『はじめに』

 これは、「宇宙人がくれた21世紀の聖書」「新生宇宙人へのパスポート」などで「創造」に縁付かれ、あるいはFIGU日本(FUJI日本の前身)刊行のマイヤー書で創造に対する認識を深められた方で、「創造との一体感を体験したい、創造への道を歩む想念観察をしたい」あるいは、「してみてるけど、うまくいかない」という方のための、ひとつの参考書です。まあ、想念観察という道のガイドブックとお考え下さい。
 ただ、この道の案内役の「想念」というのは、本当に人それぞれですし、それを観る人の観方に至っては、それこそ人の数だけあります。しかも、このガイドの筆者も、その道の途中です。ですから、このガイドはあくまで「ガイド、参考書」であり、「教科書」ではありません。他にもいろいろな方がお書きになっていますし、このガイドはそれらとはかなり違った表現をしているかも知れません。しかし、その根本は同じであると、筆者は確信しています。皆様には、是非いろいろな方のいろいろな表現から共通点を導き出し、更にそれをご自分の言葉で表現なさってみて下さいますよう、お願い申しあげます。
 
 

『何故想念観察は難しいか』

 全ての想念を観るのが、想念観察です。たとえば、「このテストで90点とれなかった、もう東大はダメだ」という想念にまみれた人を、貴方は「近視眼的」と思うでしょう。でも、「この会社に入った、もう俺の人生決まったようなもの」という想念を持つ人を、近視眼的という人がどれくらい居るでしょうか。それは、「今の会社ランキング」というひとつの価値観でしか、人生を見ていないという事です。
 手っ取り早い話、会社を辞めちゃえば、もうそんな考えとはオサラバになります。そこまでしなくても、その会社で大ヒット商品でも作れば(「たまごっち」のバンダイみたいに)、全然話が違ってきますし、それまでの業界第一位でも何か会社内で不祥事があれば、やっぱり話が違ってきます。それらの想念だって、入社当初からどこかにあるはずです。それを視野に入れずに、「会社ランキング」というモノサシだけで判断し、行動するのが、いわゆる「分離」にあたります。

 「分離」とは、つまりは「観方、価値観」です。私らは、永の分離暮らしで、状況を分離してある観方に決めてしまうことを、「安定」だと思うことが無意識に習慣になってるので、「どう分離してるか」は、最初のうちは意識して観ないと判らないのです。それは私らの長年の習慣に背くこと。だから想念観察は難しいのです。だからエネルギーが要るのです。慣れですよ、慣れ。最初は大きい事件を、大ざっぱに、慣れたら細かく。そのうち、ちょっとした仕草一つで、観察が出来るようになります。そのやり方が、以下に書いてあります。
 とにかく、たゆみない意志、これは絶対必要です。
 
 

『貴方について』

 「貴方」という言葉に込められる意味は多種多様です。会社では「役職」の貴方かもしれないし、あるいは「同期入社」の貴方だろうし、家庭では「夫」「妻」、「親」「子」、「飼い主」だし、町では「消費者」「歩行者」かも知れないし、ある時は学生時代の級友だし、またあるときは酒場の常連としてだし・・・
 ここでは、もしくは真理関係の本では、または私たちの間の話の中では、「貴方」とは、「自我」であり、「真我」です。いずれを指すかはっきり判ることもあれば、はっきり判らないこともあります。両方のこともあります。

 はっきりしてくれって?・・・・自分で考えるから、いろんな読み方が出来て、面白いんじゃありませんか?
 
 

『創造との一体感』

 「宇宙人がくれた21世紀の聖書」P.245に、愛についての定義があります。

「愛とは、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと、自己を同一視(一体化)させること」

 「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」とは、言い換えれば創造です。創造が形を変えて存在しているのです。それはおわかりのことと思います。つまり、愛とは、創造「と」、自己「を」一体化させることです。創造「を」、自己「と」一体化させることではありません。それは単なる自我の欲望です。

 つまり、創造との一体感とは、言い換えれば自己を創造の中に埋没させること、自己を創造の一構成分子と考えることです。それは、創造に対する完全な信頼なくしては、実現しません。というより、できっこありません。その信頼を自分の中に培う、または検証する為の手段が、想念観察です。
 怖いですか? でも、今までどおりでは何も変わらないと思ったから、あるいは自我を中心とした生活ではいけないと思ったから、貴方はこの道に入ろうとするのではありませんか?
 
 

『想念について』

 思い切り大胆に考えましょう。想念を生み出すのは意識です。貴方の想念は、貴方が生み出しています。その貴方の人生は、出世以前の貴方の魂が考え出したもの、いわば魂の想念とも言えます。ならば、貴方の周りの人の人生だって、その方の魂の想念です。しかも貴方と周りの人は、この世でお互いの間で何を為すかを、魂同志で約束して生まれています。言い換えれば、貴方の人生に他の方の魂の想念が、関わっているのです。
 また、出生後も、潜在意識でお互いに了承した上で、想念を与えあっています。貴方の人間関係が、皆そうです。
・・・ということは、貴方の人生を作る想念は、貴方のものだけではないと言うことになります。(ここで付け加えます。それらの想念を、貴方は「自分自身そのもの」と錯覚しているので、それを「自分」(個性)という境界線にして、放さないのです)

