プレリジョカージュ劇場(フランス) ロメオとジュリエット
1999年4月10日(日)
配役:ジュリエット:ナジン・コメーンジュ、ロミオ:ステファン・ローラ、ティバルド:フィリップ・コンブ、メルクツィオ:エルベ・ショサール、乳母:ベランジェル・サセレ、ソレイ・コステル、神父:セバスチャン・デュラン
指揮:小沢征爾
演出:アンジュレン・プレリジョカージュ
音楽:プロコフィエフ
スタニスラフスキー&ネミーロヴィチ=ダンチェンコ劇場で
フランスの有名なアンジュレン・プレリジョカージュ演出のモダン・バレエ、ロミオとジュリエット。
ロミオの家は貧乏人、ジュリエットの家は富豪という設定。
バレエを見る前からシンセサイザーの電子音が雑音のように流れている。
幕は上げられたままで、舞台装置がアブナい何かを感じさせる。波止場の灯台の下のいかがわしいところであるのか。或いは駅の高架下の場末の雰囲気か。それを黒と灰色のモノトーンで彩ってある。
鉄柵。壊れた塀。なんとなくアバンギャルドな雰囲気満杯。
さて、バレエが始まると、黒い皮ジャンを着て鉄仮面をかぶったような、エラそうな兄ちゃんとそのボス的な存在の黒幕が登場して、とてもアグレッシブな踊りをのっけから踊る。
暴力に満ち満ちている。これは、ショバ代でもせしめてやろうかと、いう風ななんともやくざな雰囲気。
そこへホームレスのような汚い集団が、混じり入り、喧嘩がおこる。
と、分かるのにかなりの時間がかかった。モダン・バレエというのは、解釈が先にたつのか、それとも踊りの後、解釈を授けるのか、その辺りがさっぱり分からない。
場所は変って、ジュリエットの家らしい。黒と白の半々になったピエロのような衣装を着た2人のオンナが踊り出す。その踊りも冗談でやってるのか真面目なのか。衣装と共に見分けが付かない。何故、冗談って具合になるのかというと、衣装の胸元に白黒のオッパイとおっぱいの先っぽが付いているのだ。で、この衣装を考えた人はきっとジュリエットの乳母とおかあさんを想定したのだろうと、やっぱり想像する。
なんだか分からないうちにジュリエットの家に紛れ込んだロミオとジュリエットはお互いに性(・・・)格の一致を見て、その場で、エロティックな交歓を交わす。
おもわず、生唾がゴクリと、いうくらいに淫乱なのである。
舞台変わって、また、元の場面。喧嘩。挙げ句の果てジュリエット方警備の一人が、ホームレスに首を絞められ殺されてしまう。
それを根にもったジュリエットの兄の報復。とにかくこのバレエ全てが、エロティシズムとサディズムを見せまくっている。
そして結婚したいジュリエットが薬を神父さんに貰いに行くシーン。
神父は奇妙な突起のたくさん付いたグレーの衣装。神を冒涜するものとしての設定か、あるいは、神はこの世にいない、だから、このくらいの衣装にしておくほうがいいと思ったのか。たしかに神にその存在全てを奉る宗教家というのは、無神論者からすれば、奇天烈な存在で、ちょっとユーモラスなものか。或いは、フランスだから、神を全的に信じるのか、それともその全的なものに対する否定としての全き無なのか・・・。
茶化しているのか真面目なのか判断に苦しむような衣装なのである。
これが現代的潮流とでもいうものなのだろうか。それにしては、もう使い古されてしまった解釈である。
その神父から赤い布切れを貰って、それを纏えば、仮死状態に陥るという設定。
ジュリエットの死をたいそう悼むロミオは切腹自殺を遂げる。そして、赤い布切れがロミオの熱い抱擁によって解かれたジュリエットは、ロミオの死を眼前に見て、手首を掻っ切って死ぬ。
モダン・バレエというものは、言葉化された意識が先に来て、その後解釈を細かく行い、そして振り付けられていくものなのか、エロティシズムと暴力を渾然一体化させ、それを独特の規範的な形に当てはめ、新しさを演出しようとするものなのか。どちらなんだろう。或いはもっと根源的にこう踊りたいというのが先にあって、バレエという技術に支えられてこの舞台は作られるのだろうか。難しい。
新しいと言われるものはもう出尽くしているという感じは免れなかった。
題材が題材だけにシニカルに見てしまう。
ただ、バレエ・ダンサーの技術は驚くばかりに高い。全てカチっと決まるところでキマル。これがなければ、モダン・バレエでなくなるのだろう。
凄い。
音楽はシンセサイザーと小沢征爾指揮、ボストン交響楽団の「ロミオとジュリエット」を編集して使っていた。テープにも関わらず、小沢征爾の音楽は濃く、味があった。
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