はない。しかしながら、その土地の地名や川の名前等からどのような種類の言葉が使われていたかある程度のことが分かる。

今では慣れてしまってロシア的な名前だと思われているドンとかドニエプルという言葉はイラン語起源の言葉である。オカ川とボルガ川の間にはフィン・ウゴール語族の名称が見られる。

ヴァで終わる地名は(例えばモスクヴァ)これはフィンランド語で水を差す言葉である。

更に、ベロルシアやモスクワ西部にはバルト語系の言葉がしばしば見られる。

スラブ人はバルト海南部沿岸から後にノブゴロドとなる地域方面へやってきたという考えやカルパト経由でドナウ川からドニエプル川にやってきたという説がある。

が、7・8世紀になるとすでに東ヨーロッパの諸地域ではスラブ人が大多数を占めていた。

彼らは深い森を次々に切り開いていった。その時、すでにその地にいたバルト人やウグロフィン人との出会いがあったが、その出会いは平和的に行われた。

ロシアの有名な歴史家クルチェフスキィが言うように、もちろん隣人としての口論や喧嘩は会ったであろうしかし、一方が他方を征服するようなことをほのめかす資料は残っていない。

どうしてか・・・。それは森林地区での人口密度が著しく低かったのでその必要がなかったからである。

川や地域の名称にフィンランド語起源のものとロシア語起源のものが交互に存在していることからもわかるようにスラブ人のこの地への移動は極めてゆっくりしたものであった。

ここではじめの問題に立ち戻ることが出来る。その答えは考えられているほど自明のことではない。つまり、ロシア、ベラルーシ、ウクライナ人の先祖はスラブ人の他にウグロフィン人とバルト人が含まれる。

もちろんキエフ周辺では更に多くの少数民族が住んでおり、彼らも皆、祖先にあたる。」



こういう風に一体自分たちは誰なのか。また、どうやって生きてきたのか、学問的にはどのあたりまで明らかにされているのか。
また、考古学の紹介などもされている。



ロシアでは7年生で8世紀〜15世紀までのロシアのあけぼのを勉強する。8年生で16世紀から18世紀・近世を・・・。そして9年生で19世紀・近代、10年生では20世紀の現代を教える。
こうして数年にわたり、ロシアという国がどうあってきたか、そしてどうあるべきなのかを、とことん時間をかけて、じっくり腰を据えて歴史という学問を子どもたちに紹介する。

歴史好きの子どもたちはますます歴史というものに興味を持つであろうし、それはまた、人間に対するあくなき探求であることを意味することであることも瞬時に理解するであろう。

こうした層の厚い、質の高い教育が、ロシアが文化国家としての名目を保っている所以ではないだろうか。

これは単に歴史だけではなく、外国語でもそうである。日本のように早足では進まないが、じっくりと色んな話しや物語も含めながら、徐々に文法を学んでいく方法を取る。しかし、ゆっくりとしているからといって、量が少ないわけではない。
学んでいく方法が急激ではなく、ドッシリ、ズッシリ歩んでいく。

ロシアでは、日本の受験校に見られがちな知育一辺倒で育ってきたひ弱で神経質そうな子どもはあまり見られない。
子どもたちはあまり恐れを知らず、好奇心のあるがまま外国人であるむすめともわたしとも付き合っている。そして時間が経つうちに、普通の人間付き合いに発展していく。それは実に自然な振る舞い方で、わたしたちをリラックスさせてくれる。

豊かさとは何か、教育とは一体何かを考えさせてくれるロシアである。
ここではずっと、むすめの成長を見ると共にこの課題を考えつづけていきたいと思っている。


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