想念観察・初歩編          藤本啓助
観察の実際と留意点
                      
 想念観察のガイドを読んでみて、その重要性は判ったけれども、いざやってみようとするとなかなか、という人は多いと思います。車の運転でも、仕事でも、スタートの時は、要領がつかめずに苦労するものです。
 「やり方は人それぞれだから、とても語り尽くせない」・・・どの執筆者も、皆このように書いておられます。確かにそうですが、最初の一歩が踏み出せずにいる人にとっては、もどかしいことこの上ないでしょう。
 ここではそんな人たちのために、想念観察を軌道に乗せ、生活の一部(いや、生活そのもの)にしてしまう方法を、例題として考えてみたいと思います。以下にあげるのは、あくまでも波に乗るまでの「参考例」です。すべてのパターンを語り尽くすことなど不可能です。「方便」もいっぱい入っています。これをステップとして、まったく違った視点から、あなた自身のやり方を見つけて、あなたと、その周りのすべてのすべすべてを、客観的に観察する習慣を身につけて下さい。想念観察の深みは底無しですので、次々に新たな発見があります。終着点はありません。

「瞑想」タイムを設ける
・リラックスできる雰囲気をつくる
 まず、瞑想から始めてみましょう。といっても「座禅」のように、難しい足の組み方など必要ありません。腰掛けていようが、寝そべっていようが、自分が楽であれば、姿勢など関係ありません。
 家事が一段落して、仕事から帰って、一人でくつろいでいる時、部屋を暗くして、周りを静かにしてみます。別にそうする必要はないのですが、自分の心の動きに集中できると感じるなら、そのような演出もよし、ということです。時間は、10分でも1時間でも、好きなだけで結構です。目が冴えて眠れないときなど、チャンスかもしれません。どうせ眠れないのなら、しばらく有効に使ってみてはどうでしょう。

・第三者的に見る
 目を閉じて、心の中の動きを追ってみます。第三者的な立場から、観ていて下さい。窓の外の音に対する反応・判断、今日起こった出来事(友人の冗談に大笑いしたこと、上司に怒られ、しばらく落ちこんでいたこと、さっき見たニュースの残酷な映像に恐怖したこと等々)の再現、入浴後の満ち足りた気分、孤独感などが、まるで雲のように浮かんでは消えてゆきます。

注意
(1)第三者的に、というのを無理に意識しないこと。初めのうちは、観察する側とされる側が完全に同化しているので、これを切り離せるようになるまでには、実際には辛抱強い作業が続きます。その姿勢は忘れずに、でも気楽にやって下さい。

(2)浮かんでくる想念に判断を加えず、淡々と見ること。ただ観ていたはずなのに、気付くと頭の中で葛藤したり、議論したりしている場合があります。エネルギーを注いでふくらまさないで下さい。

 何も浮かんでこない、と思っても、もう少し深く観察して見ると、「何も浮かんでこない」と感じている想念や「何か浮かんでこないだろうか」と期待している想念、などに気がつきます。
・力まない
 神経質な人は、観察に集中しようと思っているのに、次のような理由で集中できません。鼻の頭がかゆくなった、肩が凝り出した、隣で夫が下らないテレビ番組に爆笑していて、頭にくる→冷静になろうと押さえる→でも、やっぱり気になり、これでは先に進まないと焦り出す・・・。
 「無になろう」とリキんではいませんか? そうやってもがけばもがくほど、無の状態から遠ざかってしまいます。この瞑想の目的は、想念観察です。「無」になろうと努力したり、その結果光が見えたり、特別の感覚を体験したりすることではなく、上記のような様々な心の状態に気付くことです。「光はいつ見えるのか」ではなく、いつ見えるのかと結果を期待し、打算的に行動している自分に気付いていよう、ということなのです。冷静になろうと焦っている自分を観察していればいいのです。

 でも、なかなか初めのうちはそんなことに気付きません。焦らず、根気よく、という以外に適切なアドバイスはありません。何でも完璧にこなそうとする人は、無理をしがちです。ひとつひとつ、ゆっくりであっても着実に気付いてゆきましょう。
 