 人の作った物には、その人の想念が込められています。手作りの良さというものですね。しかし使う人の想念だって、入ります。使い慣れた道具とは、使う前に自分の思うとおりに動いてくれます。貴方の周りの物に、貴方の想念が入ります。貴方が一生懸命にデザインし、整理した部屋は、そのまま貴方が反映しています。
 地球は地球の意識の想念の産物です。その地球の上にある陸・水・空気も、当然地球の想念そのものが、もしくはそれぞれの想念が地球の想念に協力するために、存在させているのかも知れません。その水・空気(の一部、酸素)・陸の一部(栄養)が、貴方の体に入ります。想念は物に移ります。地球や水・陸・空気の想念が、物の形で貴方の体に入るのです。そして、貴方の想念を取り入れて、それらは体から出ていきます。

 このように、この世の全てが、想念でつながっています。

 何が言いたいか、おわかりですね。貴方の周り全てに貴方の想念があります。ですから、想念観察は全てを観なければなりません。

 ただ、それはかなり困難です。また、たとえば石の想念など、はじめは感じません。はじめでも感じられ、しかも深く掘り下げられるのは、やはり自分の想念です。だから、まずはご自分の想念だけを観察して下さい。人に対する、あるいは物に対する、ご自分の想念を観察して下さい。

 そして、いつもご自分の想念を観察してください。さっき申し上げたように、貴方の想念は貴方だけで創るのではありません。貴方の周りの存在の想念が、一緒に貴方の想念を創っています。だから、貴方の想念を観るということは、それに関係する貴方の周りの(人・物・社会の)想念をも観るということです。つまり、貴方の想念を観るだけで、周りの存在全ての想念を観られることになります。
 また、逆に言えば、貴方も、周りの人の想念づくりに一役買っています。人付き合いの上で、これは当たり前のことです。だから、貴方が変われば、周りも変わります。貴方が深いところで変化すればするほど、周りの変化はスムーズに進みます。なぜなら、深いところ(潜在意識、貴方が普段感じないところ)で、全てがつながっているからです。
 同じような理由から、「周りだけを変える」というわけにはいかないのです。周りが変われば、必然的に貴方も変わらざるを得ないのです。

 「内が外であり、外が内である」とは、こういうことです。
 つまり、「独立した自己など、存在しない」ということです。
 
 

『想念観察とは』

 さっきもお話ししました。想念観察とは、つまりは貴方の全ての全てを観察する行為です。観察とは、貴方の現実(貴方自身の反応も含みます)をただありのままに観ることです。簡単でしょうか? たとえば、貴方は自分が打ったテニスボールが人の家の窓ガラスを割った(こんな弱いガラスの家、今時ないかも知れませんが)ら、すぐに謝りに行けますか? 「しょうがない」と思うまでに、何分かかりますか? その数分、貴方はガラスを割ったことを、「恥ずかしい、怒られるのヤだ」などと考えています。もしかしたら、それは「割った」という事実を観たくないからかもしれません。
 いや、「しょうがない」と思うなら、ガラスを割った現実じゃなく、「しょうがない、悪いことなんだから、謝らないと恥だ」というプライドをかわりに観てるのかも知れません。
 こういう、観て観ぬ振りって、たくさんありませんか?
 でも、「やっぱり気分悪い、謝りに行こう」と行った貴方は、すっきりした夜を送られるでしょう。それは、貴方が自分の気分の悪さと、「謝ろう」という自分の気持ちを、他の思い(プライド、ヤだ、他)をかぶせることなく、素直に観たから、そうなったのです。

 「そりゃ観たくないさ、嫌なことならね」と仰いますか? じゃあ、観たい想念の場合はどうか、また考えてみましょう。
 貴方が男だとします。ナンパしました。成功しました。大成功です。ルンルンです。「次に会ったらあそこに連れてって、こう行って、次は・・・・(*^o^*)」と、一人でニヤけたりして。
 さて、貴方は大事なことを忘れています。それは、「会ったあとの相手は、貴方と会う前の相手じゃない」ということです。
 つまりこうです。相手は「あの人最初カッコ良かったけど、話してみたらあんまりピンとこない。でもこっちの言うこと聞いてくれそうだから、3,4回付き合って、いろいろ貰ったら、・・・ね」とでも思ってるかも知れません。こういう相手とは、必ずどこかで少し話がずれたりするものですが、のぼせた貴方は、気づきません。観られません。

・・・ね? この場合、「うまく行った」という現実は、出会ったとき限りなんです。それを放そうとしないで、次の「話がずれる」という現実を観ないものだから、たぶんあなたは「ある日突然」フラれた!!と感じるでしょう。突然なんかじゃありません。嬉しいことばかり観て、途中の変化を観なかった貴方が悪いだけです。
 いいものばっかり観ようとすると、こういうふうに、しっぺ返しが来る、ということです。

 そういうものまで観てしまおうというのが想念観察です。実際のやり方は少し違うところもありますが、それはあとに述べましょう。今は、「観てるつもり、観たくない」というものが意外に多いということだけ、判ってください。
 そして、「全てが創造である」ということは、観たいものも、観たくないものも、全てが創造であるということを、はっきりと銘記してください。
 
 

『観察ということ』

 全てを観察するのは、なかなか大変でしょう? なぜ大変か、つまり観察出来ない対象があるという貴方の状態を観ることで、貴方の今の「観察」というものが判ってきます。
 結論から言います。観察できるものは、貴方を利する(すぐにでも、将来にでも)と信頼できるものです。たとえば受験勉強などは、「将来のあなたの為になる」と信頼してるから、いまの苦労を必死に観ているんです。もしそうじゃなかったら、やるでしょうか?
 また、前項『想念観察とは』で挙げた、ガラスを割ってもそれを認めない例は、それが自分(感情、財布、プライド、時間、賞罰)に不利だからです。ナンパ相手とうまくいったことを観ていると、幸せ気分という「利」が生まれることを知っていますから、貴方は観ます。観続けます。そのあとのわずかな行き違いを観ないのは、それを認めると自分のルンルン気分が飛んでいってしまい、「不安」という「つらい闘い」を強いられるからです。

