アラン メッセ−ジ(後半)

 1.対等と言うこと
 2.禅について
 3.戒律或いは義務について
 4.瞑想について
 5.正義について
 6.共存そして信頼
 7.神について
 8.反応について
 9.欲について
10.感謝と尊敬について
11.優劣意識について
12.進化について
13.道の選択について
14.性について
15.病について
16.矛盾から集中へ
17.平和への祈り
18.想念と現象について
19.無我の体験について
20.エゴについて
21.エネルギ−体の変容
 

 
対等ということ

対等という言葉について話してみたいと思う。対等は我々の基本的ル−ルであり,これは決して崩されるべきではない。これが崩されたときに現れる結果は,徹底依存,又どの様な形であれ不当支配である。さて対等が可能な状態を明確にしておかなければならないが,これは両者のレベルが一致し,従って獲得出来る能力の範囲が一致した場合と言う事になるだろう。我々が貴方達の前に姿を現し,交流出来ない理由は単にこの対等の状態が得られないことにあるのだ。つまり貴方達の多くは依然として理解以前の状態にあり,その結果真の平和の現れを得ていない。これは明日にでも文明の破壊が行われるかも知れない可能性を意味するのであり,もし貴方達の手に我々のテクノロジ−の一部が渡ってしまったとしたら我々は貴方達に対し,支配,又は強制文明剥奪,ある場合には滅亡させることを余儀なくさせるだろう。と言うのは,我々のテクノロジ−を用いた場合,貴方達の破壊は地球に留まらず,宇宙全体に及ぶことになるからである。地球人全体が理解のレベルに達することで,初めて対等が可能な状態を得ることが出来るのである。さて視点を変え,今度は現在の我々と貴方達との関わりについて話してみよう。貴方達は既にその行動範囲を地球以外の天体にまで広げている。これは正に精神レベルにおいても「地球の人」から「宇宙の人」に脱皮する時期が来ている事を意味しているのだが,しかしこれは生命の進化の過程において最も危険な時期であるとも言えるのである。我々は「宇宙の人」と言う立場から,この様な時期を迎えた人々を観察する必要性を認めており,又彼等が「宇宙の人」に脱皮するための絶対条件である「理解」を促すことを目的とした奉仕を行っているのである。だがこの奉仕を行うについて、我々はここにも対等と言うル−ルを基本におくべきであると考える。これは貴方達の獲得可能な範囲を超えたテクノロジ−,又は知識の提示を最低限に抑えることを意味することになるのだが,貴方達はこの対等を余り喜ばないようである。これはそれまでの貴方達の習慣が、そうさせるのであろうが,その様なものの提示は,ある者達が何らかの目的を持って教えを、レベルについて貴方達に受け入れさせる時に必要なものなのである。だが我々が行っているものは,あくまで「促し」であり,貴方達が主体である以上,そこにある意味での武器は一切必要無いのである。従って我々は,今の貴方達にとって全く不必要な又雑音にしかならない事柄・・例えば「我々がどこの星から来た」等や宇宙船の写真等の提示を行うことは一切無いと思って頂きたい。

 
禅について

禅は我々の提唱する旅と基本的には同じものであると言える。ただ我々が自然な流れと認識している段階が一つ置き換えられていることにより,エゴ体のコントロ−ルにつながるレッスンから始められるのである。貴方がこの禅の旅を始めると仮定し,(修業寺)と呼ばれている場を通したそれが,どの様なプロセスを辿っていくものであるかを説明しよう。貴方がこの(場)において,まず行われなければならない事は,自身のエゴ体との闘いである・・と言うのは,エゴ体の本質に逆らった多くのレッスンで一日が埋め尽くされているからである。規則,作法,労働,座禅,読経,揚げ句の果て理不尽な責めまでレッスンの一つになりその結果貴方は「空」を知り,「我」を滅するどころではなく,自身のエゴ体と向かいあい闘うことに終始するのだ。そして「もうどうでもよい」という状態になっていくのであるが、実は貴方の師が一駅先で待っているのは,この状態にある貴方なのである。そしてその駅に到着してからの貴方は,レッスンを行うについて直接的な動機を「課せられている」から,(そこにある変質させるのだ)。つまりこのレベルでの自己コントロ−ルを達成したことを意味するのである。それからの貴方は,座禅と学習をメインレッスンにしていくのであるが、ここにおいてこの旅,そして又人生そのものにおける最も安らぎの場を禅定に見いだすのである。だが禅定を外れた貴方は,自らの中に尚も「我」が存在し続けていることを強く認識し,理解を得るまでの間,失望と落胆を繰り返していく。しかしこの状態の成熟を迎えることで,それまで苦笑しつつ「愚」と呼んでいたものが,本来自身に属するものではなく,真の感謝と喜びをもって受け入れるべきものであった事を理解するのである。これが我々の認識している禅のプロセスである。さて我々は,この禅に対して否定はしないと言っておこう、だが先にも話したように自然な流れの段階が一つ置き換えられていることから,そこに無理が生ずるのである。それは苦行という形になって表れ,その為(場)を設けなければならず、一般的なものになりにくいと言う欠点を持つことになるのだ。この意味において,既に危険状況にある現在の貴方達には不向きであり,今は各人が個々の家庭にあって到達出来るレッスンプログラムが必要になっていると言えるのである。禅は「我を滅す」と言う能動姿勢に問題があるのであり,その一歩手前の段階にある無常感の一点にあくまで留まり続け,これを徹底認識することで「我」を無意味なものにしていくことが実際には自然の流れに添うものなのである。そしてそれは最も早い時期に「理解」を現すことになり,貴方の荷物の片付けについても,それ以後の方がずっとやり易いものになるだろう。

追伸:グルジェフ或いはラジニ−シと言った人々が行っていたものは,基本的には禅であったことを考察してください。

 
戒律或いは義務について

戒律或いは義務について,我々の世界には戒律、或いは義務という言葉は存在しない。我々はただ無限の中に自らを置くことで得られる理解に添って道を選択していくだけだ。それはごく自然なことであり,そこには「なさねばならないこと,そうあらねばならないこと」など一つも無い。植物は,戒律或いは義務という言葉など知らずに種子を作る。小鳥も又,その様な言葉を知らずに,雛に餌を運ぶそれは明るく照らし出された道であり,その道を行くのは本当にごく自然なことであるのだ。戒律或いは義務とは,方向指示の様なものであり,貴方は道を間違えないようにそれに従う。けれども貴方は元々盲ではないし,その道が真に明るく照らし出されさえすれば踏み外すことは無く,ごく当たり前に歩を進めることが出来るのだ。戒律或いは義務は,暗闇の中にいる貴方をどこかに導こうという意図から与えられたもの,しかし実際には,それは貴方自身の中において,どの様な解決にもなりえない。貴方に必要なのは導きではなく,理解という光であるのだ。

