1999年11月7日(月)

どうもこのところギクシャクしていけない。
なかなか二人の心がぴったりと寄り添い、お互いの愛を確かめ合う視線の交差が少なくなって来た。

あながち、変人の夫のせいであるとも思えない節がある。ドゥニャンの堪忍袋の緒がもう細く細くそれこそどうしようもなく一縷の糸しかないのだ。

彼の変人ぶりは一日に何度も目にする。
何をするかと思いきや、突然ヨーガの体勢に入り、逆立ちをして、足で優雅な私のよそいき姿を拍手してみたり、歴史の本の構想を練っている時に、顎に出ているそり残した髭をしきりと親指と人差し指の爪で毟り取ったりして、それを丁寧に今読んでいる本のページにズラリと並べて悦に入っている。

結婚して15年。子どもも一応思春期を迎えている。
ドゥニャンとしては、娘への男性観の影響を少しは考えなくてはならない時期に来ているのだ。
昨日も、留学生が家に集まって、お鍋大会を開いたのだが、彼の口から出てくるのはほとんどブラックなユーモア(?)ばかり・・・。

にこにこと穏やかそうな顔。日本人離れした彫りの一応深い顔は思慮深い好青年の顔である。
そのポーカー・フェースとも言える顔で、ニコニコ笑いながら、辛辣なことを平気で言うのである。少しは罪の意識もあろうかと思いきや、
「全ての人間は神の前には平等である。」と、のたまう。
「だからって、どんな事を言っても許されるわけ?(例えば、頭に毛のない人は寒いだろうというための実証をしてみたり・・・)」
確かに零下10度近くに冷え込んだ日に帽子を被らないで外を歩くのは寒い。耳までは被らない毛皮の帽子をちょこんと頭の上に乗せるだけで、頭のてっぺんからガンと叩かれるような寒さは防げる。
ただの軽い帽子一個が、コートをもう一枚羽織るのと同じ効用を示すのだ。
「いわんやおや、髪の毛は帽子以上の効用を示す。」


つまり彼に言わせれば、自分はもとより、どんな人でも神の前には平等なのだから、それは人間みな等しいということになる。だからどんなことを言っても、その人々の尊厳を汚すものではないという論法である。
「そうなんだよ。わかるかナ??なかなかドゥニャンもたまにはいいことを言う。」

実は、夫のヘンヘンは大学3年生の時に既に父親になっていた。

ドゥニャンたちは、結婚式というものをしていない。面倒くさかったのと恥ずかしかったのと(だって、あんな着物やドレスを着て、おとなしく人の前に座らされるということが、既に屈辱的だと感じていたのだ。しかもお金もかかる。人の大切な時間も取る。親は結婚に反対しているし、それを説得するには愛が深すぎた。だから、誰にも知らせずにそこら辺にいる知り合いに証人になってもらい、親に黙って市役所にだけ結婚証明書を出して来たのだ。)

若くして結婚したからと言って、彼が大成していたかと言うとそうではない。
著しく幼児性を残している。可愛いぬいぐるみや柔らかいタオルを見ると、声のトーンが変わる。必ず頬に当ててその感触を確認する。
雪が積もったら、大喜び。「びーびーがジョーチリンリンが嬉しそうなんだよ。」
と、ドゥニャンを牽制しながら、いそいそと外へ出て雪で遊んで帰ってくる。

こういうのと15年も一緒にいたドゥニャンはひたすらよく耐えていると、我ながら思う。

よ〜し、こういったことを平気で毎日あいも変わらずやり遂げる夫は離婚するに限る。
と、ドゥニャンは思ったのであ〜る。きっと誰しもが我慢してやる通過儀礼を七面倒くさいと、放りなげたから、我が夫君はそうなってしまったのだ。
こうあっては、離婚しかない。

そして、もう一度、大々的な結婚式を決行し、大披露宴をやり、大人とはどんなに我慢が要求される生き物であるのかを、夫にとくと知らしめなければならぬ。

離婚は必須の条件である。

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