 つまり、貴方が「自分の利になる」と信頼できるものしか、貴方は観察できません。
 裏返せば、「自分の不利になるもの」、信頼できないものは観たくないのです。
別にそれは構わないのです。あとで述べるように、現実的には価値観も必要なわけですから。それに、その状態とて、「全て」の一部なのですから。ただ、「全てを観る」為には、「信頼できるもの」「信頼できないもの」とに分けることは、妨げになります。ですから、そのための「モノサシ」−つまり価値観−も、必要ありません。「あらゆる価値観(既成の、あるいは貴方独自の)にとらわれないように」と言われる理由は、そこにあります。
 想念観察でまず身につけねばならないのは、ここです。
 全てを観るためには、全てへの信頼が必要です。

 全てを観察するために、隠れている「観察できない理由」を見つける、これも想念観察の一つの目的です。「誰それは人当たりが良いから好きで、この人はそうじゃないから嫌い」というのも、「マイルドな人間関係を良しとする価値観」です。どんなことでも、「好き」の反対には「嫌い」があり、それは一つの価値観のプラスとマイナスです。そして、その「プラスとマイナス」も、それを生む価値観自体も「全て」の一つです。観察の対象です。そうやって、徐々に自分の潜在意識を掘り下げ、想念の源流、つまり自分自身の内側に対する理解を深めていくのです。

 別に価値観自体がいけないと言っている訳じゃありませんからね。「交通安全」という価値観を無視したら、貴方は想念観察どころじゃなくなり、下手するとそれ自体を出来なくなる(死んじゃう)かも知れません。現実には、どうしても必要な価値観というのがあります。もし貴方が価値観自体を「いけない」と考えたとしたら、貴方は「価値観にとらわれてはいけない」という価値観から、「価値観とは、いけないもの」と判断しているのです。それも観察すればいいのです。

 一方で、ある嫌な事柄を観察するために、貴方は理由を考えるかも知れません。構いません。理由を探してください。いろんな角度から。自分の頭からひねり出したものでも、他の人の考え方でも、「あっ!」と感じる考え方が現れるかも知れません。それは、貴方の従来の価値観とは違う観方をしようとすることであり、ある意味で「認識瞑想」です。また、観やすい想念でも、別の角度から観ると、更に信頼が深まるかも知れませんし、あるいはその観方が全然通用しないケースに唖然とするかも知れません(海外旅行などは、そうでしょうね)。これも認識瞑想です。そうやって、貴方は徐々にいろんな観方を身につけ、一つの観方(モノサシ)に拘らなくなります。
 
 

『なぜ全ては創造なのに、流さねばならないか?』

 想念観察では、「流せ、手放せ、捨てろ」と言われます。なぜでしょうか。

 「流さねば、放さねばならない、捨てねばならない」と言うより、放すのが当然なんです。なぜでしょうか。さっきの「ナンパのあと振られた」例もあります(ルンルンの想念を放しませんでしたね)が、ここではこう考えてみましょう。

 貴方はお湯をガスコンロで沸かしています。沸きました。ガス栓をひねり、火を消します。栓を廻して「カチッ」と音がしました。貴方はやかんを持って、何の心配もなくガスコンロから離れます。「本当に火が消えたか?」と確認したり、「ガスが漏れてないか?」と臭いをかいだり、「火が消え残ってないか?」と、一度離れたのにまた戻って確認する、なんてやりませんよね。貴方は、ガス栓を閉めればガスが完全に遮断され、火が完全に消えることを疑っていません。また、ガス栓を閉めて「カチッ」と音がしたら、それで栓は完全に閉じることを信頼しています。だからこそ、貴方はガス栓を閉めるとき、「カチッ」という音を聞いたら、何の心配もなく、ガスコンロから離れられるのです。そして、貴方はゆっくりとお茶を入れ、くつろげるわけです。要するに、ガスを消してから次の行動に雑念なく移れるわけです。

 という具合に、「放す」ということは、放す対象に全幅の信頼を置いているから、出来るんです。

 そうでしょ? 人にものを頼むときだって、そうでしょ? 信頼できる人に頼むほど、安心して任せられるし、頼んだあとで心配なんかしませんね。放っておけますね。

 そして、放せば、次に来るものに集中できますね。前の出来事にこだわることなく、次の出来事を観ることが出来ます。それだって、前のことを信頼して放すから、出来るんです。それの繰り返しです。全てを信頼して、放すんです。信頼して放す練習です。

 想念観察で培うのは、「創造への絶対信頼」です。「創造」とは、「全て」です。前の出来事、今の出来事、次の出来事、全てが創造です。だから、全てを信頼するんです。大事なのは、本当に瞬間瞬間だということです。会話のときは、本当に話す度に、聞く度に想念があるわけで、それをすべて信頼して放すのは、地球人にとっては、はじめのうちは本当に大変です。
 ある意味で、「感謝瞑想」とは、信頼するプロセスを徹底的にシンプルにして、瞬間瞬間で出来るようにするための特効薬と言えるでしょう。

 一方で、「本当に信頼できるか」と検証してください。その検証結果も、信頼して放して下さい。信頼のあまり放したくないという人の例は、さっきのナンパの話で済んでますね。信頼しないとき、あるいは信頼したときの例は、ガラスを割った例のところで、お考えください。また、ご自分で、そういう話をいっぱい作ってみてください。喩えでも実体験でも結構です。そうして「本当に信頼できる」と検証できれば、信頼するのが楽になります。最初は少しずつ、そしてどんどん楽になっていきます。
 
 

『なぜ放すのが、愛なのか?』

 前のセクションの話から考えると、要するに、「放すだけの信頼を持つことが、なぜ愛なのか?」という質問になります。

・・・・「そぉんなあったりまえの事、何で聞くの?」と申し上げては、いけませんか?