 
瞑想について

私のメッセ−ジを読み,又それを受け入れる人々の殆どが瞑想(座禅を含む)を経験している筈である。と言うのは,エゴ体はある成熟を迎えると自身の奥に潜む道の部分に注目することを始め,その結果,瞑想に出会うことは必然となるからである。多分貴方は瞑想について書かれた本を数多く読み,瞑想グル−プでの体験を積み,覚者と呼ばれる人々を訪ねて廻る様なこともしたに違いない。これは実に迷路を行く様なものであり,そこには多くの行き止まりや回り道が存在する筈なのであるが,しかしその様なものを過ぎると,貴方は一本の道を見つける事になるのである。その道とは,貴方のエゴ体が望んだ結果作られていく様なものではなく,初めから「用意された道」である。そしてそれは「絶対性」に向かう道以外の何ものでもないのだが,この道においての瞑想は,それまでの貴方が体験した願望,或いはプラス志向を取り入れた様なものにはなり得ないのである。「絶対性」はエゴ体の範躊にはなく,その状態についての知覚不可能であるからだ。貴方は例えば「無限・永遠」と言った鍵を手にし,まずは自身のエゴ体の正体を認識することから始めなければならないだろう。そしてこの瞑想はやがて貴方を限りなく知覚不可能なものに近付けていくのである。これについて貴方は,明かな矛盾と受け取れるかも知れない。だが全ての現象はある意味において矛盾以外の何ものでもなく,何れは瞑想が最も価値ある矛盾であることに気付くのである。

 
正義について

正義とは,全体的調和のために行われる行為である。貴方や一般が正義と判断した事でも,もしこの基本的定義に当て嵌まらないのであるのなら,それは「過ち」となり,貴方達は、いずれその過ちの付けを払わなければならないだろう。「正義」を知るには,まず全体のあり様を,又対象のあり様を熟知するべきなのだ。そしてその後に得られる正義こそが,調和への最短距離にあり,「必要」とされるただ一つの行為なのである。だがある場合には,そこから得られる「正義」は「冷たさ」「むごさ」と言った印象を貴方に与えるものになるかも知れない。が,それはあくまでも同情レベルでの印象であって,真の愛には関わらないものなのである。一つのたわいのない例を挙げてみよう。貴方は卵の殻を既に破り,外界を自由に歩き廻れる雛鳥であるとする。そしてふと見ると,まだ殻を破って出てくる様子も無い仲間を見つけるのだ。貴方は考える。殻の外はこんなに自由で気持ちが良いのに,この仲間は何をのんびりしているのだろう。それにこんな殻の中に入っていて,もし外敵に狙われたら逃げることも出来ないではないか,貴方はその仲間を心配する余り,私は絶対に正しい,これをすることは仲間を守ることであり,彼を幸せにすることでもあるのだと言う判断を基にある決断をするのである。それは自分のくちばしで,彼の卵の殻をつついて割ってしまうことであるのだが,その結果,貴方は大変な罪を犯したことを知るのである。つまり卵の中の彼は,まだ外界に出られる状態ではなかったのである。貴方はどの様に心配であろうとも,決して彼を殻の外に出そう等と考えてはいけなかったのだ。この場での貴方の正義は,待つ事以外の何ものでもなかったのである。貴方の「過ち」が全体のあり様と対象のあり様に不調和を生じさせた場合,対象に対して,どの様な責任も取り得ないという事実を知るべきです。そして全体のあり様に対する知識を,殆ど持たない貴方達が正義を得るには,まずは理解を得,そこから知識を得ていくことから始めなくてはならないのである。

Kにメッセ−ジ:進化したい,より優れた者になりたいという願望に囚われているのが貴方だ。この願望がある限り「貴方」は存在し続ける。その願望から自由になり「貴方」を消していくこと。これが行われない限り,貴方の望むものは手に入らないと思って下さい。ラジニ−シが良い例を貴方達に用いているが,宇宙を手に入れようとする時,貴方達はそれを掴もうと手を握り閉める。だがそれは手の中から宇宙を閉め出している事に他ならず,もし本当に手に入れたいと望むなら,手を開いた状態にしておくべきなのである。が,この開いた状態を作るには,創造への完全なる理解と信頼が必要条件であり,そのカラクリを知っている我々としても,そこに辿り着くには多くの時間が必要なのです。エゴ体が発動機であるのなら,その燃料を絶やしてそれを無意味な機械にしていくしか方法がありません。そして燃料を絶やすと言う事は,現象に対する理解を一つ一つ得ていく事に他ならないと言う事です

 
共存,そして信頼

共にある・・これは理解を得た者にとってこの上ない喜びとなる。そこには互いについての何の知識もいらない。貴方はレベルを超えて,慈しみを,絶対的尊厳を相手に感じ,又ある感謝に包まれるのである。この基本的共存のあり様が,真の平和を創り出すのであるが,貴方はここにおいて,エゴ体の遥かな過去からのテ−マであった「不調和」「孤独」「不安」といったものから解放されるのである。これは又互いの関係を非常にシンプルなものにし,余計な疑い,思惑と言ったものが,殆ど無くなっていくことにも繋がり,「信頼」は「絶対的信頼」に限りなく近付いていく。貴方達はこの様な共存のあり様についても,多分絵空事の様にしか感ずることが出来ないだろう。だがもし一度でも純粋エネルギ−に近い状態を経験するのなら,これについて容易に想像出来る筈である。さて,私はここで「信頼」と言う言葉を使ったのだが,これについて少しばかり説明を加えるべきであろう。地球上にあるそれと,我々の世界におけるそれとは明らかな違いがあるのだ。貴方達の「信頼」は字が示す通り,対象のあり様について,プラスの要因を見つけることから,自身の色々な意味においての保証を,少しばかり彼から得たいというエゴから生まれており,その根底に「利害」が潜むのである。(貴方がもし誰かを信頼しているのなら,その信頼をよく観察してみることです)そして先にも話したように,エゴ体が掲げざるを得ないテ−マは「孤独」「不安」であり,貴方達は常に「信頼」出来る「対象」を得ることを必要と感じ,又それに対し努力するのであるが,これは或る特殊な場合を除いて,殆ど蜃気楼を追いかける様なものなのである。さて我々の世界においての「信頼」だが,貴方達の世界にこれを真に現す言葉を見つけ出すことは殆ど不可能だ。これはエゴ体から生まれるものではなく,共に大きな流れの中にあるという「実感」から生まれるもので,「利害」の様なものとは関わらないのである。従って貴方はどの様な思惑を持つ必要がなく,余計なエネルギ−を消費させる必要は無くなるのである。これは多くの仕事の能率をあげ,又精神的ストレスから解放されることを意味するのであるが,ここにおいて貴方は健康的社会に不可欠なものが何であるか理解した筈だ。

