1999年9月2日(金)

昨日夜、7時から早速、8Gクラスの父母会が開かれた。
ロシアでイイナぁと思うのは、PTAなどというややこしい七面倒くさい暇な親の会がないということ。
そして、働いているお母さんやお父さんが多いことから(ソ連時代はほとんどの人が仕事を持っていた。)父母会に参加しやすいように、こうして夕刻、仕事の終わってからの時間にその会が開かれることだ。

我がクラスの担任は去年度と同じ、校長先生のパーベル・パーブロヴィッチである。
この先生は良く喋る。とにかく喋る。
約1時間40分の間、一人で喋り捲っていた。他のお母さんが質問に立っても、その質問を遮ってまでまだ話を続けている。

ただ、やっぱり、おっしゃることの内容の濃さは抜群である。

まず、8年生というのは勉強がとても難しくなり、教科も多くなるということ。
理科も物理・生物の他、化学が入ってくる。

数学は、幾何と代数。

数学や自然科学などの教科は8年生からは高等数学・科学になるらしい。
ノートは11年生まで使えるような分厚いものを買うようにという注意を受けた。
フランス語、英語という外国語も難しくなる。

文学に関しては古典を読むことに重点が置かれることになる。
推薦図書を印刷してある紙が配られた。

トルストイ、ツゥルゲーネフ、プーシキン、ドストエフスキー、ゴーゴリ、ソルジェニツィン、レールモントフ、ラジーシェフ、ボリチェル、外国作品では、ダンテ、シェークスピア、ユーゴーなどが並ぶ。

これほどの本を読む日本の中学生はどれくらいいるのだろう。日本の古典となるであろう夏目漱石や二葉亭四迷、樋口一葉、松尾芭蕉など・・にこの作家たちは相当するのではなかろうか。
よほどの本好きな子どもでない限り、このような本はひも解かない。

まあ、上の娘のクラスのロシアの子どもたちもたいていはそうにちがいない。でも、目指すところが違うのには脱帽する。軽く流れようなんて教育は教育ではないらしい。


歴史は17世紀から18世紀のロシアに関する勉強をする。


また、ロシアの古典文学を理解するために宗教としてのキリスト教というより、知識としてのキリスト教をできるだけ、皆に伝えてみたいということもおっしゃっていた。
このクラスには色んな民族がいて、イスラム教、スラブ正教、カトリックといろんな宗教をそれぞれが持っているが、それとは別に文化としての宗教を教えたい、と。
それぞれの方が宗教に対してはそれぞれの意見を持ってはいるだろうが、それはその人たちの問題である。学校としては、ドストエフスキーやトルストイなどの作品を読み込むために、ロシア正教の理解なくしては基盤のない建物のようなものであるので、こうした試みを許していただきたいとの言葉であった。


どこまでが宗教でどこからが守るべき伝統なのか或いは文化なのかを、考え過ぎてしまうどこかの国のおざなり主義とは実に違った小気味のいい説明だった。




それから文化的な催しを楽しむためにオペラに子どもたちを連れていったり、近所の劇場でシェークスピアを見たり、現代演劇を見たり、教会などに行って本物のイコンを眺めるということもすると・・・。ロシアは本当に文化的な催しに事欠かないし、安い値段で見られるのも魅力である。


子どもたちはテレビや道路脇にある公告から色んな情報を得てくる。それから得るものは何なんだろうか、一つご自分に向かっても質問を発していただきたい。
もっと別の文化があることを家庭と学校で協調しながら、子どもたちに教えていこうではありませんか。と、わたしたち父母によびかけられた。

この年齢の子どもたちは自我に目覚め急激に難しい年頃となってくるが、学校のそばにはプールやバスケットボールを教える施設、音楽を楽しむこと或いは森の散歩など、彼らの時として苛立つ神経をなだめる格好のはけ口となるところが多くあるので、それらをうまく利用しながら、大人になるための準備期間としたいともおっしゃっていた。

立派すぎて、うちはどうなんだろうと、しんどくなるようなハナシでもあったが、今年も一年、この先生について習って行く32人の子どもたちは幸せである。

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