診てくれた医師は、落ち着いたものごしで、妊娠週のこと、 体重の増え加減、第一子目の妊娠状況、出産のときのもようなどをたずねてくれた。復位を測り、子宮底も巻尺ではかった。ソ連にも立派なお医者様がちゃんといてくださる。安堵と信頼という心地よいおくるみにくるまれて、下履きをはき、洋服を整えているときだった。
「エイズ・ウィルス抗体の検査をしましょう。」
「はっ。」
日本で用意していた使い捨ての注射器を今日に限って持って来ていない。
 「次回にしてもらえませんか。」
 夫はすこし遠慮がちに言った。
「いつやっても同じことです。今日、調べておきましょう。」
 ソ連の注射はほんとうに消毒されているかどうかは疑わしい限りである。注射器をを信用できないと言い出すことがはばかられた。受付での騒動でもうこれ以上、ことが複雑になるのが億劫でもあった。 ここで検査を断るのは、親切で、良心的な医者にたいしてなんとなく義理がたたないなあという気持ちもある。
そんなことを考えて一瞬躊躇していると、看護婦の大きな手が伸びてきて、検査室に引っ張って行かれた。
 注射針を見て、ギョっとした。
「新しいものだからだいじょうぶ。」
と、彼女は言った。
 けれどもそれは、今までに見たことのないような、とんでもない代物である。私たちが知る注射のあの形をしていない。漫画にも出てくる典型的な例のピストンがない。それを針とよんでいいなら、まさしく針だけなのだ。直径1.5ミリ、長さ3〜4センチはあるただの金属の筒の先端を鋭く斜めに切っただけものである。
こんな時、きっとアメリカ人なら「ジーゼス・クライスト!!」とでも、叫ぶところであろうが、あいにくわたしは無宗教で鳴らした日本人。神も仏もいなかった。
 ゴム管できつく縛られた腕や手はみるみるうちに白色から紫に変色し、肘関節の静脈がぼっこりと膨れ上がってきた。大きな太い注射針はためらうことなく、あっというまにブスリと血管に突き刺された。
 針の別のはしっこからは、ほとばしるように赤い血が孤を描いて吹き出てきた。血液は3本の試験管にたっぷりと集められた。
こんなに大きな針をわたしの手に刺す前には、あらかじめ「いくわよ。」とか、「さあ」というこころの準備のことばがほしい。注射が終わった後もショックが身体を駆けめぐっていた。

 診察室に戻ると、医師が、
「パリクリニカは、妊婦検診をするだけなので、分娩室も手術室などの設備もないのです。出産はロッドドームと呼ばれる産院でします。地区指定の産院があるので、必ずその産院で産むように。」
と、言った。
 一難去ってまた一難。地区指定の産院が清潔で設備が整い、いい医師がいるわけがない。そんなところでは絶対お産できない。どこかまた、いい病院を探さなくては・・・・。
 この予測は、的中していた。モスクワ大学地区の病院は不潔で不親切で有名な産院の一つだった。
 パリクリニカと同じでロッドドームの質の格差も激しいことを聞き知った。
 外国人専用のパリクリニカにかかれて、これで安心と思ったのもつかの間、結局、また、ロッドドーム探しのスタートの火ぶたが切られたのだった。