 
神について

私がここで話そうと思っているのは,貴方達の世界にある「神」或いは,その様な存在のことである。実際に彼等を「神」と呼ぶのは適当でないのだが,地球においてその様な高いレベルにある意識体が,必要と認めている仕事(主にバランスに関わる仕事)を行っていることは確かである・・が,彼等に対する貴方達の姿勢は間違っており,貴方達は彼等が養父母であるかのように依存し,多くを求めようとする。彼等のレベルにおいては,既にエネルギ−の波をある程度操作する事が可能となっており,それが或る場合に「奇跡」と言う形で現れることから彼等の名前が大きなグル−プの中心に置かれることは珍しくない。だが先にも話したように,彼等は「仕事」をしているのであり,それはあくまでも「絶対」に向かうためのプロセスから現れる行為なのである。地球レベルの意識体は,その殆どが「波形現象」のみに囚われており,そのレベルからでしか彼等を見ることが出来ず,その結果「依存」のみが貴方達に現れるという事になるのである。彼等はその現象に対処する一つの方法として、貴方達に恐れの心と報酬を要求するのであるが,実際には彼等は貴方達からの報酬になど何の魅力も感じてない筈なのである。供物,犠牲,教会,社,エゴレベルの敬いなど,それらの全てにおいて彼等は既に卒業しており,彼等が真に求めるものは,その様な次元のものではあり得ないのだ。彼等が報酬を,又恐れの心を貴方達に要求するのは,単に貴方達を「依存の権化」にし,「停滞」させることを避けるためである。さて,波形世界(現象世界)に住む貴方達は,彼等に対する敬い又恐れの心から,彼等に気に入られるような存在になろうと努力する。これはそのレベル上ごく自然のことであり,又大きな流れに添うものでもあるのだが,一度意識が「波形」から離れ,その現しているエネルギ−に向き始めると,全く別の存在であった彼等が,実際には貴方の隣にいた事に気付くようになるのである。そして彼等は単に,貴方の道の先を行く人々であったことを知るのだ。貴方はこの時点から,彼等に対する姿勢を正しいものにすることが出来るのであり,自己の未来像である彼等に対する真の尊敬の状態を得るのである。(尊敬とは能動ではなく,状態である)
さてここで貴方達の世界の「神」の中には,意識が依然として理解以前のレベルにあるものが少なくない事を話しておかなければならない。彼等は前にメッセ−ジした「極限エゴの世界」の住人であり,ある範囲の中で「波」を操作する事を可能にしているのである。その性質上,彼等は基本的に「支配」を好み,奇跡のデモンストレ−ションを行いながら様々な体系を作り出していくのであるが,あるものはあからさまな「力」による「支配」を行い,ある者は理想的な「教義」と「力」で巧みな支配を行うのである。そしてその体系の中に組み込まれたものは,「上下」の観念の中で「熱中」の状態に陥り,支配されると言う意識もなく,彼等に依存し、又エネルギ−を吸収されていく。「エゴ」「神」の掲げるテ−マは,これもその性質上,常に「ナンバ−ワン」であり,貴方達のエネルギ−を吸収しながら野望を拡大していくのであるが,彼等の意識を捉えているのは,あくまで「波形世界」であって,それが受動的な動である以上,実際には虚しい作業に熱中していることに他ならないのである。貴方が,もし「神」に囚われているのであるなら,少し頭を冷やしてその「神」を吟味してみることだ。「神」を吟味することなど不可能であるという反論があるかも知れないが,それは可能だ。この場合「神」を見る必要はなく,貴方の中にある彼への「依存度」を調べればようのである。「絶対」に向かう意識体は,貴方にほんの僅かな「依存」を許すだけであり,もし貴方の「神」がどこかへ行ってしまったら,生きて行けないほどの不安と失望を覚えるのであれば,これは明らかに注意信号と受け止めなければならないだろう。高い存在を意識し幸福感を得ることは良いことである。だが先にも言ったように「依存」は「停滞」を意味し,これは絶対避けなければならない。貴方達の世界にお守りと呼ばれるものがあるが,それは高い存在を常に心に呼び戻すための一つの印として使われるべきで,貴方の「安全や利益」をそれに依存することはナンセンス以外の何ものでもなく,又貴方の「神」に対して失礼なことである。何故なら,彼等は何時でも貴方を見守っているのであり,必要に応じて貴方を援助しているのだ。それは貴方の意に添うものであるかも知れないし,又添わないものであるかも知れない。だが彼等はそれが貴方に必要であることを,貴方を超えたレベルにおいて「知っている」のである。その上貴方が彼等に望むのであれば,それは不足の苦情を現すようなものなのである。先にも話したように,貴方達の「神」は先を行く人々である。貴方も長い時間をかけ,何れは彼等の状態に到達し,又その状態をも通り過ぎていくのである。

 
反応について

もしも貴方達地球の人に,「人とは何だろう」と言う問いかけをしたら、即座に「人とは思考するもの、意志し行動するもの、創作 するもの」と言う様な回答が返ってくるのではないかと思われる。だが残念ながらこれらの答に対して、私は首肯くどころか全面否定せざるを得ないのである。何故なら貴方達の回答は主体が必要であり、人は主体にはなり得ない存在であるからだ。貴方はただ習慣と いう居眠り状態の中でのみ、人、つまり「貴方」を捉えてきたがために「貴方」の本当の あり様を知ることがないのである。例えば貴方が「貴方」に関与したことなど一度も無か ったと気付いたことは無いし、貴方を主催するものは実際には、貴方ではなく、貴方を超 えた存在であると言う洞察に至ったことも無い。私はここで非常に簡単な3つの質問を貴方に送ることで、私と貴方の思考形態に橋をかけようと思う。もしこの質問とその回答に 深く関わり、考察するのであれば、貴方の中に確実に大きな変化が生じる筈であるのだが 、生じないのであれば貴方達がよく使う言葉であるところの「元のもくあみ」である。

