モスクワ大学へ再度行った。引越しするとここも遠くなってしまってなかなか来られないだろう。住んでいたゾーンVの14階へ行ってみる。
やっぱり、あの頃と匂いがおんなじなんだよなぁ。ギリシア人のドミトリーやドイツ人のウリやアグネス、カナダ人のディビットがひょっこり「ハロ〜。」と、言って顔を出しそうな気がする。
「この匂いだったよねえ。ママ。」
「うん、そうそう。あの頃大っきらいだったけど、この匂いは多分サワークリームの匂いなんだねえ。」
ちょっとミルクが腐ったような臭いが廊下にたち込めている。
「なんなはこの廊下をこま付きの自転車で走りまわっていたねえ。」
「うん、覚えてる覚えてる。」
中央にあるジェジュールナヤ(舎監)の部屋が空いていたので覗いてみると、あのニーナが出てきた。
「何か用事?」
「いえ、前に住んでいたことがあるもので。」
「どこの部屋?」
「1423号室」
「ああ、あの洗濯機を持ってた日本人ね。」
我が家にはセルゲイに買ってきてもらった洗濯機があったが、それを覚えているなんて・・・。ジェジュールナヤのニーナは、ちょっと待って、と言って大広間の鍵を開けてくれた。
舞踏会でも国際会議でもなんでもO.Kのこの部屋からは、植物園が見えて、美しいヨーロッパ型の庭が一望できた。
その後、美味しい(?)匂いに誘われて、学生食堂へ行った。ヘンヘンは豚肉のトマト煮とじゃがいものフライ、そしてじゃがいものオリビアサラダ。こどもと私たちはエクレアとシュークリーム、クッキーにジュースを頼んだ。
今まで甘いものは非常に甘いのがロシア的だったけど、今回食べたエクレアたちは品よくあっさり納まっていた。
私たちのテーブルの隣にちょっと色の浅黒い子どもたち4人が座ったので、これは、チィと喋ってみないと損だなと思った。
「どこから来たの?」
「タジキスタン、ドゥシャンベ」
この音、この香り・・・。あ〜あ、匂ってきませんか?あの素晴らしい太陽と土と埃と絹の道を通って行った香辛料が・・・。
たまらないなぁ。オアシス近くの用水路に、強い日光をさえぎるように植わっているブドウの棚。
チャイハナでは銀糸や金糸の縫い取りのある赤や緑の小さな帽子をちょこんとかぶった伎楽面の顔をしたおじいさんたち。
「ねえ、ねえ。お母さんを紹介してよ。」
「え〜〜〜。」
「一番大きい君は何歳なの?」
「11歳」
「ふ〜ん、うちの上の娘は12歳だよ。」
「あっ、間違えた、ぼく本当は3日前に12歳になったんだよ。」
「あら、本当かしら?まだ、11歳じゃあないの?」
意地悪をするのはドゥニャン。
「違うよ、みんなに聞いてご覧よ。本当にぼく、3日前に12歳になったんだから。」
「わかったわかった。ご飯が終わったら、お母さんのところへ私たちを連れて行くのよ。良くって?!」
嫌とも言えず、ヒソヒソヒソヒソ、こちらを時々盗み見しながら、相談する子どもたち。(12歳が一番上で、あと10歳と9歳2人)ニタニタ、コソコソ。ちっとも子どもたちは落ち着かない。
「頑張ってご飯をたくさん食べなさい。」
ドゥニャンはこどもたちに注意した。それでも子どもたちは薄気味わるいのか、好奇心のほうが勝つのか、こっちを見ては含み笑いをもらしている。
「アンタたちのご飯が終わるのを待ってるんだから。しっかり食べなさい。」
と、ドゥニャン。
「あのおばちゃん、待ってんだって。どうしよう・・・。」
「どうしよう。」
知らない人に声をかけられて、心配になったのか、食器を所定のところへ返しに行って、飛び散って走っていく子どもたち。
「きみたち!!ちょっと待って!!!」
慌てて後を追うのは私たち親子4人。
彼らの走っていくほうへついて行ったら、お母さんたちがモスクワ大学の庭で赤ん坊をあやしながら、ベンチに座っていた。
近くの木にはトム・ソーやーの小屋のような小さなダンボールの家が木の上にしつらえられている。母親たちの近くまで結果的に私たちを連れてきた子どもたちは、くもの子を散らすように「ワァー」と、逃げていった。
