想念観察によせて   シャドー
 
◆はじめに
◆今、何故想念観察か?
◆想念観察ってなに?
◆観察の実際と留意点
・観察をはじめたころ(観ていることに慣れる)
・観察に慣れてきてから(観察者の自覚)
・観察の範囲が広がる(内と外の観察)
・内側の深みへ(自己、真理)
・観察の副産物
 (1)エゴの変質、感謝
 (2)自惚れ、特別意識、はまりこみ
 (3)見えない存在たちとの交流
・観察の成果(正気に帰る)
◆はじまり

◆はじめに

 この案内は、あなたが既に大高良哉の著書や精神世界の本を読まれて、少なくともこの世界の全ては創造(創造主、宇宙意識)と呼ばれる根源的な存在によって成り立っているとの知識があり、興味を持たれているところから始まります。

 私たちはFUJI日本を中心に集まった有志で、長くは十数年前から自己の探求を目的として、「宇宙の人」と呼んでいる宇宙連合の方々のアドバイスを受けながら交流を重ねてきました。当初緩やかだった活動ですが、約10年前に宇宙の人のメッセージやアドバイスを受けた頃から活発になって、特にここ1〜2年は宇宙の人や霊的存在と交流する人が急増することにより、ますますにぎやかになってきました。

 この案内を作るということは、探求の途上にある私たちにとっても願ってもない確認、再学習のチャンスとなっています。
 これから私たちの体験を披露しますが、これは一例に過ぎません。あくまであなたが許したペースとやり方で自己を探求されますよう、この案内がスムーズなアプローチのいくばくかの助けになれば幸いです。また、私たちの体験を踏み台にして、さらに飛躍されんことを願って止みません。もちろん私たちも協力を惜しみませんが、その時はありのままに申し出頂き、私たちの今後の探求の課題とさせて頂きたい。
 

*文中◇・・・・・◇とマークのある区分は、私たちの一人が見えない存在たち、つまり宇宙の人や霊的存在(神)から助言として頂いたものです。
 
 

◆今,なぜ想念観察か?

 私たちの地球を包括する太陽系は、その所属する銀河系の太陽を中心に回っていて、約24,000年で一周し、進んでいくに従って進化の階段を上がっていくようになっているのだそうです。地球はちょうど進化の大きな変わり目にさしかかっており、地球の年代で1800年代の後半くらいからは魚座を過ぎて、水瓶座に入るとともに、ますます進化が加速されていって、ごく近未来には地球全体が三次元から四次元へ次元上昇することになっているというのです。

 2000年代初め頃には、これまでの文明が自壊して、全く新しい四次元文明の時代が到来するといわれています。事実、自然科学の分野では、地球のポールシフト(極移動)がいつ起きてもおかしくない状況にあることは広く知られているところでもあります。

 水瓶座の時代に入ったことにより、我々地球の人は、宇宙の人に脱皮する時期が来たのです。この時代の影響下に入り、これまでとは比較にならない強大なエネルギーが地球に浸透してきていて、このエネルギー変化に対応できない人達の精神と肉体は大きなアクシデントに見舞われて自殺したり、人や動物を殺傷したり、精神に異常をきたしたり、原因不明の難病を患ったりするといいます。事実、最近の世相はますますその様相を強めてきていると私たちはみています。

 ではなぜアクシデントか、といえば、人間それぞれの持つ波動が大きくかかわっています。新時代の波動に同調するか、またはそれに近い波動を受け入れる器になっていなくてはならないのに、あまりにも違い過ぎる荒い波動を改めようとしない人達は、そのギャップが反作用となり、そのマイナス要素が増幅されるといいます。そしてマイナスがマイナスを引き付けて相殺することになり、アクシデントとなって現実化するというのです。日本における最近の数々のスキャンダルも、同様の原因で現実化したものだ、とのことでした。