その1・・貴方の肉体の構成、仕組、性質(物質的な)を決定し、又これを用意した ものは貴方であるか否か。

その2・・貴方の幾つかの基本的な性質(それは感覚という形で肉体に付随している ものである)を決定したものは貴方か否か。

その3・・貴方を取り巻く環境の構成、又その性質を決定し用意したものは貴方か否 か。

答は全て「否」である筈であり、貴方は「貴方についての基本的且つ重要などの点に も関与していない事実」を理解したと思う。だがこの場において、貴方達の何人かは直に 自分は肉体ではないという主張と共に、「心」と言うものを持ち出すことであろうし、又 それについての説明は必要であろう・・が、その前に考えてみなさい。貴方の心は確かに 長い時間の末、素晴らしい成長を遂げてはいる。だが肉体無しに、又環境無しに、つまり は宇宙の存在無しに、ただそれ自体が成長しうるものであろうか。心は肉体の性質と環境 の性質の摩擦が育てあげてきたものであると知るべきである。さて心についてだが、それ は「貴方」が何であるかと言う根本的な知識が無い限り、それについての説明が不可能で あることから、先ずは「貴方」を明らかにすることから始めることにしよう。結論から言 うと「貴方」とは、成長過程にある「意識体」であると言えよう。これは本来「心」「肉 体」と言ったエネルギ−体とは次元を異にするものであるが、その未熟さゆえに、それ自 身においての自己確認は不可能であり、肉体(物質)と結び付くことで、初めてそれを可 能にするのである・・がその際、本来次元の異なるその肉体(物質)こそが自分であると いう強い錯覚に陥ってしまい、その肉体(物体)の持つ性質の全てが、自らに備わったも のとしてしまうのである。(自己同化)そしてこの結び付きが生じた時に、肉体(物体) は生命体となるのであるが、意識体はここにおいて肉体から生じた「私」と言う錯覚の中 で成長を始め、ここに「私」を中心とした「心」というエゴ体験が生じるのである。だが 先にも触れたように、この「心」は内的外的性質の摩擦により成長していくのであり、こ の過程において、意識体はあくまでお客様でいるしか無いことになるのである。何故なら 内的性質も外的性質も他者が決定しているものであり、その摩擦によって育つ「心」は、 他者が計画した無数の「反応」という化学変化の産物であるとも言えるからである。これはつまり、貴方自身が考え、行動し、創作していると思い込んでいることは全て「反応」 から現れたものであり、実際には考えさせられ行動させられ、創作させられていると言う ことにもなる訳である。私は初めに「人は主体になり得ない」と話したが、ここに至り、 貴方もその意味を理解したことと思う。

追伸:能動はあり得ない。能動と思われるものは反応である。それに気付かない人々 は反応することに熱中する。「私が」「私が」「私が」・・である。だがそれに気付いた人々、自らの中に反応が起こるのを観察する。それは何れにしても必要な波の現れであ り、観察の中に成就させる。貴方は本来の貴方でいる方法を少しづつ覚えていき、又少し づつ意識体の未熟さから解放されていくのである

 
欲について

貴方達は常に何かを望んでいる。その望みの 内容もレベルも様々であるが、常に何かによって満たされることを欲している。だがかっ て貴方はその望みの対象を手に入れたことにより完璧に満たされ、又その状態を持ち続け た行動とがあっただろうか。答は「ノ−」である筈である。望むものを手に入れたその瞬 間の喜びはある。だがそれ程までに夢に望んでいたものであるのに、それは望んでいた時 の状態に値するほど、貴方を満たしはしない。それどころか、それは次第に色あせ、時と 共にどうでもよいものになっていってしまう。貴方はこの過程を何度も体験し、それにつ いての知識を十分得ている筈であるのに、「今度は違う」と言う抗いようも無い罠にかか り、又それを繰り返していく。そこで賢人達は貴方達に「無欲」と言う言葉を昔から繰り 返し説くのであるが、もしも貴方が真実無欲の人を目指すのであれば、それは生きたまま 死人を目指すことになるだろう。それは初めから無理な相談であり、彼等は次の様に言うべきであるのだ。「欲を持つ事は良い。だが分別と慎みを忘れないように」と。だが何故 こうも望みが次々と貴方を占領する事を繰り返すのだろうか。この疑問に対する答を得て 、初めてそれから解放される道が得られることになるのだが、これについて我々が得てい る回答を少しばかり話してみようと思う。そのヒントは既に反応についてのメッセ−ジの中で話しているのだが、貴方は元々成長過程にある「意識体」であるのだ・・が、その未熟さ故に自己確認が出来ず、肉体と結び付き、それと自己同化することでこれを可能にす るのであるが、この時に得られる自己確認の内容は非常にナンセンスな錯覚しなってしま うのである。何故なら、確認出来ない「意識体」本来の内容を棚上げして、次元の違う存 在である肉体の持つ性質を自らの内容としてしまうと言う事になるからである。貴方とい う錯覚「私」は、初め生物体となった肉体の要求を確認することから、居心地の悪さを覚 えていく。「これでは駄目だ、何とかしなくては」の始まりだ。ここにおいて、この始ま りから現在の貴方にいたるまでの過程を、敢えて説明することはしないが、貴方の意識体 の居心地の悪さは、その時点から今に至るまでずっと続いてきたのである。「これでは駄目だ、何とかしなくては」。だが本来次元の違うエネルギ−界にあるどの様なものを、又 どの様な状況を持ってこようが、意識体の居心地の悪さを解消することは出来ない。意識 体は意識体本来の内容において自己確認すべきであるのだ。その様な状態を得て始めて真 に満たされるのである。他者が用意されたこの大いなる目覚めのプログラムとも言える過 程を経てきた貴方達は、この状態を得る方法を既に瞑想に見つけている。瞑想とは、真の 自己確認への道なのである。

 
感謝と尊敬について

貴方達に贈られたある教科書の中に 、「万物に対し、感謝と尊敬の念を持ちなさい」と言う教えを読んだことがある。確かに この教えの内容は素晴らしいし、その様な状態は本来最も自然なものであり、又幸福なも のでもある。だがそもそも利害関係の中でしか感謝の念を覚えたことの無い人々が、又プ ラス、マイナスの計算の後にしか尊敬の念を持ったことのない人々が、何故小石に、棒切 れに、宙を舞うほこりの一つに感謝や尊敬の念を持つことが出来ようか。先の教えは現在 の貴方達にとり、空を飛ぶよりも難しい事である筈である。又先の教えは、語尾を「なさ い」と言う命令調で結んでいる。これは貴方達を強制的に偽善者に仕立てようと言う印象 しか得られず、私としては、飛んでもいないのに、「私は飛んでいる」と必死に思い込も うとしている貴方達の状態が思い浮かばれ、ただ気の毒になってしまうのである。先の教 えの内容は素晴らしい。だが何かが間違っているのである。まず感謝も尊敬も、貴方の意 志で「持つもの」ではない。それらは状態であり、ある目覚めから得られるものなのであ る。初めの内はその状態を心に呼び戻すという作業が必要であるが、しかしその感謝も尊 敬も完璧なものであり、貴方はほこり一つも自らを欺くこと無く、感謝と尊敬の対象にす る事が出来るのである。さて、ある目覚めであるが、これは言葉で説明したところで貴方 自身の目覚めとはならない。これを得るには真の貴方の立場「意識体」から、宇宙「エネ ルギ−世界」の持つ唯一つの言葉を聞き、それを又真の貴方の立場で受け入れること以外 に方法はないのである。もしも貴方がそれを得る事が出来たなら、真実の感謝から現れる 涙を味わう事が出来るだろう。