日常生活の中でやってみる
・実況中継方式
 「瞑想」という形で特定の時間、空間を設けて想念観察を行なうのは、ひとつの方法にすぎません。慣れてきたら、目覚めているすべての時間、あらゆる場所で想念観察してみて下さい。朝、食事の際、昼の仕事中、買物の際、同僚や近所の人とおしゃべりしている時、夜、テレビを見ている時・・・周囲の刺激に反応して、どのような想念が流れているのか、常に覚めた目で、第三者的に自分を観察してみましょう。ビデオカメラの中に自分を映し出し、実況中継している様子をイメージしてもいいかもしれません。その際、彼/彼女の心の動きをつぶさにリポートします。

「○山×子は、友人のイヤミに今、むっとしています。お返しに、逆襲の材料を考えています。おっと、友人は『シマッタ』と感じたらしく、謝ってきました。×子は大人気ないと思われたくないために、鉾をおさめることにし、余裕のあるところを見せて、ファッションの話題に転じようとしています・・・」

 頭の中でのことですから、実際はこのようにいちいち言語化することなく、すばやく状況を把握してゆくことになるでしょう。冷静に自分(の想念)を見つめる格好の機会として、次の2つの例を考えて見ます。

・場面1・車の運転
 車の運転というのは、よくも悪くもその人の性格があらわれるものです。車に乗っているとき、無意識にやっている言動の多いこと。特に、エゴに関しては解放される傾向にあるようです。

・右折車に強引に横切られると、狂ったようにクラクションを鳴らすくせに、 自分がやるときは平気。
・回りのあらゆる存在が自分の進路を邪魔している、と言わんばかりにいつ もブツブツ毒づいている。
・特にどこかに急いで向かう必要もないのに、追い越しを繰り返し、前方の トロい車に、始終いらついている。
・暇さえあればカラオケの練習をしている/お化粧している。
・前方車両と信号以外、真っ先に目を向けるのはいつも、道行くキレイなお 姉さん。
・スタイルのイイ(カッコいい)女性(男性)が前方を歩いていると、追い 抜いたとき、振り返って顔を見ないと気が済まない。
 事故を起こす一歩手前なら別ですが、ともかく、その自分をただ観ていて下さい。自分を責めなくていいのです。まず、気付いていることです。そして、その背景にはどのような価値観があるのかを掘り起こしてみて下さい。

・場面2・飲み会、お食事会
 あなたは会社の係長。今日は飲み会です。部下はあなたのご機嫌を取ろうと、あなたの大好きなパソコンの話題を振ります(別に、釣りでもゴルフでもなんでもイイのですが)。舞い上がったあなたはここぞとばかりに、面白かったインターネットのホームページの話題を次から次へと、得意げに披露します。もうその話題ヤメテというサインであるのにも気付かずに、「ほんとにお詳しいんですね」という女子社員の声に勝手に勇気づけられ、最新機種の性能の違いなどをさらにべらべらしゃべり続けます。うんざりした周りの人は話題を変えようと努力しているのに、いつまでもあなたはその話題にこだわろうとします。
 いつも同じ話題ばかりする人はいるものです。そして自分の得意でない話題になると、周囲に背を向けて雑誌を読みはじめたりして・・・
 逆に、その場を丸くおさめることに終始するあまり、当たりさわりのない話題でソツなく乗り切る、宴席慣れした人もいるでしょう。無事乗り切った、という安堵感にあなたが浸っている一方、方々に気を使っているけど、話してみてちっとも面白くない人だ、と周囲は評価しているかもしれません。

 思い当るフシがあるからといって、別に反省しなくてもいいのです。隣で嫌そうにしているOLだって、会社の愚痴、ファッション、男関係と、話題の幅が狭い点で、大差ないかもしれません。話題が豊富だからいいというのでなく、自分の住む狭い世界の価値観、世間一般で良しとされる(と信じている)価値観を振りかざしてモノをしゃべっていることを自覚しているか、ということなのです。
 