 我々地球人は、何千年、何万年来の荒い波動を相殺しないまま、ますます強く引き継いできており、これらを事前に解消しておかなくては新しい時代へ入っていけないのです。この荒い波動、つまり物質欲や肉体の存続に根ざしたこの社会の意識などのことを、宇宙の人は「分離(エゴ)」といっています。
 つまり、創造から与えられているもともと一つの意識が、錯覚や囚われ、恐れなどによって分離してしまっている、正確には分離させられている、というのです。そして、その分離状態に気付くことを「目覚め」といい、気付けば気付くたびごとに、分離が解消していくのだといいます。
 そして、そのための手法が想念観察であり、感謝瞑想であるという訳です。

 もともと創造から分かれたてのころ、我々は人間ではありませんでした。それは純粋で清々しく、光り輝いていて、軽やかで喜びに満ちていました。創造の意図に従って、その触覚となるためにこの界に降りてきて、自己確認の旅、つまりほとんど無機物から始まる進化の転生を重ねるうちに、次第にふるさとを忘れて、やがて曇って重くなり、喜びも少なく、本来のあるべき姿をすっかり忘れてしまった。
 物質世界にすっかりはまり込んでしまったのです。特に霊長として人間になりたてのころは、最も暗い忘却の世界にあって、肉体の存続、つまり死への恐れからなかなか抜けられないのですが、人間としての転生を重ねるうちに、だんだんと目覚めて、三次元、つまり物質世界から足を洗って、やがては元の光の世界へ帰っていくことになっているのだそうです。

◇今、地球人は正にその足を洗おうとしている時期にあるのです。
人間は誰もが本能的に創造から分かれたてのころの、あの素晴らしい自己を知っています。今は自分で無いものとして、外へ向かって求めていますが、あれこそが全ての人間の根源なのです。あなた方はただ、忘れてしまっただけだったのです。自己の意識の内側の奥へと探っていけば、それは見つかります。
 有史以来、地球人は宗教に、哲学に、芸術やそして科学に、あのかつての自分を求めて葛藤を繰り返してきました。しかしそれは、専門分野に分かれた特別な人が何やら形式化したり、もったいをつけたり、ごく少数の人達しか知らない、といったような難しいものであるはずがないのです。それは人間誰もが自己を解放して、制限や囚われや恐怖から自由になれば、容易に取り戻すことができます。そのためにはひたすら自己を見つめ、探求することにつきるのです。◇

 宇宙の人はさらに言います。

◇大きな地球規模の集合意識的なアンバランスな波動は、大みそぎや大転換と呼ばれる地球の急激な大変動によって相殺されます。しかし人間個人が持ち越した強い分離(エゴ)は、各個人自らが解消しなくてはなりません。座して待っていても誰も救ってはくれません。自らが自らを救うのです。これだけは私たちでもどうにもならないし、許されてもいません。これからあなたはどれかの道を選択します。あなたはどれを選びますか?
 私たちが憂えるのは、現在の地球人が今の状況にあまりにもはまりこみ過ぎていて、自らが抱えている分離(エゴ)に気付いていないことです。現代のいわゆる不都合の全ては、正にその分離(エゴ)を発端として次々に起きているのですから。◇

 結論的にいえば、いわゆる必要性や周囲の状況は、知らねば知らなくてもいいのだと思います。要は、あなたがこの案内を手に取るようになった理由は、これからの人生をより有意義に悔いなく過ごすためや、人間関係をより円滑にするため、辛い過去を忘れるためでも、もちろん単なる興味本意でもなんでも、全く構わないのです。地球の大変動なんて無いかも知れません。大切にしたいのは理由ではなく、身の内から沸き上がる自然な興味、求める気持ちだと思います。
 求道の覚悟などと大袈裟なものは要らないと思います。この書き手の動機は「本当のことを知りたい」と、ただそれだけでした。当初は想念観察の必要性があまりピンとこなかったばかりか、超能力願望の方がむしろ強かったのです。ところが「知りたい」欲求を満たすために学習を進めていくうち、想念観察の重要性に目覚め、身が入るようになったのです。
 でも、動機や目的ははっきりしている方が、背筋がぴんとしていいように感じませんか? でも、最初決めたらもう変えられないとするのも制限ですね、きっと。
 

◆想念観察ってなに?