 
優劣意識について

有限は数であり、無限は数ではない。 従って無限分の有限という数式は成り立たず、もし貴方が無限に意識を置き、これを絶対 存在とするならば、有限なもの・・つまり現象は「夢」或いは「錯覚」の様な存在にしか なり得ない。だが現在の貴方の意識体は、肉体と言う現象と自己同化している状態にあり 、その意識は有限に置かれていることから、その有限を存在としてしまっているのである 。ところが有限とは数であり、ここにはプラスがマイナスが存在する。陰陽世界とは実は 数の世界のことであり、貴方という「錯覚」私は当然あらゆる物事に数を、又プラスマイ ナスを見ることになるのである。そして又貴方自身の感覚、それ自体も肉体に制限される 有限感覚であることから、それは数の上に成り立ち、結果的にプラス感覚、マイナス感覚 と言ったものが現れ、これが実は感情と呼ばれるものの核となるのである。さて優劣意識 であるが、これはこの様な数の世界において当然現れてくる現象であると言える。この世 界における努力とは、実際には「夢」或いは「錯覚」である現象の持つ数値から得られる プラス感覚を求めることから始まるのであるが、この努力によって到達出来るどの地点を とってみても先には更にプラスが、又後にはマイナスが存在し続けることになる。貴方は この時点で、方向とは肉体の限界を超えプラス方向に、又マイナス方向に無限に伸びてい くものである事を理解し、その到達点に対し、数値評価することをギブアップすべきであ るのだか、実際にはこれを周りの人間と比較することでその確認を得ようとするのである そしてその結果、貴方は優越感と劣等感の狭間で何とかバランスをとり、更に努力を続け ていくと言う事になるのだ。だがここで私は貴方に聞いてみたいのだが無限を絶対存在と した時、「有限」に「夢」に「錯覚」に値などと言うものが存在するだろうか。それはど の様なレベルにあっても、「夢は夢」、「錯覚」は錯覚であり、これをもし数値に現すの であるのなら、その全てにおいて「絶対ゼロ」としか言いようがないのである。この様な ことから無限を「絶対存在」とし、そこから理解を得ている世界の人々にあっては、既に 「優劣意識」と言う言葉は死語となっている。だがあくまで「数」を「存在」とする人々 の世界では、この言葉は生き続け、又ある意味において活動し続けるのである。

追伸:意識体は先ず数の妙技、即ち「陰陽の妙技」に捕らわれることで成長する。だ が理解を得た後の意識体は、その数の世界を、又陰陽の世界を、用意された存在に感謝す ることで成長するのである。

 
進化について

進化について話してみよう。貴方達地球人 の殆どは、体験的知識から自らが進化してきた存在であり、又これからも進化を続けてい くだろう事を知っている。だが自らの何が進化しているのかを明確に捉えていない事から 多くの進化論が論ぜられる事になるのであるが、ここでも結論から先に言ってしまうと、 「進化」とは意識体それ自体においての自己確認能力を「有限世界」に囚われることで徐に得ていく過程なのである。この場合、肉体(エネルギ−体)と錯覚私から生まれる「 心」或いは「エゴ体」(エネルギ−体)の進化と受け取られるものは、意識体の進化のた めに用意されたプログラム過程であり、これは進化ではない。この事については肉体は、 意識体の進化のために用意された衣服であり、これは次々に着替えられていくものであり 、「心」は用意された状況から現れる反応を繰り返し、より複雑化していくことで、意識体を「自己確認」へ連れていく乗り物であると捉えれば、容易に理解される筈である。さ て意識体はエネルギ−とは次元を異にするものであり、これのあり様については「科学」 と言うエネルギ−のバリエ−ションのあり様を明らかにしていく方法を用いたところで明 らかになるものではない。これについて明らかにするには、「自己確認」に非常に近い状態にある存在から、この知識を得る以外に方法は無いのである。我々としても未だこの状態には遠く、又「科学」を用いることは不可能であることから、彼等の知識に頼る以外に ないのであるが、貴方達としては彼等の存在を確かめる術が無い事から、これからお話す る事については、保留にするか、フィクションとして受け取るかのどちらかにして頂きた いと思う。これはつまり、意識体が進化上のあるレベルを得、それまでの肉体を脱ぎ捨て 、新しいものに着替える際に行われる同レベルの意識体同志の合一のことである。意識体 には元々「個」はなく、肉体と自己同化することで「個」と言う錯覚が生じていく。・・ が二滴の水が一滴の水になり得る様に、錯覚によって分化されているいくつかの意識体の 合一も、その可能性において十分に考えられることなのである。我々の知る多くの先達者 達は、意識体がアメ−バの様な微細な肉体から、人(地球の人の形態を持つとは限らない )の肉体に移行していく過程において、多くの合一が行われると説いている。そしてその 度にエゴ体(エネルギ−体)は混ざり合い、より一層の複雑化が起こされ、合一された意 識体は、新しい肉体を着こなしていく能力を得るのである。ただこの合一は人に至ってか ら行われる事はない。何故ならエゴ体の成熟は、人のレベルにおいて得られるもので、そ れ以後における進化とエゴ体の関係は、それまでのものとは違ったものになっていくから である。進化は一瞬毎に得られ、それを妨げるものなど実際には皆無である。エネルギ−界の全ては、それを用意された存在の愛であり、貴方はその存在の愛によって目覚めてい くのである。宇宙霊になった場合、宇宙霊として合一体となっている場合があると言う事 を付け加える。