頭の中のガラクタを点検・整理する

・「ソーネン流し!」の要領
 ガラクタというのは表現が悪いのですが、瞑想して、冷静に心の動きを追って見ると、次から次へと、よくもまあ、普段何も気付かずに、これだけの想念を垂れ流していたものかと、呆れるかもしれません。自分の子供の素行に腹をたて、次の瞬間には子供を感情に任せて叱り付けたことを後悔してみたり、かと思えば、3時のおやつで食べたケーキの美味しさがよみがえってきたり、そろそろ買い物に行かなきゃと焦りだしたり、といった具合に、おかしくなるくらい多様な思いが浮かんできます。
 大事なことは、次々に浮かんでくる想念を押さえつけないことです。人に悪口を言ってしまったとき、意地悪をしてしまったとき、ものすごく反省するか、自分を正当化する材料を必死で探そうとするでしょう。
 今までは、そういう想念に気付きもせず、振り回されていた訳ですが、観察の結果、振り回されている自分に気付いた、エゴの正体が見えはじめたことが大事なのです。今までは、そのエゴが自分そのものだと思っていた訳ですが、想念観察を通じて、そのエゴを観ている自分、冷静な自分が存在することを知るのです。

・観ていることで、想念との隔たりができる
 泣きたかったり、怒りたかったりすると、それを我慢するのが美徳であるかのように一般には考えられています。でも、自分が自分に嘘をつく必要はありません。その感情を否定することなく、流してやれば良いのです。その際、流れを止めることなく、かといって意図的に、想念をふくらますべくエネルギーを注がず、ただ観ていることです。怒りに狂いそうになったら、心の片隅でいいですから、「私は怒っているな」と気付いている目を残しておいて下さい。
 怒りの想念に思い切り浸ってしまい、しばらく経ってからそのことに気付いた・・・そんないつも後手後手に廻る自分が嫌だ、という人。それまでは、後になって気付くことすらなかったのですから、大きな進歩ですよ。落ち込まないで!

 「あんな奴、死ねばいいんだ」という想念に取りつかれている時、そういう自分を醜く感じ、「あっ、シマッタ。こんなこと考えちゃいけない」と、必死にこれを打ち消そうとします。しかし、止められたエネルギーはますます圧力を増してゆき、いずれ爆発するか、病気を生み出すかのどちらかです。いつまでたっても、その想念から抜けきらない訳です。「死んでしまえ」という想念に判断を加えずに観ていることは、これを対象化することになりますので、自分から離れ、影響を受けない、捕われていない状態になります。ところが、これを打ち消そうとすることで捕われてしまうのです。
 怒濤の如く押し寄せる想念をせき止めるパワーがあるのなら、「奴が死なないでいる」ことで、自分のエゴにどのような影響が出るかを掘り下げてみる方向でそれを使ってみてはどうでしょう。傷つきたくない、という防衛本能が、その源泉にあるかもしれません。

 ところで、こんな質問をする人がいます。
「想念観察していると、自分のエゴばかり見えて困るんです・・・」
 ちょっと待って! 目標設定を誤っていませんか。エゴの正体を見るのが想念観察です。もっともっと自分のエゴに気付いて下さい。
 

想念観察日記

・書くことで整理される
 想念の観察を続けてゆくうちに、いつもお決まりの、想念パターンが見えてきます。場合によっては、それを認めたくないこともあります。でも、目を背けないで下さい。
 ノートに書き出してみましょう。書くことによって、随分と整理されて来ます。あなたが、自分以外のすべての人に、偽りの姿を見せており、どうしてもその仮面を脱ぐ勇気がないとしても、まず、自分にだけは正直になることです。自分だけは仮面(エゴ)の正体に気付いていることです。その矛盾した姿をつぶさにメモしてみましょう。

「お金に執着はない、と周囲には涼しい顔をしていながら、将来を考え、どこの金融機関に預け変えようか奔走していた。」
「死の恐怖は克服した、と豪語しながら、不整脈が出たといって家族中巻き込んで大騒ぎした。」
「私は孤独を愛する、と吹聴しながら、友人からの電話が3日もとぎれると、不安感でいっぱいになる。」