 そんな時、夫の指導教授の一人に、夫はわたしの出産がせまっていること、まだ、産院が決まっていないことを言った。
 教授は気の毒そうに言われたそうだ。
「悪いことは言わない。この国で子どもを産むんじゃない。乳児死亡率が発展途上国なみに落ち込んでいるのだから・・・。医療は日本の40年前の状態だと思ってさしつかえない。奥さんを日本に帰しておあげなさい。」
「でも、ソ連の女性は皆、この国で産んでますよね。」
「いいや、出国して別の国へいけるチャンスをもつものは、決してソ連で出産しない。特に、先進国からきている女性は自分の国やフィンランドあるいは西ドイツに出て産んでいる。わたしの知る限りではね・・・。」
そうは言われても、私たちの経済状態は悲惨なものだった。ロシア政府からもらう紙切れ同然の320ルーブル(11月にはルーブルの公定価格が従来の10分の1になると新聞で発表されいた。)と少しの蓄えだけなのである。外国へ行って、出産する費用などどこをどう押しても出てこない。
 さらに、その教授は続けて言われた。
「ソ連の病院は、戦争時最前線の野戦病院を想定して運営されている。命を落とさなければ、それが治療としてみなされてしまうのだよ。もちろん面会などご法度だ。」
「でも、妻は全くロシア語を話せないのですが・・・。」
「それを考慮してもらえる国だとでも思うかね。絶対に、彼女を日本へ帰すか、西ドイツにでも送り込むべきだとだからこそ、わたしは言うのだ。」
 夫はその日、心なしかいつもに似ずくらい顔をして帰ってきた。
「どうしたの。何か変よ。」
「ちょっとね。いや、なんでもないんだよ。」
 夫の返事は、しぶりがちでどこか冴えなかった。
「先生に産院のこと、聞いてくれたんでしょうね。ねえ、どうおっしゃたの。」
「先生はね、独身だから産院のことはわからないんだって。こんど、日本大使館と堀江さんに紹介してもらった長島さんに聞いてみようよ。きっといい産院がみつかるよ。」
 長島さんは長年、モスクワに住んでいる日本人である。
「そう。」
 誰に産院のことをたずねても、いままでいい答えがあったことがない。きっとまた、先生にも情けないことを言われてきたに違いない。長島さんに期待したってだめに決まっている。あきらめと絶望が入り交じって、わたしは滅入ってしまった。
「だいじょうぶ。なんとかなるよ。平気。平気。」
 わたしが沈み込めばしずむほど、夫は明るく平気を連発する。あなたが産むんじゃないのよと、わたしはそれを聞くたびに夫を恨めしく思った。
「平気なんて安請け合いしないで、きっとなんとかしてよね。」
「わかってるって。」
「今すぐ何とかして、お願い。いつ産気づいてもおかしくないのよ。それから、あなたのその軽さ・・・。」
 病院のいい情報を仕入れられなくても、上のむすめとじゃれあって喜んでいる軽い夫。それは鼻につくなんてものではなかった。ここにいたって彼を信用して、こんなところまでのこのことついてきた自分が馬鹿に思えて仕方がない。
 二人目とはいえ、出産予定日が近づくにしたがって不安がいや増していた。その上、二度目の検診で、妊娠中毒症の症状が出ていることと、胎児は逆子であると言い渡されてしまった。
 パリクリニカの医師は、その時点で治療をするために産院への入院をすすめた。地区の産院までの救急車まで用意されたが、その悪いうわさに恐れをなして、医師と救急車を巻いて逃げ帰った。
 そんなこともあって、出産前のわたしの神経はトゲトゲしく尖っていた。
 しかし、最終的には、ひとりで赤ちゃんを産むわけにもいかず、どんなに悪条件でもしかたなく地区の産院で産むことへのあきらめと決心みたいなものもできつつあった。ときどき、おなかははるようになっていたし、からだに苦しいほどの重さと負担がかかっている。
 あかちゃんが早く生まれてからだを軽くしたいという気持ちがある反面、とりあえずいい産院が見つかるまではまだ出てくるのは早いのよとまだ見ぬ赤ん坊に言い聞かせていた。