 これじゃあね・・・あまりにもあんまりですね・・・

 こう言うより、「愛を感じるまで、信頼を深めてください」という方が、良いでしょう。つまり、「来たままを簡単に放せれば放せるほど、来たものに対する信頼は深く、愛は深い」ということです。

 愛とは、対象を変えようとする行為ではありません。それはそのままの対象を信頼していないということになりませんか?
 
 

『なぜ信頼すると、いいのか?』

 信頼し、認め、愛するとなぜいいのか?

 単純です。
 「与えたものが与えられる」
 「想念に信頼・愛を与えると、想念が信頼・愛を与えてくれる」

 大事なことは、この法則は宇宙の大原則だということです。だから、これは想念だけじゃなく、現実に対してでも、、自分の行動に対してでも、他人に対してでも当てはまります。つまりはすべて、すなわち創造に対しての全幅の信頼を学び確立するのが、想念観察ということです。

 これ以上説明したくありません。本当かどうか、どうかみなさんで御検証ください。

 付け足します。「全ての想念」を信頼しなきゃなりませんよ。
「想念に信頼・愛を与えると、想念が信頼・愛を与えてくれる」という想いも、観てください。
 
 

『実際の観方』

 ここまでの説明で、ある程度は述べましたが、まとめてみます。

 想念を観るということは、つまりは想念を信頼する、ということです。信頼できるものなら、怖がらずに、たっぷり感じればいいのです。リラックスして、体で感じてみて下さい。頭だけで考えず、体全体で感じて下さい。貴方の体を、想念に預けるんです。それが想念に対する、貴方の信頼の証です。感謝瞑想をしながらだと、もっと楽にできるかも知れません。

 今までと、どう違うんでしょう? 想念観察を知らなかった貴方とは、どう違うんでしょう?
 今までは、どこか力んでいませんでしたか? 喜びの時は「失いたくない」と、辛いときは「感じたくない」と、力んでいませんでしたか? それは、貴方がその想念、もしくは次に来る想念を信頼していないので、そうなってしまうのです。リラックスしてたっぷりと感じて下さい。もちろん最初は努力が必要です。感じて良いのだと納得したいのなら、理由を考え出しても結構です。いろんな観方を知る、ということで、必要な作業ですから(『観察ということ』参照)。そのうち観られるようになります。必ずなります。観馴れるにつれて、他の想念を観る余裕が生まれるからです。その間は、その「力んだ状態」を、「リラックスして」感じて下さい。
・・・・・禅問答みたいですね(笑)。ここが想念観察の、一つの関門です。

 他にもやり方はあります。「テレビドラマを観るように」がありましたし、「笑いながら手を振る」というのもありました。「中心に納める」というのもありました。一見違いますが、共通点があります。それは、「リラックス」です。どんな想念も、貴方に何も危害を加えるものではない、全ては創造の顕現なんですから。緊張する必要は、全くありません。

 「なぜ放すべきものを体に入れて感じるのか?」
 はい、当然の御質問です。
 『なぜ全ては創造なのに、流さねばならないか?』をご参照いただくと、判ると思うのですが、まとめましょう。

 つまりは、「笑いたかったら思いっきり笑いなさい、泣きたかったら思いっきり泣きなさい」ということです。
 理由は簡単です。「その方が、後に残らないから」です。悲しみに打ちひしがれたとき、全てを忘れて思いっきりワァワァ泣いたあと、すっごぉーくスッキリして、悲しいことなど何もなかったかのように、満ち足りた気分になることがありませんか? それはなぜでしょう?

 それは、悲しくて泣くことを、貴方が信頼したから、悲しみが流れていったのです。貴方は「泣きたい、悲しい」という想念を信頼し、その想念に身を任せました。その信頼に応えて、悲しみの想念は貴方を信頼して貴方を解放したのです。ご自分で、やってみてください。

 これが想念観察です、ある意味では。これに熟練して、あらゆる想念に対して、一瞬のうちに、何のためらいもなくこれが出来るようになれば、貴方は常に「 いま の想念を いま 観切る」状態でいられると思いませんか?

