夜中11時、もう寝ようとしていた時、
「ジー・ジー・ジー」
突然の電話のベル・コール。
また、いつもの間違い電話だ。もう、全くこんな時間に・・・。
と、受話器をとってみると・・・。
「もしもし、もしもし・・・。」
何となく悲痛な日本人の男性の声。
「今晩泊めてもらえませんか。」
「はい、いいですけど・・。」
自分が誰か名乗る前に、泊めてくれとは、かなり慌てている。どうしたんだろう???
でも日本人だ、いいや。
「あっ!池田です。ちょっと勉強をしていて、散歩に出て帰ってみると、カギを開けようとしてみても、ドアのノブが空回りしてどうしても開かないんです。」
池田さんはヘンヘンの後輩にあたるロシア史の研究者だ。
「ほんとう?!それは大変ですね。来てください。遠慮は要りませんよ。」
「こんな夜中、突然ですいません。でもどうしようもないんです。」
「で、どこにいらっしゃるんですか。」
「ユーゴ・ザッパドナヤのメトロからかけています。」
うちの家から一番近い地下鉄の駅である。
「あら、手回しがいいんですね。」
「いや、そんな訳ではなくて・・・。吉田さんのところが駄目なら、別のところに行くにしてもここが一番いいと思って・・・。すいません。本当に申し訳ありません。」
「そんなに大変なことじゃなくてよ。うちでも退屈でウンザリしていたところだから、お客様がありがたいくらいよ。」
「はあ、じゃあ、これからすぐに参りますので・・・。」
「ええ、お待ちしています。」
しばらく経って、ブザーが鳴った。
「あ〜〜。安心した。いいもんですね。家って。」
ドアを開けた途端池田さんの口から飛び出したのが、この言葉だった。よっぽど心細かったに違いない。
「いらっしゃい。」
「すいません。こんなに突然・・・。ドアのカギがぶっ壊れちゃって・・・。本当に申し訳ない。」
憔悴しきった池田さん。顔色が心なしか白い。
「大丈夫よ。2・3日ゆっくり泊まっていけばいいじゃない。ヘンヘンのともだちなんか10日間もうちに遊びに来ていた人もいるくらいだから、うちは大丈夫。平気よ。」
「でも・・・カギが開かないんですよ。外からあのノブをはずすにはずせないんですよね。修理を頼むにしても、どうやって開けるんだろう。うちは一階だから窓から入るということも出来ないんです。窓には頑丈な鉄柵が覆ってありますから・・・。」
家に入れないことがよっぽど気になる池田さん。どうしてもそっちの方にハナシが行ってしまう。
お茶を飲んで、笑い飛ばしながらでも家に入れなかったことを話すくらいにはドゥニャンたちはドタバタの訓練はされている。
「だいじょうぶだって!!ロシアでは色んなことがおこるけど、絶対何とかなるんだから・・・。マドンナが森で壊れた時だって、民警に捕まった時だって、下の娘が産まれた時だってなんとかなったんだから、ドアの一つや二つ何とかなるんだって。」
「そこまでは行ってないと自分も思うんですけど・・。いや、それにしても・・・困ったなぁ。手帳とパスポートを持ってきていてよかった。」
「うん。いつも最悪の事態はここでは避けられるように出来てるんですよ。」
と、にやにや笑うヘンヘン。
「いや、何が最悪の事態かわからないですけど・・。カギをちゃんと持っているのにドアが開かないというのは最悪の事態じゃないのかな。」
「いや、うちがいるってことも、手帳を持って出たというのも、最悪の事態じゃあないんですよ。」
「それにしても、家がないというのは心もとないことだ。」
池田さんは息が上がらない。
「そんなに落ち込まないで、このロシア的状況を極限まで楽しむんですね。」
「まったく。こんなにロシア的な困難に出会ったのは、去年秋にこっちへ来てから始めてですから。」
「それは少なすぎる。いい経験だと思って楽しむほかないはねぇ。」
明くる日、起きたら池田さんは顔も洗わずにもう出かけるという。行くあてはあるのだろうか。
「お茶でも飲んで、朝ご飯を食べてからにしても遅くないんじゃない?それに外で電話をかけるより、うちからかけた方が手っ取り早いと思うんだけど・・・。」
「いや、でも、こんなにご迷惑をかけちゃ悪いんで・・・。」
「いえ、ちっとも!!人のドタバタは、見てて大変だろうって思うけど、災難は我が家じゃないから、迷惑って言うわけじゃないの。ちょっと朝ご飯食べて、これからどうするのか考えた方がいいわよ。」
「じゃあ、そうさせてもらいます。歴史研究所を通じてアパートを借りているので、研究所に電話をしてみます。」
電話をかけたら、明後日以降にならないとドアの修理を頼めないとのこと。池田さんはますます消沈した。
「パスポートも持ってるし、図書館の入館証も持っているんだったら、何にも困ることないじゃない。今晩もうちで泊まって夜ご飯を一緒に食べましょうよ。」
「はい。最悪の時にはそうさせていただきます。とりあえず、ぼく、外に出てきます。ここにいたって仕方がないから・・・。」
「じゃあ、夕方6時半くらいには帰って来てね。お食事の用意をしておくから・・・。」
「はい。分かりました。」
とぼとぼと出ていく池田さんの後ろ姿は肩が落ちている。
(お気の毒さま・・・でも。こんなの長く続かないわ。最悪の時はドアの蝶番をバーナーで焼いて新しいドアを取りつけるだけだもの・・・。)
と、人様のドタバタには随分余裕のあるドゥニャン。
夕方になって、池田さんから電話がかかって来た時、
「あ・開いたんです。ドアが・・・。今、大家に電話をかけたら、直ったって・・・。」
池田さんの声は明るい。
「まだ、ドアが開くかどうか自分で確認したわけではないのですが・・・。とにかく開いたんですって。」
その夜、池田さんは我が家で舌の廻ることまわること。
今日のお話が楽しく出来ます!だって・・・。
まぁ。ロシアのドタバタなんてこんなもんよ。と、百戦錬磨のヘンヘンとドゥニャンは思ったのだった。