・想念の根っこに迫る
 そして、次のステップとして、何を優先しているから、何を大事だと思っているから、そのような想念が生じるのか、少し掘り下げて見ます。

「いつも、人前ではいい顔をしている」
 本当は好きでもない相手に、思わせぶりなことを言ったり、できもしない口約束を乱発したりして、相手を喜ばせようとする。優しい人、善人を演じている。そうすることによって人に好かれるから、逆をいえば、そうしないと嫌われてしまうという恐怖があるから。

「アニメやドラマのヒロイン/モテモテの色男/名ギタリスト/英雄/人格者となって自分が活躍する白昼夢に浸るのが好きだ」
 現実がそうでないこと、正反対であることを直視し、認めたくないから、そういう夢に浸ってバランスをとっている。自分は足りないところだらけと信じているから、つまり劣等感の塊であるから、夢の世界でなんとか優位に立ちたい。

 自分は見えないくせに、他人のあら捜しは得意、という人もいます。そんな自分に嫌気がさす前に、これすら有効利用してみましょう。他人の嫌な点を自分に置き換えて考えればいいだけのことですから。

「あいつは、本当におせっかいで、煩わしいことこの上ない」
 おせっかい、奉仕好きの人は、それが自己満足に過ぎないことを、よく忘れる。そうされるのが実は好きな人でもある。つまり、「積極的おせっかい」は自分に利益が返ってくることを期待している(→だから、そうでないと落胆する)し、「消極的おせっかい」は、自分が傷つかないよう防衛手段を講じることにに終始する。

・価値観は、単なる「こだわり」
 「価値観」は、人(社会)から、それがいいものだと言われて受け入れたものか、自分自身の体験から得られたものであり、これがヨロイのように私たちの周りにまとわりついています。本来は持っていなかったはずの、ただの「こだわり」なのですが、私たちは、これをなかなか手放しません。
 「新しい仕事/お金/素敵な恋人を手に入れたい」という欲求があったとします。しかしすぐに、「でも、あれがない、これがダメ」「どうせ自分は〜だ」と、次々にマイナスの材料を用意し、フタをしてしまう人がいます。「想いは実現する」のが宇宙の法則ですので、マイナス方向に注がれたエネルギーは、失敗という、マイナスの現実を生み出してしまいます。結局あなたは「世の中、どうせそんなもんよ」と冷めたことを周囲につぶやきつつ、ネガティブな価値観を手放すことなく、満たされない生涯を送ることになります。そんなもの、さっさと捨てて、新しいバージョンの自分を今から始めればいいだけのことなのですが・・・。

・書いたものは捨てる
 書いたものに、いつまでも執着しないで下さい。自分の矛盾に満ちた姿に気付いたことが大事です。流してしまえばいいのです。だからといって、「書いた」ということで満足もしないで下さい。その「矛盾した姿」の背景には、本来の自分が持っていなかった、どこからか呼び込んで来た「価値観」がひそんでいました。それごと手放せないのであれば、また同じことの繰り返しになります。
 英語の勉強で、丁寧な字で全訳を書き、3色刷りの美しいノートを書くような学生に限って、「一所懸命やっているのに力がつきません。なぜでしょう」などといったりします。その学生は、学んでいるのでなく、「作業」をしているのであって、作業をしたことによる満足に終始しているから、先に進まないのです。予習したこと(知識)を授業(実生活)で検証してみて、初めて学びといえます。
 

実生活から学ぶ・・・実践こそ命

・苦言に耳を傾けよう
 あなたが社会人、そして三十過ぎの人だとしますと、周りは「守りに入った」人ばかり。お互い波風を立てずにゆこうという、打算的「大人の配慮」のもと、正面切って人に苦言を呈することが無くなってきます。エゴに振り回されて生きてきた人は、気がつくと周りに誰もいなくなり、残ったのは利害だけで結ばれた人のみ・・・往々にしてそれを友人だと錯覚しています(自分が「友人」だと思っている、その数少ない人との関係も、一度あらためて観察して見ると良いでしょう)。手遅れになって癌だとわかるのです。あなたが、人の上に立つような地位の人だとすると、裸の王様になっている可能性は高いかもしれません。
 厳しい指摘、苦い意見をぶつけてくれる真の友こそ、最も大切にすべき医者であり、想念観察とは悲しい結末を避けるための健康診断である、ともいえます。

