先日、我が家にお客様を招待した。その方たちもソ連時代、わたしたちと同様、ルーブル生活をなさっていた人たち(ソ連の出版社、プログレスに勤めていたIさんとYさん)だったので、いかに貧しい生活をしていたかで話しがもりあがってしまった。
「ブレジネフ時代の終わりころには、そりゃあ、生活が大変でしたよ。息子が日本人学校へ通っていたのですが、とにかくルーブルで支払いできるようにお願いしたり・・・。毎月280ルーブルほどもらっていたのですがね。 給料日前になると、あといくらルーブルがあるか、数えながら恐る恐る買い物に出かけるんですよ。」
その頃、モスクワ日本人学校では授業料をドルで支払っても、ルーブルで支払ってもいいという便宜が図られていた。しかし、ルーブルの実質的な価値は公式レートの10分の1であった。学校にルーブルで支払うための交渉は大変だったにちがいない。
「20年前にプログレスに勤めていた方にお聞きすると、『ルーブルなんて、カンカンの中に閉まらなくなるくらいたまって仕方がないものだ。数えないで好きなだけカンカンから取り出せばイイノよ。生活は楽だからいらっしゃい。』なんて、言われてきたんですけれどもねえ。来てみてふたを開けたら、とんでもない貧乏生活!嫌になってしまったわよ。そのころを考えると今は極楽ですけどねえ。」
確かにルーブルの給料や奨学金を基本に生活していたあのころと比べれば、信じられないくらい生活は楽である。しかし、研究者としてモスクワに滞在していらっしゃるYさんもうちと同様、今でもモスクワでは下層階級に属する。
「そうそう、この間、ガストロノーム(ロシアのどこにでもある食料品店)で、オーストラリア米を見て買ってきましたよ。」
「わたしなんか、近くのウニベルサム(ロシア人の利用するマーケット)でシシャモを見かけたのでかいだめしておいたのですが・・・。」
「えっ、どのウニベルサム??早速、行かなくっちゃ。それで、おいくらでした?」
「ねえ、チェリョームシキン・ルイノックに大根を売っているのをご存知?おいしいのよ。ちっとも日本の大根とかわらないのよ。」
「わたしなんか、リーシスキイ・ルイノックで、新鮮なほうれん草を見かけたから、1キロ単位で買って来て、冷凍しておきましたのよ。」
などなど。
こんな話しをしていると、普通(?)の日本人には笑われてしまう。
モスクワには、商品の値段をバーコードで読み取り、レジで一挙にお金を払える西側資本のスーパーマーケットがいくつでもあるからだ。そこはロシアの普通のお店と比べるとかなり高い。値段は高いが商品は新鮮できれいだ。品数も揃っている。ほうれん草や大根だっていろんなルイノックやお店をわたり歩いて探し回らなくっても、一軒で買い揃えられる。
肉も骨なんか付いていないし、豚の頭がドン!!と、鎮座していることもない。まして、ルイノックで買い物など、不潔で野蛮の骨頂のように思われてしまう。
プログレスの出身者(+わたしたち)は、お肉を買うのも、
「この間、美味しい子牛のソーセージを買った来たのですけれども、1キロ50ルーブルもしました。」
「へえ、それは高い!!さすがに美味しかったでしょうな。」
「ええ、少し分けて差し上げましょうか。」
と、なる。
でも、スーパーマーケットで買っている日本人は言うことが違う。
「スーパーマーケットでもお肉は買ってもいいと思いますの。今まではジャプロ(日本食の専門店)で、100グラム30ルーブル(1キロ300ルーブル以上!!)くらいのを買っていたけど、スーパーマーケットのお肉も悪くはないわね。1キロ100ルーブルくらいで買えるし。家でスライサーを使ってお肉を薄切りすればいいだけですもの。」
肉はスライスしたものでなければならないとでも思っているのかしら・・・。少なくとも、我が家では、ロシアへ来てからスライスしたお肉は食べた事がない。
勿論、住まいも違う。彼らは外国人とノーブイ・ルスキイ(ペレストロイカ後、時流に乗ってビジネスに成功し、月収200万円以上の金持ちロシア人のことをいう。)のためのモスクワ市中心に程近い新しくて、素晴らしいマンションに住んでいる。
広く明るい部屋、家具なども外国製、勿論、電化製品も日本やドイツ製である。ロシアの電気調理器を日々使って、毎食時間をかけているのとはわけが違う。その上、メイドさんや運転手付きと相場は決まっている。
ある日、学校で、下のむすめが、
「お誕生日にうちによぶから来てね。」
と、お喋りしていた2人の女の子に話しかけた。女の子はクラスにむすめを含めて5人しかいない。
「うん、でも、お誕生日にはクラスのみんなをよばなければいけないんだよぉ。」
「そうだよねぇ。だから、おうちが広くなければいけないんだよ。」
と、言った。
「えっ。」
むすめは絶句している。だってクラス全員19人も入って遊ぶスペースは我が家にはない。
「それでも、わたしのお誕生日には来てね。」
と、無邪気だ。
その会話を聞いていたわが夫は「やれやれ・・・」と、思ったという。
いろんな施設も違いが色々ある。わたしたちのアパートのように氷点下になってもなかなか暖房が入らないのとはわけが違うのである。
寒さに強いさすがのロシア人も自宅の暖房施設が壊れているのではないかと、うちに、「暖房はもう入ったか。」と、聞きに来たくらいである。
私たちは、そのプログレスの人たちのアパートと暖房が入るのを一週間競った。(残念ながらうちは一週間も暖房が入るのが遅かった。)
今も昔も変わらない「とほほ」生活を送っているわたしたちには妙な同志意識がある。ありがたいことにとてもとてもお互いに対して思いやりが深い。
いろんな事をわが事のように心配してくださる方々なのだ。わたしはこんな人々に囲まれてモスクワ生活を送っている。
前回のモスクワもプログレスに勤めていらした長島さん一家の助けがなければ、生活しとげていたかどうか、わからない。
おとついは、Iさんが手ずから作ってくださった大福はお腹に沁みた。
次へ
モスクワ日記の表紙へ
ホームへ戻る