 「プレアデス+かく語りき」という本を、みなさんならご存じですね。あの本にある「感情こそ、鍵です」という言葉は、こういうことなのです。
そして、これがさっきの「関門」の通り方のヒントです。もちろん、こんな苦労なく、スルッと通られればもっといいんです。

 ここで、きつく、きつーく申し上げておきます。
 「すっごぉーくスッキリして、悲しいことなど何もなかったかのように、満ち足りた気分になる」ことが想念観察の目的じゃありませんからね! それは単に、満ち足りた気分を放したくないだけです。そんな事してると、「ある日突然フラれ」ますよ! その「満ち足りた気分」もちゃんと観てくださいよ。その一方にある「すっきりしない、解放されない」という状態も、「全て」のうちであり、創造です。お忘れなく。
 想念を、創造を「信頼すること」が想念観察の目的なんで、「信頼され、解放されること」ではないんですからね。「解放」は、貴方が信頼したことに対する想念の「信頼」であり、想念から見れば「与えられたものを与えた」だけです。

 貴方がすべきことは、「想念を、創造を信頼する」事であり、「創造に信頼される」事ではありません。

 くれぐれも、本当にくれぐれもお間違えのないように。

 「もし間違えてしまったら」? 同じです。その「間違ったこと、間違ったと思っている貴方」を、信頼なさればいいのです。実際、それで貴方はまた一つ貴重な体験をなさったのですから。

 具体的にお話ししておきます。もちろん、一例に過ぎませんが。
「すっごぉーくすっきりして、満ち足りた気分」をいざ観て放そうとすると、離れません。どうしたのでしょうか。
・・・・どこかで力んでいませんか? 「すっきり」をしっかりとつかまえていませんか? 「放さない、放したくない」と、力を入れていませんか?他の想念をパスしていませんか?
 その状態を、ご覧下さい。 演歌の世界じゃないんですから、放して下さい。「何を?」・・・「放したくない貴方」を。そして、「すっきり」を放してください。

 「怒りの想念も、爆発させていいんでしょうか」というご質問ですか。
 感じればいいんです。爆発させる必要は、必ずしもありません。時と場合というものがあります。それは、貴方自身が「いまはヤバい」と、想念として出してくれます。それを信頼して下さい。全ては創造なんだから。そうして、「なぜブレーキがかかったか、自分の都合だけを考えたのか、他に理由があるんじゃないかと考えたか、どんな理由か」を、明らかにして下さい。

 こういう「怒り、悲しみ、無力感」という、通常排除されやすい想念を感じることを、「感じることを自分に許す」という表現をすることがあります。要するに「排除する事じゃない、悪いことなんかじゃない、だからたっぷり感じていいんです」ということです。
 
 

『想念観察での感謝瞑想』

 なんだかよく判らないお題ですね。読んで判らなかったら、そのまま飛ばして良いです。ここでは、先ほどちらっと申し上げた、「想念観察中の感謝瞑想」について申し上げます。まあ、想念観察中に限ったことではないのですが・・・
 「感謝瞑想」とは、ご存じのように、「ありがとう」をただ繰り返すだけのことです。
 「ありがとう」とは、行動としては、「受け入れる」だけのものです。対象に対して、何も働きかけません。おわかり戴けますか?

 つまり、感謝瞑想中は、自我は「受け身」になります。ここがポイントです。
 「観る」という行動は、実は「対象への働きかけ」であり、能動です。これを「感謝」という受け身にすることで、観る対象そのものを「受け入れるだけ」の状態に、自我を置くのです。「受け入れるだけ」とは、言い換えれば完全に信頼しているということです。そうでなければ出来ないことです。常に常に、そうしているのです。完全に信頼していればこそ、それは可能です。なぜなら、信頼していれば観る対象を次々に放せるので(『なぜ全ては創造なのに、流さねばならないか?』参照)、一瞬の間に逆転する事態をも、前の状態に拘ることなく、楽々と受け入れられるのです。
 そういう状態に自我を置くのに、感謝瞑想は絶好の手段です。

 ここでは、感謝瞑想をする自我、という表現をしています。それで良いんです。道の途中で、「感謝瞑想する自我」をお感じになられることが必ずあるでしょう。そういう状態も、いずれは観ることになります。その時は、「感謝している対象、感謝の理由」も、観てください。

 「ただし」、ここでも注意書きがあります。いつもと同じ事です。
 「感謝瞑想中は受け身になる」と思った瞬間、それは「受け身になる」という能動になります。その状態も感謝の対象です。「放しなさい」と言うことです。

 「感謝瞑想する自我」が出たので、事のついでに「想念観察する自我」についても触れたいと思います。
 さっき述べたように、「観る」というのは能動です。実は「観る」という想念なのです。想念なら、それを感じることが出来ます。受け入れること、すなわち信頼することが出来ます。・・・・つまり、「想念を観察する」という想念を感じて下さい、ということなのです。「芋づるみたい」?・・・そうですね。次々に想念は出てきます。それを次々に観ること、それが大事です。
 
 

『観るべき想念とは何か』

 前にいろいろ例で拳げましたが、もちろんもっとあります。さて、どう説明しよう・・・・

 「すべて」と考えていたら、こういう説明を戴きました。筆者もこの通りだと思います。

 「会話の時、自分の話す話題を見よ。当たり障りのない話題か? 共通の話題か? 何についてだ? 自分の興味か? 相手の興味か? なぜその話題を選んだ? その理由に、理由があるか? その時の自分の声を見よ。楽しそうか? 嫌そうか? 舞い上がってるか? 暗い声か? 優しそうか? つっけんどんか? つらそうか? 投げやりか? 今にも泣きそうか? どんな声だ?
 自分の態度はどうだ? 優しそうか? 優しさをつくろってるのか? 腰が引けてるか? 楽しそうか? 楽しい話とは裏腹に、つまらなそうな表情しておらんか? おどおどしとらんか? 悲しそうか? 今にも怒りだしそうか? よそ見しとらんか? どんなだ?