 想念観察は、自己のかかえる分離(エゴ)に気付く有効な手段として、宇宙の人から指導されたもので、「自己観察」又は「客観視」ともいいます。古今東西様々な人が、様々な流儀で使ってきましたが、「自己の想念、つまり自己の知覚するもの全てを客観的に観ている」ことに尽きるのです。ただこれだけです。なぁんだ、と思うかも知れませんが、これが簡単なようで難しく、難しいようで簡単・・・そして、いずれはどちらでも無くなるのです。この手法はどの次元のどの段階になっても、また宇宙どこへ行っても基本的には同じなのだそうです。

 あなたが朝起きて「顕在意識」に戻ってから、夜眠りについてそれから離れるまでの、あなたが知覚するもの全て、つまり五感をはじめ、喜怒哀楽、思考の一瞬一瞬を、感情や判断をまじえず、ただとぎれなく観ていることです。次々に起きてくるあなたの内的外的変化の全ての全てを・・・。感情や判断をまじえず、とはいっても、実際にはとぎれなく何かの想念にかかわっているのですが、それを五感に始まるあなたの知覚を総動員して、あなたの色が付かない原理に照らして観ていることです。

 想念観察はまた、想念の違いをはっきりさせる術でもあります。人間は、想念、正確には「想念の種」の受/発信器なのです。その種(きっかけ)をどう生かすか、つまり増幅するかしないかは、あなたにかかっています。
 宇宙の人のアドバイスを聞いてみましょう。

◇観ている,とは「観ている姿勢」「観ている世界」と置き換えることもできます。プラスでもマイナスでもない、中立な目でもあります。何かの現象を観ている時、あなたはその現象と共にあって、しかも観ているのだ、と気付いて下さい。あなたと現象は、分かれて在るのではないのです。
 観ている姿勢はまた、不断な「学ぶ姿勢」でもあります。そして「学ぶ」とは、現象を受け入れることから始まるのです。◇

◇観ていることはまた、瞑想でもあります。座って目をつぶり、じっとしているだけが瞑想ではありません。日常生活の中で観ている世界、観ている雰囲気にあれば、これもひとつの瞑想なのです。一日中あなたが顕在意識にある全ての一瞬一瞬が、あなたの観ている世界なのです。それは全く呼吸と同じく普通のことだと気付くようになれば、否、気付かなくてもあなたはまさに観ていて、それが瞑想の状態になっているのです。これでお判りのように、観ていることは意図ではなく、観ている状態、すでに在る状態なのです。◇

◇例えば想像して下さい。あなたが主婦で、0歳の子持ちだとします。その赤ちゃんが真夜中に泣き出しました。これは正にチャンスなのです。泣き声を聞いて眠りから強制的に目を覚まされたあなたは、「もう、うるさい!なんでこんな夜中に泣くの!」と腹を立てるかもしれませんし、オムツをかえたり、抱き上げてあやしたりするでしょう。
 ここであなたの意識に「観ている姿勢」があると、あなたは「うるさい!」と怒る「エゴのあなた」と同時に、怒っている状態に全く左右されない「観ているあなた」の、少なくとも二つのあなたに気が付きます。初めは観ているどころではないでしょうが、その気になって注意深くなっていると、二つのあなたどころか、他にも「どうするか、と考えるあなた」と同時に「肉体を動かすあなた」と、少なくとも四つのあなたが同時に、赤ん坊という対象に反応していることに気付くでしょう。そしてもっと注意深く観ていると、もっと色々な働きのあなたが、あなたという意識を構成していることに気が付きます。