 その間、夫はまず日本大使館へ相談に行った。
「もうじき赤ん坊が生まれるのですが、まだ産院が決まらないのです。大使館で病院やいいお医者様の情報が何かありましたら、教えていただきたいのです。」
「ああ、それはたいへんお困りでございましょう。」
事務官は答えた。
「そうなんです。その上妻は妊娠中毒症までおこしてしまって・・・。」
「それはますます・・・・。ご心配でございましょう。心中お察ししてあまりあります。」
「本当に困っているんです。」
実際、 夫は弱りきっていた。3歳のむすめと、妊娠中毒症で入院まで宣告されたわたしの面倒を一手に引き受けなければならない。
「上にまだ小さなお子さんまでいらっしゃるのですか。研究どころではありませんね。」
 事務官のめがねの奥の目が冷たく光っている。
「どうすればいいのか・・・・。どうかよろしくお願いいたします。」
 夫は拝むような気持ちでなんども何度も頭を下げた。
「ご安心ください。日本大使館は、最大限の協力を惜しみません。人命のかかっていることです。早急になんとかいたしましょう。」
「そうですか。ありがたい。」
 わらにもすがる思いとはこのことである。とにかく抜き差しならないほどの事態にきている。やはり国の力がものをいうのだ。日本国民であることがありがたい。外交官特権というものが、ソ連では病院に入院するときにもあるのかもしれない。事務官が席をはずし、誰かと協議に行っている間、期待はいやがうえにも高まっていた。
 おもむろに事務官はファイルを持って戻ってきた。
「では、大使館といたしましては奥様の帰国のための準備を即刻してさしあげましょう。なんなら、今すぐにでもJALに電話をして、航空券の予約をいたします。」
 日本に帰れるくらいだったら、だれも大使館まで相談になど行きはしない。まるで手のかかるじゃまものとはできるかぎり早く手を切りたいというのが見え見えのお役所特有のいんぎん無礼な応対である。
「JALに電話をするくらいのことだったら、僕がとっくにしていますよ。」
 夫は喉元まででかけたことばを、アホくさくなって飲みこんでしまった。
 かゆいところをわざわざ避けてかいてくれるような『至れり尽くせり』のサービスにはほとほと泣きたいくらいだったと、今になって夫は言う。
 だけど、その時は口がさけてもわたしにはそんな繰り言は言えなかった。大使館から帰ってきた時、一言、
「明日、長島さんに電話をしてみるよ。」
とだけ言って、娘のめんどうを見ながら夕食の準備にかかっていた。

 翌日、電話をしてみると、クレムリン病院から更迭され、今では市井の産院で働いている腕のいい医師を知っているという。
「そのお医者様を紹介してあげるから、一度、うちへ遊びにいらっしゃいよ。」
 そのことばに二人はほとんど有頂天になった。
「わたしも行く。絶対行く。」
 妊娠中毒症だなんて言ってはいられない。産院を紹介してもらえる。その上、たっぷりと日本語でおしゃべりができるのだ。
 久しぶりで陰気な大学寮から出られたわたしの気分はそう快だった。バスト地下鉄を乗りついで郊外へ向かった。白樺は落葉もとっくに過ぎ、箒のようだった。
 地下鉄の駅に着くと長島さんの夫のペーチャさんが待っていてくださった。
「凍っている道路をあるくのは、ひざに力を入れて、ひざをバネのようにしてあるくのです。そうすると滑らないから。」
 すっかりあたりはモスクワの冬で、道はあつく凍っていた。わたしの腕をとって歩いてくださったペーチャさんの手はあたたかかった。

 長島さんとペーチャさんご夫婦に紹介されたブルコービッチ先生は、暖かい薄いグレーのひとみを持つ40半ばをこえた医師だった。ベテランの落ちつきが、診察の時の手つきや身振りで伝わってくる。
 ブルコービッチ先生は、モスクワ第5産院の産科部長という要職にあった。
 その頃、ロシア語の会話はすべて夫が通訳をしてくれていた。検診では大きな異常はなく、逆子も治っているということだった。
 わたしは夫に、わたしの出産の立ち会いを特例として必ず許可してもらえるように言ってと、何度もせがんだ。
「お願い、言って。もう一度。出産の立ち会いができるかどうか確認して。」
 モスクワへ来てから、許可されていたことが反古になるという経験を何回か重ねて、わたしはずいぶん慎重になった。夫の立ち会いを認めるむねのブルコービッチ先生の一筆ができれば欲しいくらいである。
 ことばのできないモスクワで一人で出産することが心細くてならなかった。
「わかった。先生はいいって言っていたけど、もう一度言ってみる。」
 ブルコービッチ先生はそれを聞いて、うなずいたように見えた。先生と夫はかたい握手をまじわしていた。