 
道の選択について

道の選択に至るまでの過程は、理解を 得ている者と得ていない者では全く異なったものとなる。先ずは理解を得ていない人々に ついてだが、彼等はエネルギ−の波の一つ一つを分離させた状態で捉えていることから、 夫々の波形を彼等の「都合」と言う計りにかけることによって求める回答の配分を得る・ ・が、彼等の多くはそれを行う前に、彼等の計りの針をゼロに調整しておかなくてはなら ない道理に気付いていない為に、誤った配分の回答を得てしまい、彼等の進む道には多く の不都合が現れてくることになるのである。彼等はその誤ちを繰り返すことで計りの調整 の重要さに気付き、又認識に至るのであるが、この時点において、初めて彼等の基本的都 合に添った最良の選択が可能となるのである。さてこの計りの調整について、貴方達は中 立の立場をとると言った表現を用い、又その重要性についても多くの者が説いているので あるが、我々の見る限りでは、貴方達の殆どは未だそれについての真の認識には至ってい ない様である。これについては多くのグル−プが、その中心となる教義が説く「中立」の 重要性を認めていながら一方で理解もなしに他のグル−プの教義を受け付けず、これを排除すると言った姿勢をとっている事実を思い出せば納得がいくはずである。これは今の貴 方のままでは「中立の立場」は得られないと言うことであるのだ。「中立」は何にも囚わ れず、何にも偏らずにいられる「自由」、つまり「無我」の状態があって始めて可能にな るのである。そしてこれは何等かのレッスン過程を経る事で、自己コントロ−ルを身に付 けない限り、決して得られるものではない。我々は宇宙の多くの星に、中立の立場をもっ て道を選択している人々が存在することを知っている。その中立から得られる全てのデ− タを基に、彼等が非常に公平な、又安定した社会を現しているのは言うまでもないことで ある。さて理解を得ている人々についての選択過程であるが、彼等の世界において「中立 」と言う言葉は既に死語となっている・・と言うのは、彼等は基本的にその立場を、彼等 本来の「意識体」においているために、エネルギ−の波の一つ一つを分離させることなく 、「大海の一部」として捉えているということで、異なる二つのものを必要条件とする「 中立」は成り立たなくなるのである。この場合、無数に現れる「波形」は、互いに何の矛 盾もなく存在することになり、彼等はそれらが何故現されているのかを「理解」の上に読 み、又過去における夫々のケ−スのデ−タを参考にすることで大きな流れに一番添ってい ると思われる道を選んでいく。が彼等は、実際にはこれを「選択させられている」と言う 本筋を知っており、例えば、幾つかの解釈の一つを選んだことで困難を呼んでしまったと しても、そこに「非難」或いは「後悔」と言ったものが現れることはないのである。彼等 はそれを「必要な困難」と受取り、対処の道を又選んでいく。道の選択について話してき たが、今現在貴方達は地球の人として、このテ−マが非常に重要な意味を持つ時期を迎え ている。我々はこの内容に敢えて触れることはしないが、この様な時期にある貴方達に最 も必要なものは、いずれの場合にしても「中立」であることを忠告しておきたい

 
性について

我々の世界において「性の交わり」は重要な ものではなくなっている。それは貴方達の世界にある「禁欲」などと言ったものによるも のではなく、ごく自然にその様な結果になっているのである。我々の世界にある人々は、 最高のエクスタシ−を意のままに自らの中に起こす事が可能であり、それは理解から得ら れる認識を、より深めていく事によって得られる「内的環境」と言える。貴方達が他者を 見る時、そこには肉体とエゴ体しか存在していない。だが我々にとって他者の肉体とエゴ 体は、絶対存在の愛以外の何ものでもなく、その奥に絶対存在に向かう意識体を見るので ある。これは見ている人間と見られている人間をイコ−ルで繋ぎ、更に両者を絶対存在に 繋ぐ事が出来る「理」であり、我々の世界にはこれによって常にエクスタシ−の状態の中 にある人々も実際に存在している。そして又この「理」は、瞑想の鍵として度々使われ、 我々はこの中で宇宙の全生命と合一し、そこから現れる無限のエクスタシ−の中で絶対存在に触れるのである。さて、次は我々の世界における「結婚」に、ついて話をしなければ ならないだろう。我々の世界にも結婚はあり、これは貴方達の世界と同様に、一人づつの 男女で成り立っている場合が殆どである。彼等は非常に似通ったバイブレ−ションを持つ者同志であり、出会いの時に、既にお互いがパ−トナ−であることを認識し合うのである が、一般的に彼等の間にもう一人の意識体を迎える時期を微妙な感覚で捉える(女性が捉 えることが多い)までは、結婚はなされない場合が多い。これは彼等が異性に、又結婚に対して、過大な期待を抱かせる要因を既に解決していることが大きな理由となっているの だが、この内的環境は、かえって互いの間にある運命的とも言える繋がりについて、はっ きりした実感をあたえるのである。彼等は結婚に至るまでのかなりの長い期間、互いに何 の不安を持つことなく、夫々のレベルに見合った奉仕活動、或いは学習に集中する。そし て又結婚の後も、様々な立場というものが彼等に付加される様なことはなく、あくまでも進化の途中にある意識体としての自由は尊重されるのである・・がしかし、彼等の意識体は殆ど合一に近い状態となり、彼等を取り巻くエネルギ−は全てにわたって共有されるこ とから、もし貴方が彼等の側で何かを感ずるとしたら、完璧に近い「調和」であるはずで ある。さて彼等の間に迎えられる子供であるが、意識レベルは両親とほぼ同じであっても 、バイブレ−ションの形態が微妙に異なる場合が多い。我々はこのバイブレ−ションを6 形態に分けて統計を取っているのだが、例えば彼等の間に2児が迎えられた場合、この二人の子供も異なったバイブレ−ションを表しているようである。我々はこの様な表れをバランスと言う意味からも、又いずれ中和され、一つのバイブレ−ションになっていくと言 う意味からも、非常に重要な表れであると認識している。

 
病について

現象界における全ての物事は意識体の進化の ために用意されたものであり、無駄なものは一切ないと言う事が出来る。今回のテ−マの 「病」にしても、これを有り難がる生命体こそ存在しないが、そこから起こされる全ての反応は、夫々方向において、エゴ体の成長を促進させる非常に重要な「場」ともなり得る 現象なのである。我々は貴方達の世界に多くの病を見て、又多くの苦しみを見るのである がそれに対し、援助を出来ない理由は単にそこにあり、敢えてそれを行ったとしても、そ れは決して「正義」とはならず、貴方達はいずれ他の場において同じ力の促進の波に反応 することになるのである。今現在、貴方達の世界では、生命体を種々な意味において、あ る程度保護するものが考案されて、又過去から伝えられているもの(宝石など)が見直さ れたりもしている様だが、それは単にクレジットカ−ド「時間の延長」の様なものと考え るべきで、我々はこれらのものを、特に健康な状態にある貴方達に対しては決して薦めない。その様なものに頼ることなく、何故病が現れるかについての認識を得、それに対処し ていくことが、それから卒業出来る唯一の方法であるからだ。我々はここに貴方達のお守りに代わる一筋の光を示しておきたい。それは全ての病(肉体の病とは限らない)は、集中がなされない場合に現れるものであり、集中とは、一点において矛盾のない状態にある と言う(矛盾はエネルギ−体の分裂、又消耗を意味する)。そしてこの状態が達成された 人間、又社会において、病という現象は既に意味がなく、真に解放されることになるのである。

追伸:貴方達は先ずこの一点を手に入れることが先決となる訳だが、これは我々の言 うところの大きな流れにおける「理」であり、これをこの先、道の理即ち「道理」と呼ぶ ことにしよう。そして今貴方達に矛盾を生じさせ、又分裂を起こさせている「理」を「処理」とし、絶対存在にあって初めて得られる「理」を「真理」とする。