 あなたは一人であると同時に多数なのです。

 あなたは一瞬も途絶えることなく、この「多数のあなた」のバランスをとりながら生きている、とても複雑なマルチ生命体なのです。この中のどれが「エゴ」で、どれが「観ている」で、どれが・・・これはなかなか区別できませんね。そこで無限なる存在は、例えば赤ちゃんの泣き声で、あなたをノックします。それはふいに起こされます。エゴの油断をねらって観ているつもりのあなたに、それ自体がエゴであると気付かせるのです。

 エゴが悪だといっているのではありません。エゴは肉体の維持、存続に必要な、あなたの意識の一部なのです。それが全体としてのあなたの意識のどのくらいの割合か、ということです。人間という存在には元々、本来の理想的なバランスがあります。

 理想的な状態では、あなたの意識は、無限の世界へ全開していると気付いており、創造のエネルギーと何の障害も無く交流します。
 その理想に少しでも近づくためにはエゴ、つまり肉体に根ざした自己中心的な意識に基づく制限や囚われをどれだけ手放せるかにかかっているのです。

 どのあなたもあなたには違いありません。どのあなたも愛してあげて下さい。人間は全ての才能を秘めています。科学者であり、芸術家であり、職人であり、たまたまその分野が開花したに過ぎません。想念観察は、そのマルチな才能に気付き、自ら開花させる術でもあります。人間は本当は大変な存在なのです。

 想念観察はまた、今、どの「あなた」が優勢か、と気付いている術でもあります。一瞬一瞬そのマルチのあなたの何に気付かされているかということでもあります。ほとんどの地球人は気付いていないか、気付いている途上にあります。
 マルチな部分のうち、ある部分までは他の人間と共有する部分でもあります。

 観察とは、観ている姿勢、「常に後ろに引いた観ている目」なのです。呼吸と同じく「意識の呼吸」を観ている目なのです。
 あなたの意識のありのままを、どこまで退いて、どこまで奥から観ているかの訓練でもあります。あなたはどこまでもどこまでも目を退いてあなたを観ているのです。◇
 

 私たちも、FUJI日本や宇宙の人や霊的存在のアドバイスを受けながら試行錯誤を繰り返してきました。叱られてばかりですが、でも辛抱強く継続している人がほとんどです。結局は素直な探求心の、真剣で楽しい継続に尽きるのです。これはあなたにとって今生どころか全時代にわたる大事業なのです。
 でも気負う必要など全くありません。がっかりして下さい。そう簡単に成果などでないのです。何か成果を、と気張れば気張るほど停滞します。気長に期待などしないでひたすら楽しんで観ていることです。コツコツと一場面、一瞬を大切にして、そのチャンスを生かし、着実に分離(エゴ)を解消していくことだと教えられています。
 

◆観察の実際と留意点

・観察をはじめたころ(観ていることに慣れる)

 どれだけ素晴らしいアドバイスや実践例があっても、いざ始めるとなればとまどうでしょうし、始めても、たぶんスムーズにはいかないのです。

 なぜか?
 それは、みんな他人の探求なのです。我々人間は、意識の上ではかなりの部分を共有しているとはいっても、こと自己の探求に関しては、いつも一人なのです。自覚は他覚からではおぎなえない、ということです。
 他からの助力に見えても、それはあなたが求めたものです。いつも一人。これだけは強調してもしすぎることはありますまい。