「こんにちは、わたしたち日本から来たものなんですけど。」
「こんにちは。わたしはアフガニスタンから来てるんですよ。」
と、型通りのあいさつ。
「でも、子どもたちはタジクのドゥシャンベから来てるって言ってましたよ。」
「いえ、あの子達のうちの2人がタジク人なんです。」
「アフガンは今、大変でしょう?」
「ええ、ええ、そうですとも。昨日の米軍の攻撃でまた死傷者が出ましたもの。」
「そうでしたよねぇ。」
(他国のハナシと思って熱心にインターネットを見なかったので、そんなこともあったなあという記憶しかドゥニャンにはない)
「なんでアメリカはアフガンを攻撃したかご存知ですか?」
「ナンダッケ???」
ドゥニャンは日本語で言って、ヘンヘンの顔を覗き込んだ。すると、彼女の説明が始まった。
アフガンのイスラム原理主義者タリバン政権は国際テロリストとしてアフガンへサウジアラビアから逃れてきた富豪のオサマ・ビン・ラーディン氏を保護した。しかし片や富豪である彼は、アメリカのハナシではこの2年間にタリバン政権に3億ドルもの援助をしているという。
彼はケニアとタンザニアの米国大使館爆破に関与しているとされ、強力に米国によって追跡されている。米国からタリバン政権に対して再三、オサマ・ビン・ラーディン氏を米国へ引き渡すよう要請されていたが、アフガンはこれを拒否。
そして、米国クリントン政権は、自分のスキャンダル事件から国民の目をそらし、揉み消すためにも「国際的なテロの撲滅」というスローガンを掲げて、今回のスーダンとアフガンへの爆撃を行ったのである。
「オサマ・ビン・ラーディンはアフガンやわたしたちになんにも悪いことをしていません。そんな人をお客様としてもてなして何が悪いというのです。彼はわたしたちのお客様です。アメリカが何度もオサマ・ビン・ラーディンを引き渡せと言ってきたけど、パシュトゥー(アフガンではパシュトゥー語という言葉を使っているらしい)気質では、そんなことをしてしまっては、自分たちを許せなくなるんですよ。」
「1947年の独立戦争前は、アフガンは英帝国の植民地でした。アフガン人の60パーセントはパシュドゥー語を話しています。同じようにパキスタンでも半分の人たちが同じ言葉を話しているのです。パキスタンという国の名前は元々パシュトゥーという単語から来ているくらいです。わたしたちは兄弟のようなものでほとんど違いません。」
「1979年革命の1年半後、クーデターが起こり、タラキ大統領からアミン首相に変わったのです。それはソ連、ブレジネフ政権には気に入りませんでした。だから、ソ連軍はアフガンに侵攻してきました。そして、ソ連の傀儡政権バブラカルマル政権が興ったのです。バブラカルマルはまさにソ連の人形でした。その後、アフガンでは、ソ連の人形・バブラカルマル政権が気に入らない反政府派と政府はとのゲリラ戦がいつも国内でありました。」
「1991年わたしたちはイスラム原理主義者のムジャヘッドを元首としていただくことになり、やっとソ連いやロシアの人形であることから解放されたのです。アフガン人は外国の政治的介入を最早、だれも好きではありません。わたしたちはわたしたちの気持ちを率直に持って、行動します。オサマ・ビン・ラーディン氏のことに対しても、お客様である彼を無下にすることは、わたしたちの心を歪めることになります。」
昨日、米国が「テロ撲滅」のために行ったアフガンとスーダンへの攻撃を日本、ドイツ、イギリスなどの国が支持したというニュースを聞いた。
マラライや子どもたちのことを考えると、なんでかなあ。と、思わざるを得ない。
フランスの左派の新聞(リベラシオンなど)では、クリントン大統領の不倫問題から目を逸らせるために、この攻撃が行われたと報じられたという。
一体、世界って何なんだろう???
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