1999年11月28日(日)

ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。アレクサンドル・ゴドノフ。
1949年生まれ、生きていたら今日で50歳。
マイヤ・プリセツカヤのパートナーであり、カルメンのホセ役やイヴァン雷帝をやると、とても雰囲気のある素晴らしい才能をもったソリストであった。
1979年にモスクワ在住の大物バレエダンサーとして初めてアメリカに亡命した。
しかし、彼は1995年46歳で亡くなった。「死んだら自分の骨を海にまいてくれるように。」と、遺言を残して。

ゴドノフの妻であったリュドミーラ・ヴラーソヴァが彼の50歳の誕生日を記念して、新聞「コメルサント」のインタビューに応えている。

ーどうして、彼は亡命したのだろうか。

芸術における自由をこよなく愛していた彼は、その当時のボリショイ監督であるグリゴローヴィッチとそりが合わず、辛い思いをしていた。しかも彼の才能、美貌、若さを嫉妬してなかなか海外公演に連れて行ってもらえなかった。
それは、当時のこと、海外公演というのに参加できないことは、世界に発信する芸術的表現の場を根こそぎ取られているようなものだったのだ。

ある日、アメリカ公演にやっと連れて行ってもらった時に、彼は友人達とアメリカの友達の家の集まりに出かけた。そしてそこでウォッカやウィスキーなどをしこたま飲んで、自分はアメリカに残ると決定したのに違いないと、彼女は言う。
その辺りの事情は妻であったヴラーソヴァには伝えられていない。
一片のメモも彼女に残さずにゴドノフは彼女の前を去って行った。

彼はなかなか帰ってこない。1日待ち、2日待つうちにことの真相を彼女は無言のうちに悟ったのである。

そして彼女は3日間もケネディ空港の飛行機の中で、グリゴローヴィッチと共に留め置かれている。
ゴドノフの亡命がわかった途端、彼女たちは強制帰国されそうになっていたのであろうか。
アメリカ市民による「リュドミーラ・ヴラーソヴァに自由を!!」というプラカードを掲げたデモが、飛行機の離陸を遅れさせた。
その時に彼女は決してアメリカには亡命しないと決めていた。祖国にいるお母さんのことをとても心配していたからである。また、ソリストとしてのボリショイ劇場での仕事もあった。


この時の彼女の気持ちはいかばかりであったであろう。
どうして、どうして相談もなしに・・・という気持ちと、その当時のソ連の政治状況をかんがみた際、彼女に事情を詳しく知らせることによって、他の家族にも迷惑がかかるというゴドノフの思いやりと優しさがそうさせたのかもしれないなどと、ひどく心が騒いだのではないか。
彼らはもう一生相見えないかもしれないのだ。
どうしてこんな重大なことを!!
彼との8年間の結婚生活の全てがこのケネディ空港の飛行機の中で走馬灯のように、彼女の脳裏をよぎっただろう。
もう少しゴドノフは待つことが出来なかったのだろうか。
海外公演にこれからも参加することがあっただろうに・・・。
モスクワでのチャンスを生かす方法はなかったのか。彼には祖国で生きるということがそんなに息苦しいことであったのか。

飛行機の窓の左には広大な空港の土地が続いて見える。そして右側にはプラカードが・・・。彼女の選択する人生を他人が操り、勝手にヒロインに仕立て上げられていく。



何故?彼なの??
ヴラーソヴァは何度自問したであろう。
理不尽な別離を彼女はどうやって乗り越えることができたのか。



彼女は、やはり愛する人に捨てられたという意識をぬぐいきれなかったのではないだろうか。

ただ、新聞の記事から察して言えることは、彼女はゴドノフのことをちっともうらんではいないし、才能あるバレエダンサーとして尊敬しさえしている。
ヴラーソヴァもゴドノフも、彼の亡命で離れ離れになった後、お互いに新しいパートナーを見つけたが、彼らの愛は終生変わらなかった。ゴドノフの新しいパートナーであるジャクリーン・ビッセが彼が終生愛したのはヴラーソヴァ只一人であったと、彼女に伝えているようである。



諦念。これこそロシアにおける人々の中で一番に見受けられる感覚である。 その諦念を自分のものとして、人生を引き受けようとする、そしてその中から雄々しくも立ち上がってくるのが、ロシア人なのだ。
その暗い諦念という広がりの中にこそ、ほんとうの優しさと人間に対する包容力と、生きていく泉を見出すのである。



当時の政治体制が、鉄のカーテンが、一人の女性の運命を翻弄したとは言えないだろうか。
もうソ連体制はピリオドを打ち、市民達は自由をその手に握った。ただ、経済的にはまだまだ混乱の中にある。
何十年間も続いた独自の経済体制の中から、新たな市場原理を生活の中に浸透させていき、適応していけるのは一握りの人達であるのかもしれない。
あるものの中で満足し、充足していく生活。それが基本なのかもしれない。
だから、ロシアにいると、貧困と言うものがそんなに気にならないのであろうか。

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