 初めは、どうしても「観ようとする」から、知らず知らず力が入ってしまいます。そう意図してはならないといっても無理なことです。「意図している」と判るならば、もう「観ている姿勢」「観ている世界」なのですから・・・。観ようとする意図を継続するには大変なエネルギーが必要ですから、どうしても長くは続きませんし、無理に続けるのは疲れるし、疲れるからやめてしまいます。そしてついには挫折感へと傾いてしまうのです。あなたは「観る」のではなく「観ている」のです。他人はあなたを「観る」のではなく、常に「観ている」のではありませんか?
 初めて自転車に乗る時、あなたは懸命に練習します。最初はなかなかあの平衡感覚が体感できませんが、何度もトライするうちに、そのコツが判ってきます。そして乗れた瞬間のあの感覚!でなくてもいいのです。否、こんなに顕著でなくてもいいのです。トライを重ねるうちに、あなたは段々とあなたの「平衡感覚」に気が付きます。そして試行錯誤のうちに、あなた流のスタイル(観ている姿勢)が身に付いてくるようになります。

 他の人のやり方や進み具合が気になってきます。それは自然な成り行きです。あなたは出掛けていっては色々な人と交流して、大いに迷い、大いに疑い、優劣意識の虜になり、たまには口論して大いに怒り、葛藤します。
 図星されて何日も落ち込んだり、精神世界の色々な教科書に親しんだり、泣き、笑い、怒り、喜びながら、ありのままに観ていきます。

 あらゆる場面でのあなたのあらゆる反応を観察し、反応に習熟して下さい。一口に「ありのままに」といっても色々な「ありのまま」加減があります。それは人それぞれ違います。各人が、その人らしい方法でやればいいのではないでしょうか。色々な見方を試してみて、最も自分に合った方法を見つけることです。

◇この書き手は自分の想念を書き出してみる方法である程度の成果を得たと自負しました。でも「書くこと」は「隠すこと」でもあります。
 書くことによって隠れてしまう部分もあることを、常に留意すべきです。
書くことに限らず、何かを表現したら、必ず裏に何かが隠れています。もしかして、その隠れた部分を見つけることが、本当の観察かも知れませんね。探求して下さい・・・。
 速成法はありません。それが欲しいなら、速成法を求める想念の根源を掘ってみて下さい。それが一番の近道かも知れませんよ。◇
 

・観察に慣れてきてから(観察者の自覚)

 初めは無我夢中でも、辛抱強く続けているうちに、なにがしかの自覚があり、それがまた励みになるので、さらに熱心に観ているようになります。いわゆる熱中です。観ている姿勢、観ている世界、とイメージしながら観ているうちに、はっと気が付きます。熱中していて前しか見えていない自分に・・・。それは対立する相手に映っているかも知れないし、日頃気安く、軽々しく思っている相手に映るかもしれません。熱中している自分が見えた、そして消えました。さらに観てい続けていきます。段々目が後ろに引かれて、想念の割り付けというか区分けが出来るようになってきます。でも何かがおかしい、いつも堂々巡りをしているように、同じパターンの想念が表われてくる、という場合があります。

 自身の分離(エゴ)にはなかなか気が付かないものです。煙草好きが、嫌煙者の気持ちに、自分の気持ちよいおしゃべりがどんなに周囲を白けさせるかに、自分の良かれや他人の良かれが、どれだけ相手に迷惑だったかと、基本的理解以前のことから徐々に気が付き始めるのです。

 この辺の事情について、宇宙の人は次のように言っています。

◇観察をするのはあくまであなた自身だということです。想念を増幅したのはあなたです。他人が観察しているのではありません。他人が観るような目のあなたが、本来でないあなたを観ているのです。あなたの想念はあなたの学びのために起こされています。逃げてはいけません。

 観ていくうちに、「私でない」と無視しようとしても、しきれない想念を感じるようになります。どうしても認めたくないが、何回もしつこくあらわれてくる感情や思考は、あなたの分離意識、つまりエゴに原因があります。最初あなたはそれを判っていても、なかなか認めようとしなかったり、逃げたりしますが、根本的原因が除かれない限り、何度でも形を変え、強さを変えながらあなたの内的、外的現実として現われてきます。あまり強大にならないうちにバランスを戻さないと、大きなアクシデントに見舞われることになります。
 ・・・・そうです。要は、ありのままとは、認め、許すこと、感じるままに受け入れることなのです。最初の、この「認める」作業は、人によっては身を切るようなつらい作業になります。「自分は決してそのような人間ではない」と抵抗します。しかしそれは決して他の人ではありません。そこはあなた自身の内面以外の何ものでもないのです。