 12月9日、早朝、少量の出血をみた。
「ブルコービッチ先生に電話をして。出血してるの。」
 夫はねぼけ眼で、いつもかばんのポケットにある小さな住所録をまさぐった。なかなかそれが見つからないらしい。とうとうベッドの中にかばんを引き寄せ、頭を突っ込んでゴソゴソさがしている。
「どうしたの。」
なかなかベッドから出てこないので、イライラして聞いてみると、
「ないんだ。それが、住所録が・・・。」
 予定日は25日、とつぜんの出血に夫はうろたえている。落ち着いているところをみせようとして、よけい焦ってしまっているのがわかる。
「電話のあと、セルゲイをよんできてね。」
 セルゲイはわたしたちがモスクワ大学に来て以来、スイカを介してのともだちである。彼は毎日珍しい食べ物をもって来ては喜ばせてくれた。
 夫は住所録は見つかったものの、着がえをするにもなんだかいつもより無駄な動きが多すぎる。
 ここは頼りになるのはセルゲイとニューヨークから家族で来ているキーラちゃんというむすめの10さいになる友だちである。キーラちゃんやキーラちゃんのおかあさんにも、お産のときには娘を遊ばせてくださるようにと、くれぐれもお願いしていた。
「キーラちゃんちにも知らせてね。」
「ずいぶん痛いの。どれくらい痛いの。間隔はどうなの。」
と、夫は陣痛のことばかり気にして、なかなか次の行動に移らない。
 モスクワ市第5産院まではここから、タクシーでとばしても50分はかかる。
「そんなことより、早くして。まだ大丈夫だから。」
 その時、わたしは自分では冷静なつもりだった。しなければならないことを次から次へと命令していた。
「お豆の煮たのと、しお昆布、それから焼き豚を作っておいたのが、冷蔵庫に入っているわ。着がえはいつものロッカーの中。」
 夫はわたしのことばに部屋の中を右往左往するばかりである。見ているだけでもどかしい。
 やっと全ての用意は終わった。
「赤ちゃんのものとわたしの着がえ一式がむこうの部屋の袋の中に入っているからもって来て。」
 わたしの声もうわずっていたのかもしれない。夫はあわててころびそうになりながら、大きな2つの包みを戸口のところへ運んだ。
 セルゲイが来てくれて、まだ眠っている娘のことを重々おねがいした。
「ママ、行ってくるからね。おりこうにお留守番しててね。今度かえって来たら、おねえちゃんになっているのよ。」
最後に娘の頭をなでて、出かけた。

 タクシーをひろうまで、モスクワ大学中央裏口玄関の階段のところで、わたしは夫を待った。
 シンシンと冷えた朝である。 空はまだ濃紺をしていてあたりは暗い、階段の白熱灯の照明がかえって昏さをひきこんでいる。
 タクシーに乗って、真横で見た夫の横顔に神経質な陰翳が宿っている。
 夫の手がわたしの手の上に伸びてきた。じっとりと湿り気を帯びた冷たい手だった。
「痛みはどう。」
「なにがなんだかわからないわ。」
「どういうことなの。」
「あせっていろんな準備をしているうちに痛みがどこかへとんでっちゃった。」
 夫の手からとたんに力が抜けた。一回目の出産で経験済みなのに、いたみ始めたらすぐにでも赤ちゃんがうまれてしまうとでも思っていたらしい。
「じゃあ、まだ大丈夫だよね。」
「うん、わたしのは微弱陣痛だから、まだ長くかかるかもね。で、もしかしたら陣痛促進剤がいるかもしれない。そのこと、ブルコービッチ先生に言ってね。もう、出血してるんだからね。」
「わかった、必ず言うよ。」
「わたしにずっとついててね。ぜったいにね。」
 上の娘が一人で留守番をしているかと思うとかわいそうだったが、それ以上にわたしはこわかった。夫がただ一人のたよりであった。

 タクシーの窓から無機的なモスクワ市第5病院の大きな建物が見えてきていた。
 
 

(つづく)