 ですから、あなたに文句をいってくれる人のいうことには、とりあえず耳を傾けてみる謙虚な姿勢をもつことです。そんな人がいるだけ有り難いではありませんか。自分で目をつぶってきた自分のエゴを掘り起こしてもらい、観察を徹底させるきっかけとしてみるのです。反論、自己正当化したくなる時こそがチャンス。触れられ、傷つけられたくない、守りたい、エゴの正体が浮き彫りにされます。無理にお互い、気まずい思いになる必要はありません。後に尾を引かない、気心知れた仲間うちで互いにやってみるといいかもしれません。

・ムカつく時は収穫の時
 身近にそういう人がいないなら、手っ取り早い手段としては、むかつく人/出来事、苦手なものにあえて目を向け、そこに自分のエゴの正体を見ることです。

 「周囲のすべての現実は自分が創造したもの」という、宇宙の法則があります。
 彼/夫が浮気ばかりして困る、という時、自分に問題はないのか、冷静に観察してみて下さい。あなたの嫉妬心、不信感というマイナス想念が現実化していることがあるでしょうし、また、あなたの強い独占欲が、彼の反発という形で、確固としたバランスを作っているのかもしれません。いずれにせよ、無意識に、彼はあなたのエゴを見せてくれているのです。そんな時、力づくで相手を変えようとしても、逆の結果を招くだけです。それよりも自分自身が変わることの方が、手っ取り早く現実を変えることが出来ます。膠着状態を作っているバランスの一方がくずれることにより、他方は変わらざるを得なくなるからです。

・苦しい現実から逃げない
 人生上の大きな試練、ショックだった出来事が、自分の成長にとってまたとない刺激剤となります。たしかに、失恋や失業、家族の不幸などは、誰でもできれば早く忘れたい出来事でしょう。酒や音楽、旅行などの気分転換によって、一時的にそこから逃避することは出来ますが、正面からこれに立ち向かうことを避けていると、いずれ別の形で降りかかってくることになります。宇宙の法則に照らせば、このような出来事はすべて必然があって起こされます。自分の周りで生じている、一見困難な出来事はすべて、あなたの成長、学びのために故あって用意された、必要なものなのです。この視点を忘れないでいることにより、多くのものに対する接し方が変わってきます。みんながお互い、何らかの形で支え合い、影響し合って生きていることが判れば、すべての出会いに感謝の念を感じるようになります。

 これを押し進めてゆくと、社会的規模で起こされるマイナス現象に対しても、被害者意識にどっぷり浸かって一方的に非難・糾弾を繰り返す、自分の姿にも気付くようになります。おいしい汁ばかり吸っている官僚、特定の人たちの利益だけを優先してきた金融業界と大同小異のことを、身近なところでやってきた自分、子供がダイオキシンの被害を受けると怒りに震える一方で、ゴミを減らすような努力は何もせず、ペットボトル入りの飲料などゴミのもとを増やすだけの品々をほいほい買いあさっている矛盾だらけの自分、に気付くようになるでしょう。
 

自分を責めたがる人
 
 想念観察をやっていると、とくに今まであげた例がそうでしたが、自分のあらばかり目立ち、落ち込むことがしばしばあります。自分の「足りないところ」にばかり目がいって、これをひたすら攻撃したり、無理に変えようとしたりすることにエネルギーを注いでいると、「その状態を認めたくない、許さない」ということになりますから、いつまでもその状態から脱却できません。

 そんな時は、ちょっと冷静になって見て下さい。
 「君、そんなに完璧な人だったんですか」と。

 足りないところがあったっていいのです。まず、それを認めて下さい。悪いことだと思わないで下さい。なかなかそう出来ないなら、そうできるまで、その想念を観察していて下さい。第一、完璧な人だったら、この世に生まれてくる意味がないではありませんか。
 