 最初の「認める」が過ぎると、あなたはたぶん少しほっとして楽になります。でもこれからが観察の本番、本当のスタートです。これを境にあなたは次々と認めることができるようになります。逃げずに正面から受け止め、受け入れ(許す)、認める行為が続いていきます。その色々な分離(エゴ)を認めるたびごとに、あなたは、自分がいかにぎくしゃくとした意識で生きていたかに気付いていきます。あなたはさらに楽になり、喜んで認めるようになります。無限なる存在はさらに色々な体験をさせようと、次々に場面を展開させていきます。あなたはもっと余裕を持って待ちかまえているようになり、やがてだんだん自惚れ意識が成長してきます。◇

 最初の認める作業は一枚岩だと思って寸分も疑っていなかったあなたが、実は複数だったと気がつく、初めての記念すべき瞬間でもあります。これを境にあなたは次々と別な自分を認め、同時に制限や恐れを一つずつ外して、意識が開かれていくのです。

 意識が徐々に開かれるに従い、緊張も解けていって、あなたは内的にもだんだん柔軟になってきます。そして、今まで気がつかなかった想念の細かな変化にも注意を向けられるようになります。あなたの価値観念や、それを元に起こされる「判断」というやっかいものにも、徐々に気付いていきます。
 宇宙の人は言います。

◇あなたは観ているうちに「判断するまい」としながら、色々な判断を常にしていることに気が付きます。しかしそれは、あなたが外的に影響を受けて、知らず知らず判断せざるを得なかった、という訳ではありません。
 あなたの中の分離(エゴ)があなたの判断という想念を増幅したのです。他人のせいで、まわりの環境のせいで、あなたの現実がある訳では決してありません。それは紛れもなくあなた自身の選択なのです。そして観ているあなたが、判断しているあなたを観ているのです。そして観ているあなたもまた、観られていることに気付いていく・・・こうして際限なく観察が深まってきます。

 観ているうちにあなたは自覚もおぼつかず、道に迷ってしまいます。道草の連続です。しかしそれがあなたを成長させます。時々は、いよいよ行き先が判らなくなることがあります。それを元に戻すのは誰でしょうか?宇宙の人でしょうか、それともあなたの友達、FUJI日本の人、あなたの背後の霊的存在たち・・・? それはあなたです。観ているあなたが迷っているあなたを導きます。そうです。それは、あくまでもあなたが造るあなたの人生なのですから・・・。

 一人で迷う必要はありませんし、今の時点では危険な場合もあります。あなたが求めるうちに、適切なタイミングでヒントをもらう機会がめぐってきます。それは全く精神世界に縁のない友達の一言かも知れない。本屋でふと手にした一冊かも知れませんよ。◇

 このようなヒントは、辛抱強い、一日中の淡々とした思いめぐらしや、観察の中から見出されます。つまり、求め続けることではないでしょうか。どこまでもどこまでも、あなたはあなたを追いかけていきます。
 観察を進めるうちに客観視になれてくる、つまり想念を起こしているあなたとそれを観ているあなたが少しずつ離れていることに慣れてきます。想念を認めることを繰り返すうちに、感情の起伏が少なくなってきます。

 宇宙の人は言います。

◇主に、内に向き出した意識は、辛抱強い観察によって内的状況を把握し、それまで混乱していた状況にそれなりの秩序を形成することが出来るようになり、整理・統合していきます。整理・統合が進むと内的にだんだん静かになり、落ち着いてきます。外見的にもその人は、淡々とした姿勢を見せるようになります。◇
 

・観察の範囲が広がる(内と外の観察)