 何を考えてる? 相手のことか? 好きか? 嫌いか? つまらないか? 自分の話はどうだ?
 自分で喋っていて、楽しいか? 楽しくないか? 楽しくないなら、何でそんな話題を選んでる?
 想念観察しなきゃ、と考えてるのか? 「あっ、見逃した、観なきゃ」か? 「あーまた見逃した、どうしよう、困った」か? 「やった!完璧に観れた、すごいぞ!」か?
 「相手から受ける印象はどうだ? 相手の表情はどのように見える? 声の調子はどう聞こえる? 話す内容はどう感じる? 態度はどう感じる? それらが、自分の話で、どう変わる? 怒らせたか? じゃあ、それでおまえはどう感じる? それはなぜだ? その感じたことを、出すのか? 出さないのか? 出さないとしたら、それはなぜだ?」
「こうして相手から反応を貰ったら、それに自分が反応する、それを観察せよ。そして、また最初に戻れ。そう、繰り返しじゃ」

 「言っとくが、相手とは人間だけじゃないぞ。たとえば、おまえが悩むこと自体だって、おまえが使う道具に対しての扱い方だって、想念観察の対象なんじゃからな」
 「忘れるな。この世はすべて鏡で出来ている。そしておまえも鏡だ。それに映ったものすべてが、想念観察の対象じゃ」
 「想念を解釈するな。してしまうんならしてもいいが、その、解釈すること自体やその内容だって、想念じゃ。解釈したら、同じように流せ。もちろん、解釈したその内容もな」

 もちろん、こんなに最初からは無理ですが、努力してください。少しずつ増やさないと、自分の器は大きくなりません。そして、「大きくなる」というのが、魂の不思議です。
 
 

『落とし穴』

・想念が来ると緊張する・・・ハイ、その「緊張する」が想念です。「緊張」を観 てください。

・「想念が次々来る、消したい消したい」で止まる・・・消せますか?元を断てます か? 元とは何?貴方じゃないですか? それを貴方は消せるんですか?
  実際、そうなんです。全ての想念を否定していくと、最後には「全部消えろ」 という想念も消さねばならない事に気付かざるを得なくなります。それを消しに かかると、このようなジレンマになります。

・想念を観てるようで、実は「観てる」という想念にはまっている・・・何を観て るんですか、最初はしっかり確認しなければなりません

・何の想念があるのか、気づかない・・・もっと観なさい、自分を観なさい。観よ うとしなきゃ、観えません。

・「救われ、楽しくなる、安心する」というゴールを設定している・・・ゴールな んかありません、創造も進化するんだって、知ってるでしょう? ただ、その  「ゴールを求める」ということも、観逃さないでください。

・自分で気づかないうちに、ある想念を隠している、観たくない・・・隠すという ことは、その存在を認めてる、観てるということですよ。それを観ない振りする なんて、めんどくさくないですか? まあ最初は、その状態を認めることですね。

・喜びを、放したくない・・・どうなるか最初に言いましたよ。それより、「放し たくない」想念を観たら?

・想念が離れていかない・・・上と同じです。「離れない」状態を観てください。 「いま」注目すべき対象が、想念そのものから想念に対する想い(これも想念で すよ)に変わったことを、観逃さないで!!

・喜びにはまって、「あ、いけない、観逃した」まで一気に行く・・・・二ついっ ぺんになんか観られません。まずどちらかを観てください。一方を観る間は、も う一方は脇に置いておいて下さい。それが面倒、あるいは難しいのなら、「あ、 いけない」の方から観てはいかがでしょうか。それが「いま の想念」だからです。

・想念にはまって、困っている・・・・困ってる貴方を観ればいいんじゃないです か? 困ったっていいんです。このセクションの最初の項をもう一度お読みくださ い。

・想念の落とし穴に入ってるのかどうか、わからない・・・「判らない」事を見て ください。いつも変わりません。「今何を思ってるか?」だけです

・本当に今観て、今放すだけでいいのか? 過去は? 未来は?・・・一見ごもっともで すが、私たちの集会では、こう言われるでしょう。「その想念を観てください」 と。
  そんな想念を放さないで持ってると、未来への心配が現実になりますよ。貴方 は未来に心配を与えてるんだから、未来は貴方に心配を与えますよ。

・「ずーっと何も観ないでいりゃ、雑念なんか生まれないから、同じじゃないか」 ですって?
  貴方、寝ててみてください。ずぅーっと、ずうぅぅーっと。ホントに出来ます か?

・想念観察、特に嫌な想念の観察を怖がるご自分を、「創造を信頼していない」と 怖がっている・・・
  「創造を信頼していない」事を観てください。その恐怖自体も、創造なんです から。
  「それが怖い」? はい、それ観て。常に常に「 いま の想念」です。

・落とし穴がいや・・・・その想念を観ればいいんですが、実は落とし穴も創造な んだって、気付いてますか? 落ちるからにはそれなりの理由があるんですよ。
 ちゃーんとそれを観てくださいね。落とし穴からの、宿題ですよ。
 ・・・さあ、そして、この落とし穴の友情に信頼と感謝を捧げてください。

・落とし穴に入りたくない・・・それ自体、落とし穴です。判りますか? これはご 自分で答えて下さい。
 
 

『ある中間点』

 自我をわがままな現状から変え、創造の愛に目覚める為の手段が、想念観察でしたね。ここで一つ、クイズを出します。
 貴方が観、信頼し、受け入れたものは、何ですか?
 ご自分の感情、ご自分の考え、行動、性格・・・・

 「自我」ではないですか?

 「自我がこのままではいけない」という不信から始めた、「自我を変えるため」の観察が、実は「自我をそのまま受け入れるもの」だった・・・・
ギャップを感じますか? でも、それで貴方が得たのは?