 自分を責めることは、他人を責めることにもつながります。他人と自分を比べた時、人はギャップを感じます。自分と他人の優位がいつ逆転した(と信じた)かによって、流れる想念が変化する訳です。つまり、自分を責めたがる人は、「自惚れ屋」さんでもあるのです。これは、「優劣意識」という価値観が自分から離れないことによります。日常生活のあらゆるところに、この価値観は転がっています。自分がいかに、このモノサシを大事にしているか、ていねいに観察して下さい。
 

「精神世界」は駆込み寺か?

・「オ○ム真理教」は未来のあなたかも
 あなたは、ニューエイジに関する本や、従来の価値観を否定し、新時代をリードするような書物の信奉者、あるいは「精神世界」を探求するグループに属している人だとします。周りの人は「何だか変な人」という目であなたを見ています。どうせ反論しても無駄だ、自分の境地など判ろうはずがないと、あなたは半ばあきらめています。場合によっては、「変人」扱いされることにある種の歪んだ快感、優越感を感じ、そのことに何の疑いも持っていません。

 ある新興の宗教団体が、世間を騒がす大事件を引き起こしました。嫌悪感と軽蔑のまなざしで、あなたは彼らを見ています。「ふん、『真理』を曲解したトンデモナイ連中だ」と。
 さて、そういうあなたはどうでしょうか。
 自分の意にそぐわない人たち(悪魔)は退け、自分にとって心地好い人やモノにだけ取り巻かれ、特定の価値観(神)に固執し、自分たちだけがいずれ救われると信じ、隔離されたバリア(教団施設)の中に安住する人の集まり・・・あなたが彼らとどれだけ違うというのですか?

・現実逃避の軟弱者たち
 ファミコン/アニメオタクといった、虚構の世界に本拠地を持つような人たちも、同様の傾向にあります。自分が打たれ弱く、もろく傷つきやすいのを棚に上げ、差別意識を持って世間に責任をなすりつけ、来てもいない未来や、異次元空間、宇宙、霊界に逃げ場を求めているだけではないのでしょうか。自分の周囲に、友と呼べる人は、慰め役の妖精、守護霊、宇宙人しかいないというなら、なんのために精神世界の学びをやっているのでしょう。あなたが環境に不満を持ち、周りが変わらないと嘆くなら、自分自身、何一つ変わってないと宣言しているようなものです。せっかくの「教え」が実生活で生かされていないわけです。世の中に不平不満をいう前に、身近なところで、何か地道な努力をしているんでしょうか。
 

楽しんで自分を育ててゆこう

 なんとか消し去ろうとした、恐怖心、優越意識といったエゴが、振り返って見ると、自分を目覚めさせる原動力になっていました。そのおかげで成長できたのですから。エゴにすら感謝出来る日がいずれくるはずです。何も無理に排撃したり、忌み嫌うようなものではなく、必要あって具わっているということが自然に判ります。
「私」の本体は光であり、様々な色のついた薄い膜(エゴ)がそれを包むように守ってきました。この薄い膜の正体を知り、本来の光を取り戻そうというのが、想念観察の目的でした。それを「たいそうなもの」にしてしまうかどうかは、本人次第なのです。
 長い道のりかけて、この自分をどう育てていくか、という自分自身の「育児日記」だと思って、楽しく、真剣に実践していってはどうでしょうか。人から得た知識はなるほどステキに見え、きらめき輝く美しさを持ち、それに深い共感と納得を覚えることでしょう。でも、自分自身の体験は、その千倍の価値があります。人の人生を追体験するのでなく、何百、何千という生まれ変わりの中での、今、この時しかできない、足りないところだらけの、ミスばかりしている可愛い幼児である自分を、自分自身で育てていくことに大きな喜び、楽しみを感じるならば、今、この瞬間の「私」の一バージョンを精一杯味わおうという気になります。
 一瞬一瞬自分が生きているんだ、生かされているんだという実感を、想念観察を通じて存分に味わって下さい。
                                終わり