 
矛盾から集中へ

先の病についてのメッセ−ジの中で、矛盾の無い状態(集中)を目指すことが、それから解放される道であるとお話したのであるが、その「道」については貴方はどの様に捉えただろうか。貴方達の世界において、これまで多くの宗教が「矛盾」を「罪」と言う言葉に変えて、それを改める様に説いてきてい るが、それを行うために取られてきた方法は、常に「べきである・・べきである・・べき である」と書かれた杭を自らの反応の場に打ち込むことであった・・がこの方法は逆に貴方達の矛盾をより複雑化させる要因にしかならず、結果的に生命体に、又社会に、不健康 が現れることになっているのである。貴方達はそろそろこの「杭打ちの行為」そのものを 吟味する事の重要性に気付くべきであり、今のままでは自らの希望する人間像(例えば敵 をも真に愛する事が可能な状態)には繋がらないと知るべきである。元々貴方は反応体で あり、どの様な杭を打ち付けたところで「反応」は決して意のままにならないのである。 イエスは自らが貴方達に教えた通り、真に敵を愛することが出来た。もっとも彼にとり「 敵」と言う言葉には意味が無かったのであるが、今は貴方達が知る事が出来ない無限の喜びの中で敵(彼を迫害した人々)を認めたのであり、又今も認め続けている。イエスは彼自身が言ったように、貴方達と全く同じ存在である。貴方はいずれイエスになるであろう し、又かってイエスは貴方であったと言うことだ。が今そのあり様を異なるものにしてい るのは、ただ「理」が自らの中で明らかになっているか、なっていないの違いだけなので ある。もしも貴方に自らの反応において、マイナス感情しか現れない対象が存在するので あるなら、彼の心も肉体もただ「目覚めよ」と言う言葉が込められている絶対存在の愛( エネルギ−)そのものである事を思い出すことだ。そして又、その愛にくるまれている存 在こそが絶対存在に向かう意識体「神の子」であることを思い出すことだ。貴方が「理」 を解している者であるのなら、彼が存在することに対する喜びを得る事に、どの様な杭も 必要でないと即座に分かる筈である。集中の状態に向かう道においてなされるべき努力は 、単に一つ一つの現象の中において、理を明らかにしていくことだけであり、これを行うには、「ただ観さえすればよい」のである。

追伸:この道を進めは進むほど、貴方の喜びは大きくなる。何故なら、真の幸福とは 「自らが存在することの幸福」に他ならないからだ。

 
平和への祈り

理解以前にある人々の祈りが、平和をもた らす事は有り得ない。何故なら、理解がなされない限り祈りそのものが既に平和ではない からだ。貴方の祈りの根底には多くの層をなした不信が横たわっており、この不信が取り 除かれない内は、どの様に祈ったところでそれは「念」にしかなり得ない。「念」は波形 「現象」を形作りはする・・が、「波形」を留めておくことは不可能なことであり、「平和現象」は仮の「平和」に過ぎないと言う事である。貴方達はここにおいて、祈りについての根本的な変質の必要性について気付くべきであり、それが「理解」と言う目覚めのも とにあって初めてなされるものであると知るべきである。「理解」は貴方の中にあるあら ゆる不信を喜びに変える。これは貴方の内的環境が完璧に平和になることを意味するので あり、この中において初めて「平和の祈り」が可能となるのである。がこの祈りには既に 目的の様なものは存在せず、貴方と言う喜びの場からは、ただ愛の波動が生じていく。そ してそれは香わしい花の香りの様に宇宙全体に広がっていくのであるが、この「祈り」の 状態はそれが繰り返されることによって、貴方の内的環境そのものになっていくのである 。その様な状態にある貴方は既に宇宙の花そのものであり、貴方がそこにあると言うだけ で、周りの全ての生命体が安らぎを覚え、又幸福感に包まれる様になる。これは貴方の愛 の波動が、彼等の波動を共鳴させると言う事である。かつてブッダが花を非常に愛したこ とについて、多くの人々が知っているようであるが、彼は花と言うもののあり様を愛した のであり、又花を指し示すことによって、本来の貴方達のあり様を教えたかったのである 。

 
想念と現象について

想念と現象について話してみよう。 先ず貴方は想念がエネルギ−を生む、或いは想念そのものが現象を実現させるエネルギ−である。と考えていないだろうか。だがこれは明かな間違いであり、現象界にある意識体の想念には、エネルギ−を放出し、それを現象化させるだけの能力はない。想念とは、体験を重ねていくことで得られる因果においての確信であり、又現象の実現化のためのエネルギ−集中の「場」なのである。このエネルギ−とは無限なる創造が用意された宇宙というエネルギ−の海から引くものである以外にはあり得ないのだが、例えばこの「場」が非常 に強力な集団レベルのものである場合、周りの様々な現象を形作るエネルギ−を吸収する ことで、一つの大きな「波形(現象)」の実現がなされていく、又この「場」が個人レベ ルのものであつても、それが意識的に強化された場合、周りのエネルギ−に影響を与える と言う事で、結果的に現象が実現化されやすい環境が現れてくると言った様な(これは偶然の好都合と言ったものでよく現れる)「場」とエネルギ−の図が現れたりするものであ る・・がしかし、それがどの様な形で作られた波であったとしても、「場」の喪失、あるいは新しい「場」が現れる事で崩れていくのが波の宿命と言うものだ。波形の残像は、そ の後様々な分野に従って分解され、他の波形残像との照合による数的判断の後に知識の収納庫に納められるのであるが、これらのものが又新しい「場」を作る要因になることは言 うまでもないことである。さて話は少し変わるが、「念力」と呼ばれるものについて少し だけ触れておくことにしよう。これもそのメカニズムにおいては「想念現象」と変わらな いものであるが、この場合想念は極端に強化されることで、光を一点に集めるレンズの様 な働きをするのである。この時に集められるエネルギ−の量で、その現象実現の範囲が決 まるのであるが、これについてのある程度の能力は「集中」の訓練を積むことで、レベル に関係なく、誰もが得られるものである・・がこの念力について過大評価することはナン センスなことであり、我々は飽くまでも他者の砂場で遊ぶ子供であることを自覚しているべきなのだ。想念と現象について「場」とエネルギ−という捉え方からその大筋を話して きたが、最後に存在する全ての現象は他者の想念の影であることを言っておきたい。

金・柳さんへ:貴方達の世界は「処理」を追及するのに留まるので「分断」が現れる 。仮に貴方の国が統一をみたとしても、それは一つの「処理」が追及された結果の表れであり、根本的な解決がなされていない。「処理」は結果的に分断を表し、これは「道理」 を得ることで初めて統一される。これは国レベルのものではなく、宇宙の統一につながる ものである。これからの指導者は何を学ぶより先に「道理」を学ぶべきであり、これが実現されない限り平和の訪れはありえない。

