エイフマン劇場 カラマーゾフの兄弟
2000年1月23日(日)
配役- アレクセイ:イーゴリ・マルコフ、イヴァン:アルベルト・ガリチャーニン、ドミトリー:ユーリー・アナニアン、カテリーナ・イヴァーノヴナ:エレーナ・クズィミナ、グルーシェンカ:ヴェーラ・アルブーゾヴァ、フョードル:アンドレイ・ゴルデーエフ
演出:バリース・エイフマン
幕が上がると舞台の奥に父、フョードルの家があり、その中では淫乱なドンチャン騒ぎがおこなわれている。
カラマーゾフを代表し、象徴するような光景である。
一度暗転。
そして、そこにドミートリ・イヴァン・アリョーシャの3兄弟が現われる。べっとりと汚れ、破れきった衣装を着た男性が現われる。
その男性は汚れ切ったカラマーゾフの血を表わすものであろうか。
3人の兄弟達はお互いに全く違う人格を持ちながらも見えない糸で結ばれ絡めとられている。
その絡まりを男の衣装と性質で表わして、最後にそのゴムで出来たその衣装が3兄弟を動きが取れないほどに絡まっていく。
また、暗転。
父、フョードルと長兄のドミートリが悪女グルーシェニカを恋慕い、お互い情念の虜となり、恋敵としてのライバルに火花を散らす踊りが踊られる。
グルーシェニカとフョードル、ドミートリとの踊りはエロティックである。
相手の手から暗い情念に燃える相手を取り上げるために濃厚な踊りを踊る。
ところが、ドミートリにはカチェリーナ・イヴァーノヴナという婚約者がいて、ドミートリの熱愛の事を知る。それに対してグルーシェニカがカチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ弁明しに行き、何とか二人の関係はうまくいきそうになる。しかし、アリョーシャが来た途端、グルーシェニカはいとも忌まわしい事、カチェリーナ・イヴァーノヴナにとってはふれては貰いたくない事を平気でそれもスキャンダラスに言い放つ。カチェリーナ・イヴァーノヴナは失神する。
カチェリーナ・イヴァーノヴナが失神する所、そしてその前後のやり取りもこのバレエでははっきりしない。ここの場面は凛とした気位の高い気高さで自分を滅ぼしそうになっているカテリーナとそれを翻弄する好色で貪欲、品がなくねちっこくいかにも可愛らしげに演技を繰り返すグルーシェニカとの対比が必要であるにも関わらず、全く二人の対比が出来ていない。
失神しそうになって、(気を付けていないと失神した事さえわからないような演技である。)
そこでイヴァンが出て来て、彼女の面倒をみるのだが、このやり取りも恋を歌っているのか、看護をしているのか・・・。どちらかというと前者に力が入っているように見受ける。
実はイヴァンはカチェリーナのことを愛しているのだが、カチェリーナはドミートリへの気持ちとイヴァンへの愛とを混同して、自分がどんな風に思っているのか定かではない。
こうした人間模様の中でアリョーシャはひたすら心を砕く。
場面は変わって父フォードルとドミートリとのグルーシェニカをめぐっての醜い争いとなってくる。
その場面、長いテーブルを使い、それを塀とも或いは二人の確執の固さとも表わして、なかなか立派な演出である。テーブルはひっくり返されたり、裏返ったり、立てられたりとそれ自身がバレエの一端であるような動きを示す。
最終段階になってテーブルの足の元に引っかかって父フォードルは殺される。
父フォードルを殺したのは長兄のドミートリであると嫌疑がかけられ、ドミートリは逮捕される。
2幕に入って、ドミートリは牢屋の中。心がすっかり変わって生まれ変わったグルーシェニカはドミートリの愛に目覚める。彼の面会に行って泣き伏している。
魅力的なグルーシェニカは他の囚人にもなんだかだと言い寄られているのだが、グルーシェニカは一幕での赤い衣装から、黒い衣装に変え、どんなことにもドミートリとなら耐えて行こうとする決意を表わしている。
イヴァンとアリョーシャは存在や人間の霊魂の意義に付いて終わる事のない話をしている。
ここがカラマーゾフの有名な大審問官の部分である。
神を否定し、悲劇と不幸を造り、そのために人類を悲しみ苦悩というどん底に貶めてそれをになっていこうとする大審問官、それと全てを許し自分の身を捧げてまで、人類の救済のために、人間の犯す罪のことごとくを背負い、世界を許す権利を持った人、それこそがキリストであり、その土台にたってこそどんな構築物でも築かれる事ができ、調和によって満たされるということを主張するアリョーシャ。
一幕目のアリョーシャの僧服は黒であったが、この大審問官の部分は白い僧服を纏って出てくる。そしてイヴァンは真っ黒な肩のいかった衣装を着ている。これはキリストと悪魔、或いは神を信じるものと無神論者の対比だと思わせる。
暗い舞台の中で二人のやり取り。そして時々、後ろの舞台装置上段にある十字架が白い強い光によって照らされている。
最後にイヴァンは力弱く、この大審問官の対話のあと、舞台を去る。
そしてアリョーシャは明るく照らされた十字架を仰ぎ見る。
イヴァンはまた、父親の殺害に関して、本当の殺人者スメルジャコフ(このバレエでは出てはこない)をそそのかせたのは自分であり、本当の殺人者はイヴァンなのであるという観念に囚われ、苦しむ。
そしてそれを兄のドミートリに告白しにいく。
そこで兄とイヴァンの兄弟愛の確認が行われる。
今や、お互いの憎悪が愛と変わったのである。
さて、アリョーシャは生きとし生ける者全てが苦しみ哀しんでいるのを見て、難とも言えない葛藤に悩む。どうしたら、本当の赦しはあるのか。どうしたら彼らの生きる道に希望が与えられうるのだろうかという全人類の苦悩を背負った襖脳である。
カラマーゾフの家族は今やひどく惨めな状態にある。父フョードルは殺され、長兄のドミートリは牢屋の中、頭脳明晰であった次兄のイヴァンは疲れ果て譫妄症に陥り、我を忘れている状態である。
アリョーシャは多くの無辜の犠牲者(兄達をも含めた)に対して、自分の成すべき事を自覚していく。そして、人間とはどんなに罪深いものであっても、その罪によって人生が破滅に導かれるとしても、それに対する救済を固く誓う。
最後に十字架が照らされ幕が引かれる。
2幕目は道具としてこまの付いた黒く塗られた粗い金網が有効に使われる。
それは時として、刑務所の檻となり、それは時として、意識の限界を表わしている。
大審問官のくだりのところのバレエはイヴァンとアリョーシャの対比がとても良く分かった。
光と闇、そして地上と十字架。
苦悩と救済をうまく舞台装置を使って二人のやり取りの中に挟んでいく。
モダンバレエとしてみる限り、カラマーゾフの表現は時間との関係もあってこれが限界かとも思わされる。
しかし、バレエそのものを見る限り、立派なバレエである。
一人一人の動きが生きている。伸びやかな肢体そして表現しようという迫力。
一見の価値はある。
ただし、私の欲をいえば、最後に12人の子どもたちとアリョーシャのやり取り、あの優しい未来に対するそして死んでしまった少年の高潔さと勇気を賛美して未来に託すという場面を見たかったものである。
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