 私たちは最初、想念、つまり感情を思考を、とひたすら内面のみの変化に注目していました。そのうちに内面の変化が、実は自己の内面のありようを発端にして外に現象を起こし、また内面に返ってくる、と気がつきました。それを受取る意識体の姿勢によって、好循環になったり悪循環になったりするというものです。
 従って観察は、内面、外面の全てにわたらなければ片手落ちになる、結局はアンバランスな観察となり、行き詰まってしまう、と判ったのです。
 あなたと対立する相手は、想念の対立の発端となっているお互いのエゴを見せ合う鏡同士なのです。例えばあなたが妻であって夫とケンカをしたとします。あなたが夫に観ているエゴは、とどのつまりあなたのものであり、夫が妻のあなたから感じられたエゴは夫そのものだというのです。

 宇宙の人は言います。

◇あなたが、ケンカの相手に映っているものが「私ではない」というなら、相手の像を消して意識だけを感じて下さい。何がありますか?あなたの分離(エゴ)が見えましたか?◇

 対立状態だけでなく、特に気になる印象は全て、あなたが発端となって相手に映しだされたもの、と教えられています。先入観を除いて、注意深くその意識状態のみを観察すれば、確かにその通りだ、と判ります。また、相手の欠点がよく見えて、「私なら間違いなくそんなことはしない」と確信しながら、別の場所・別の時に違う相手とかかわった時、その欠点通りのことを自分もやってしまっている、と気付くこともあります。
 

 この書き手の例で、夫婦間の不満について検証してみます。

 彼は長い間、妻の家事のやり方に不満があり、夫婦ゲンカはいつもそれが原因でした。その後、「想念観察」を知ることになったものの、知識にとどまり、応用実践が出来ずにいつも同じケンカを繰り返してきました。彼はいつも外に向かって求めており、内的観察が出来ていなかったのです。ある時ひときわ大きなケンカとなり、お互い何日も口をきかないという家庭内の気まずい雰囲気の中で、とうとう内的観察が始まりました。「なぜ何度も何度も自分は妻にそれを見せられ、腹が立つのか」と。

 自分を後に退いて観ているうちに、「家事がなっていない」との判断の元になっている自分の価値観が見えてきました。こうありたいのにそうならない不満は、その価値観、つまり「そうあらねばならないとの確信(家庭内がきちんとしていなくては気が済まない)→(自分の思う通りでなくては気が済まない)」が発端で起きていて、これを無くさない限りはまた同じパターンの繰り返しだ、と判ったのです。この価値観は彼の個性になってしまっており、その後も無くなってはいませんが、彼の内面に占める割合は大きくなくなったのです。
 つまり彼は、自分の価値観の後にひそむ分離(エゴ)に気が付き、認めたのであり、これを転機として徐々にだがエゴの変質が始まり、進行して、目立たなくなってしまった。彼は、妻の家事については腹が立たなくなった。家の中がどうなっていてもほとんど気にならなくなってしまったのです。

 しかしあなたは反論するかも知れません。「自分の内面の状況が外に表われているというなら、家庭内が散らかっている状況は、彼の内的状況ではないのか」と。また、「腹が立たなくなったのは逃避ではないのか」と・・・。
 それはその通りかもしれないし、あなたの疑問はあなたの価値観による判断の結果だ、とすることも出来る。外の現象と内的状況との関係は、本人でなくては判らないのです。本人の霊的発達のために必然的に起こされる疑問以外は、いわば「大きなお世話」なのですが、私たちの集まりでは、彼は迷惑であろうがなかろうが、おせっかいの集中砲火を浴びる。彼ももちろん免れなかった。いつのまにか、お互いの共通のテーマになってしまうのです。
 このような不満の状況、その他は、日常生活の中では無数に起こっているはずですが、観ている姿勢になっていなくてはなかなか気が付かないものです。だから無限なる存在は、あなたをノックするのです。
 