 「自我というのが実は創造の声であり、自分が創造に目覚めるための鍵であり、その過程を支えてくれた友人であり、何よりも自分を存在させてくれているものであり、想念観察してくれた当人である・・・
 「自我とは、このままで、創造の愛だった!」

 何という安心感、何という感謝、何という達成感、何という喜び!
 

 さあ、また想念が来ましたね。
 「自我とは、このままで、創造の愛だった!」という想念。
 「何という安心感、何という感謝、何という達成感、何という喜び!」という想念。
 全部観ましょうね。はっはっはっ・・・ここまで来たら、楽しいもんでしょ?
 あっ・・・私にも来た・・・「はっはっはっ・・・ここまで来たら、楽しいもんでしょ?」

 ここまで来るために、貴方は(たいていの方は)一つの事柄について深く学んで来たはずです。ということは、そのほかの事柄からは学んでいない・・・・やりかけ、観かけ、手つかずの想念が、まだあるはずです。
 それらからも、貴方は学ばねばなりません。

 そうです、永遠に続きます。二度と来ない一瞬一瞬からの学びは。
 
 

『自我の役割−もう一つの中間点』

 自我をお認めになった貴方、今の貴方にとって自我とは何ですか?
・・・そう、自分自身ですね。しかし、自分自身とは、自我だけではないことを、今の貴方なら感じられるはずです。
 ならばなぜ、自我というものを持たせられたんでしょうか?

・・・一つ考えてください。この三次元において、自我なしで、貴方は貴方でいられますか? ・・・・無理でしょ?
 貴方が貴方でいるための道具・・・それが自我です。道具なら、どう使いますか?
 使うためには全体の中でのその特性をよーく知らなければなりません。・・・・それは、今までおやりになったはずですね。自我を観察する、という形で。
 さあ、次の段階です。使ってください。そして、使ったことでやって来る新しい想念を、また観てください。この段階になると、「全体の中での自我の役割を知る」という目的を、貴方は想念観察にはっきりと見いだします。
 ただし、「役割」も、その都度放さなければなりません。その時・その場・その場の人で変化するからです。職場でホサれる役だったり、姑となってイジめる役だったり、場の雰囲気を壊す役だったりするかも知れませんが、受け入れて下さい。そして、その状態を観てください。さっきの『観るべき想念とは何か』のように。
 その関係の中での、貴方を観てください。関係全体の中での使われ方を。信頼して。

 そして、たぶんまた次の認識が来ます。「自我は、全体の中で、実は今までも完全に使われていたし、今もこのままで完全に使われているんだ」という認識がです。
 つまりは、「全体の中で、自分は今までも、今も、そしてたぶんこれからも、自分であるという、完全な存在理由がある!」ということです。信じられますか? 究極の存在理由だと思いませんか? 絶対肯定だと思いませんか? それを思いっきり感じたいと思いませんか?
 そして、「いつでも」、「どこででも」、「誰にでも」、それを完璧に成し遂げてしまう創造・・・すごいと思いませんか? いつもいつも、そうなのですよ。

 たぶん、道を進むにつれて、貴方はこの認識をますます深めてゆくでしょう。 それにつれて、貴方の創造に対する信頼は、深まる一方となるでしょう。
 
 

『意識の拡大』
「意識を拡げる」
・・・・・・心地よく、また危険な言葉です。この言葉をまともにとった貴方は、何をするでしょうか。
 他の意識体(人)を、自分の意識の中に取り込もうとしませんよね? 領土拡大の感覚で。

 そうじゃないんです。

 つまりは、「心の窓を開きなさい、ドアを開けなさい、あらゆるものを信頼してどんどん通しなさい、風通しをよくしなさい」ということです。つまりは、「つながるものがたくさんになる」のであって、「他のものを自分の意識の中に取り込む」のではない、ということです。
 「自分」を「家」とすると、「家を風通しよくしなさい」であって、「家を大きくしなさい」じゃないんです。

 「意識の拡大」・・・・・・・すっごぉいひっかけ!
 
 

『チャネリングについて』

 他の方の場合がどうなのかはそれぞれにお聞きいただくとして、筆者にとって、チャネリングとは、「想念観察のおまけ」です。想念観察すると、想念を放せます。想念が貴方の意識から離れます。自分の想念がない時間が出来ます。その瞬間、他の意識の想念が、互いの潜在意識を通じて、貴方の顕在意識にポンと入ります。貴方の想念を少しでも放せるようにならないと、これは起こりません。そういうことと思います。筆者からはそれだけです。頑張ってください。

・・・・一つ忘れてました。チャネリングは、やはり想念観察の一環です。チャネリング内容から得られる、あるいはチャネリングする事自体で来る想念を、観察して下さい。いままでと同じです。想念を貰う相手に、これまでよりも広がりが出てきたというだけの事です。

 チャネリングでつながる存在は、たとえて言えば、宇宙学校の先輩であり、OBであり、先生です。自分の意識次第で、つながる相手が変わります。わたしたちの世界の学校だって、自分の活動範囲が広がるにつれ、学校がある地域社会の中で、クラブの現役・OB関係、予備校の師弟関係や同級生、ゲーセン(ゲームセンター)仲間や暴走族など、学年を超えた仲間ごとのつながりが出来ますよね。それと同じです。潜在意識ではいつもいろんな存在とつながっており、貴方が想念を手放して「自分」という境界(『想念について』参照)を消していくと、境界線がある程度薄くなったところで彼らとつながることが出来る、貴方の顕在意識の状態に応じてつながる相手も変わる、ということです。

 そのうち、貴方も、今我々に教えて下さっているような先輩になり、先生になるのですよ(いつのことか?  それは・・・・・貴方次第!!)
 