 
無我の体験について

貴方には完全に意識を失ったと言う はっきりした体験があるだろうか。生命体における「無我」とは、正にこの状態を言うの であって、それ以外の状態ではあり得ない。知覚は意識体においてなされるものであるが 、これはエネルギ−体「肉体とエゴ体」を媒体にすることで初めて可能となるのであり、 この我の本体とも言える媒体をなんらかの形で完璧に分離するに至った場合、そこに表れ る状態は「無知覚」つまりは全き「無明」の状態なのである。貴方達がよく言う「無我の 体験」とは、実は意識体の知覚範囲はそのままに、原初のエネルギ−体の状態を体験する 事なのである。これは今の貴方の知覚範囲をもって、光の状態を体験すると言う事にも置 き換えられるわけだが、ここにおいて貴方は、知覚される宇宙の本質は喜び以外の何もの でもないと知るのである。だがこれは飽くまで始まりであって、貴方は無限の宇宙「無限 愛」を完璧に知覚すべく、知覚範囲を広げていくのであるが、実際にはこれはただ認識を 繰り返すことでそれを深めていく事に他ならず、結果的にエネルギ−体の変化と共に知覚 範囲が広がると言った表れとなるのである・・がしかし、「無限」は元々エネルギ−体の範躊ではなく、最終的には本来無限存在である意識体が、それ自体において自己確認する に至ることで無限愛が知覚されるのであるが、このエネルギ−体を必要としない意識体に あって、初めて無我の体験がなされるのである。

質問(Sさんより):一瞬一瞬を生きるとは、どう言う事を言うのでしょうか? 刹那的に生きると言う事ではないと思いますが。

答:プロセスが時間になります。つまり貴方にとっての一瞬とは、一方向に向けられ た刺激であり(絶対者からの)ノックであると言う事です。一瞬一瞬を生きるとは、常に 意識体に立場を置きながら、宇宙と言う絶対者のメッセ−ジを(現在解放されている知覚 力を全開にしたまま)受取り続けることなのです。もし貴方がこの状態を可能にするなら 、過去も未来も絶対者からのメッセ−ジと言う言葉に収まることになり、全ての心配が消 え失せると共に貴方の内的環境を含めた宇宙そのものが、愛のプレゼントとして受け入れ られるようになります。

質問(Sさんより):貴方は男女学から何かを学ぼうとしてきたようですが、今のままでは、ただ現象の本質、つまり「無常」を得ようとしているだけである事に気付いて下 さい。一人の女性と関わるとき、貴方はその時点の彼女しか見ていません・・が実際には 、彼女は無限時間を有しており、彼女の無限分の一部分を見て、それが彼女であると認識 してしまっている訳です。しかも無限分の有限は、飽くまで成り立つことの出来ない数式 であり、貴方はその答を得ようとしているに過ぎないと言う事なのです。もしも男女学から悟りを得たいのであるなら、貴方は彼女の全部分を観る必要があります。つまり生命体以前であった彼女を、アメ−バ−であった頃の彼女を、又植物であったころ、昆虫であっ た頃、小動物であった頃・・と、全ての過程における彼女を愛してみることです。そしてその気の遠くなるほどの過程の中で受けた(反応した)多くのもの(それが今の彼女を表 している訳です)に思いを馳せて、その反応そのものを慈しんでご覧なさい。そして今から百年先、千年先、一万年先、果ては無限年先の彼女を、貴方の中に連れてきて、その時の彼女を、貴方の持つ全てのものをもって観るのです。貴方はこれらの事を行うことで 、初めて彼女を観ようと言う姿勢が整う事になります。そして真の男女学はそこから始ま るのです。

追伸:これは貴方自身の認識を明確にするためのレッスンです。初めは貴方が対象と する女性と一緒でない時にこれを行う事を薦めます。その結果はその女性に対する貴方自 身に表れますから、その過程を観ていくことです。

 
エゴについて

貴方達は今エゴの変質の時期を迎えている と言えるのだが、しかし自らのエゴも又他人のエゴも決して否定すべきではない。エゴは 絶対存在から送られた環境の一つであり、理解以前の生命体の宝なのである。エゴはそれ 自体が完全に無意味なものになるまで、貴方を運んでいく乗り物であり、途中で降りるに しても、やはりスタイルを変えたそれに乗って降りるしかない。変質の時期にさしかかっ ている人々は、エゴと言う環境に居心地の悪さと窮屈さを感じており、特に他人のエゴを見、否定的になるのであれば、共振する自己のエゴを見せてくれた彼、又は彼女に感謝し 、又共にエゴは与えられていると事の喜びを味わうことである。さてエゴの変質についてだが、これは個人レベルのエゴから宇宙レベルのエゴへの拡大を意味するものであり、貴方が常に意識体に立場を置くようになった時、この変質は完了されるのである。それから の貴方はそれまでの個を失い、宇宙の全意識体が形作る「個」の一部分として、又個そのものとして自らの成長を見始めるのであり、宇宙レベルの「我」の成熟に向かうのである 。

追伸:エゴも又絶対存在の愛であることを認識してください。

 
エネルギ−体の変容

エネルギ−体の変容について話そう 。貴方はそれほど遠くない将来、必ずこの変容の表れを体験することになるだろう。それは始めから用意されたプログラム過程の一つであり、それについて期待したり恐れたりす るべきではない。覚えておかなければならない事は、変容を起こすのは「貴方」ではなく 、飽くまでエネルギ−体(肉体とエゴ体)であり、これは宇宙の一分子の波動が必要に応 じて変わるに過ぎないと言う事なのである。青虫は変容など起こそうなどとは考えずに蝶 になるが、その時点において、貴方達に望まれる状態とは、正に青虫のそれである。彼は 期を知り、ただ流れに身を任せ、変化を起こるままに起こさせていく・・が、もしもその プロセスの中で彼が不安を覚え始めたとしたら、それから生ずる葛藤は、あるいは彼に死 をもたらす程のものになるかも知れない。この様な場合、ただ彼はもう少し葉を食べ、そ れを消化するまでの時間を持つべきであったと判断されるのであるが、これはそっくり貴方達にも当て嵌まることなのである。貴方は確実に訪れるこの変容を前に、是非とも宇宙の一部としての完璧なリラクセ−ションを手に入れなければならないと知るべきであろう 。このリラクセ−ションとは、これまでの貴方が何となく感覚として捉えて来た様なもの ではなく、無限を通して知り得る宇宙の理への集中によってもたらされる一点のかげりも ない信頼であり。全行程である訳であるのだが、この中にあって、貴方はどの様な変化も そっくり受け入れられる器となるのである。不安や自惚れなど「個」への囚われは、変容 をシンプルなものにする事を許さない。がこれを解決して状態にあるのなら、恐れとは無縁のまま、宇宙の変容のダイナミズムの中で、意識体の知覚範囲内の拡張がなされるだろう。

追伸:変容における困難の本質も又愛であって、秩序の調整である。