 

『霊障・憑依』

 だんだん話がぶっ飛んできましたが、チャネリング出来るようになると、避けて通れないことです。

 憑依についても、大原則「与えたものが与えられる」は、貫徹します。貴方がこだわる(というエネルギーを与えている)、あるいは貴方が考えたくない(つまり、「考えたくない」という形で、常に意識している、エネルギーを与えている)事が、同じ傾向を持つ霊を呼び寄せます。
 ですから、「何故憑いたか」、「憑いてどうなったか」を考えることは、自分の想念を掘り下げるチャンスなのです。思わぬ想念が出てくるかも知れません。そして、その想念を観せてくれた霊に、貴方がやることは、いつもと同じです。「信頼、感謝」です。自分の姿を観せてくれた友人として、遇してください。自分の想念に対するように、受け入れてください。そうすると、大丈夫です。
 「信頼を与えれば信頼が与えられる」のです。

 ただし、注意。ここでの「大丈夫」という想念も、ちゃんといつも通りに処理してください。

 こうも考えられます。憑依する霊は、こだわりが強い、つまり個意識が強い、言い換えれば分離意識の強い霊と言えます。つまり、貴方は分離意識に憑かれるのです。
 さて、貴方の周りで、分離意識に憑かれていない人はいるでしょうか・・・・?

 みなさん、「自分」という分離意識に憑かれている、と言っても良いでしょうね。「霊」という分離意識が悪さすれば「霊障」、「自分」という分離意識が悪さすれば「失敗、泥沼、アンラッキー」です。良いことについても、事情は同じです。「霊」がやれば「奇跡」「霊験」、「自分」がやれば「能力」「優秀」です。
そして、その区別なんか、本当はないのです。どちらも、貴方が何らかの分離意識に(意識的にせよ、無意識にせよ)こだわることが原因なのです。貴方の意識が原因なのです。ちょっと過激ですが、おわかりいただけましたか?全ては貴方、ご自分なのです。

 「常に自分の観察を」と言いますのは、そういう意味もあります。さて、ここでの「自分」とは、それぞれどの「自分」でしょうか。

 ちなみに、こういうことを覚えておいてください。
 FUJI日本に、「ハテナ」という「波動調整意識体」があります。最初のうち、このハテナのエネルギーで、憑依は収まります。ところが、ある程度まで使用者が霊的に成長すると、ハテナは憑依に対して知らんぷりします。教育の一環として、実習させるのです。そこでハテナに怒っても、だめです。むしろ、「ハテナ頼み」の自分の姿を、しっかりご覧ください。それがハテナの望むことであり、貴方の潜在意識が望むことです。
 
 

『ふりだしにもどる』

 想念観察の道、すなわち創造への登り口は、人の数だけあります。「新生宇宙人へのパスポート」P.202〜の文章のような道もあれば、これからお話しするような、筆者が今歩いている道もあります。その道を歩むに筆者が座右とする、個人的に感じている想念観察のいわば出発点、すなわちふりだしを最後にお贈りします。
 

”君の苦しかったことも辛かったことも、
自分の情けなさにがっかりしたことも、
自分を傷つけたことも、他人を傷つけたことも、
不平不満の中で自分を見失ったことも、何もかも、
全ての全ての全ての体験を生かしきって欲しい
という姿のみが大切であり、
君がその願いを宇宙に宣言したとき、
もう既にその願いは完全に生かしきられ、
君は完全なる奇跡に満ちた人生を生きることになるだろう。
それ以上の知識は全てごたくである。
生かしきって欲しくない人間は獣と変わらない。

   君よ、真剣に上記の言葉を内省せよ。
   君は生きているのか、それとも生きた振りをして死んでいるのか。”

              (FUJI日本機関誌「水瓶座讃歌」No.28, P.60-61より転載)
 

 どのようにお感じでしょうか。
叱咤されていることが、おわかりですか?それで良いんです。その緊張、不安が、貴方を今の状態から進ませる、原動力です。緊張・不安は、貴方の信頼すべき友です。いずれ、それらをも楽に受け入れられることでしょう。
 
 

『あとがき』

 はじめにも書きましたように、このガイドはあくまで一つのやり方を記しているに過ぎません。ですから、皆様には、このガイドや他の素晴らしいガイドをご参考の上、ご自分の道をお進み下さい。そして、いつかはご自分でガイドをお作り下さい。その事自体が貴方にとっての一番のガイドになるでしょう。

 現在、地球の変化が進行しています。地球が生まれ変わるための変化です。次元上昇というやつです。それをスムーズに進行させるために、これまでにいろいろな方が霊的に、あるいは物質的に、あるいはその両方の架け橋となるべく働いておられましたし、今も働いてくださっています。その方々のご努力のおかげで、筆者もこうしてスムーズにいろいろなインスピレーションを戴けました。この場を借りて、深く感謝申し上げます。

 そして、これをお読みの全ての方、地球の変化は地球のもののみならず、皆様の潜在意識も一緒に変化しているのです。つまり、皆様の潜在意識は、既に先を行っています。そして、他の方の潜在意識と相談して、貴方のためにシナリオを書いて、現実世界に道をつくってくれています。顕在意識は、ただその道を歩いていけばいいのです。ですから、必ず出来ます。ご自分を信頼して進んで下さい。

1997年6月26日                      文責 篠原克信