・内側の深みへ(自己、真理)

 観ていることに慣れ、その範囲も広がってますます意識が開かれてくる。内的に語りかけてくる存在との交流も一段と親密になってきた。「はまりこみ」も何度も体験してかろうじて立ちなおった。あなたの内面はさらに静かに淡々としてきて、感謝のうちに充実した人生が展開してきている。
 でも何かが足りないような気がする。「自分は本当にこのままでいいのか。もっと先に何かがあるのではないか」と求めるようになり、「この自己とはいったい何ものなのか。この世界はなぜこうして在るのか。どんな仕組みになっていて、その中で自分はどう振舞っていくのか」と、この種の問いに答えを出したくなるでしょう。

◇そう。あなたは観察を続けていくうちに、必然的に真理(つまり、宇宙のどこへ行っても、どの次元になっても変わらない原理)に触れるようになります。真理を求めなくてはどうしても前に進めないことに気が付き、体得したいと望むようになります。つまり、自分探しの道は、真理体得への道だったと気付くのです。
 あなたはもっともっと後ろへあなたを退いていって、さらに広大な全体としてのあなたから、あなたを観ているようになります。そしてあなたはあの純粋で清々しく、光り輝いていて、軽やかで喜びに満ちていつもある、あなたの根源、真のルーツ、つまり真のあなたに触れるようになり、永い旅の末にやがては融合し、帰還するのです。◇
 
 

・観察の副産物 (1)エゴの変質、感謝

 色々な性格の人がいます。一人として同じ性格は無いように、観察のやり方も同じではありません。でも、どんなにドライな性格の人でも、生涯に一度は「反省」として自分を責めることがあるでしょう。観察を進めていって分離(エゴ)が明らかになる程に、落ち込んだり、自分を責めたりすることが増えてきます。でも必要以上に自分を責めないことです。
 人間の想念には実は巨大な力があるのだそうで、この書き手の体験からも、それはうかがえます。どんな小さな想念でも、あなたのまわりの存在(意識)たちは、その想念に沿って行動しようとします。従ってあなたが自分を責めれば責める程、まわりとの相乗効果となってあなたに返ってきますし、逆にプラスに思考していけばいく程、またプラスとなってあなたに返ってくるシステムになっているようです。
 落ち込みも自責も、分離(エゴ)の自惚れ以外の何ものでもありません。それと知りながら、私たちは次々と気付かされるエゴに何度落ち込んだか知れません。今でも程度の差はあっても同様です。自分やまわりに大きな影響が出ないほどに責めるのがコツでしょう。

◇エゴに気付いた瞬間から、そのエネルギーは変質して、あなたや私たちの根源エネルギーと同質となり、統合していきます。私たち人間は、こうして段々と自身と周りのエネルギーを純化していくのです。
 ただ気付いていて下さい。観ていることは気付いていることです。◇

◇宝石類がマイナスエネルギーを浄化することは知られていますが、人間も同様です。人間はこの宇宙で最もすばらしいエネルギー変換器なのです。しかも意識の持ち方によっては無限の性能を発揮することができます。あなた方が次々とエゴに気付いて真の感謝を分かち合うことにより、エゴ・エネルギーの周波数を引き上げることになり、より高い周波数に同調して次々に融合し、統合されていくのです。◇

◇この恐怖と不安に満ちた地球にかかわって、次々に隠れたエゴに気づかせてもらっている。最初は息つく暇もなく頻繁に、そして段々ゆっくりと、それなりの意義をこめてエゴはあなたのドアをノックします。あなたはいちいち付き合わなくてはなりません。それがどんな訪問者であっても、閉じてはいけません。
 あなたは対象からの刺激でエゴを知覚します。対象、つまりあなたのまわりの世界がなければ、あなたは何の進歩も期待出来ないのです。これが感謝でなくてなんでしょうか?◇

◇今、この環境にあること自体が感謝なのです。それがどんなにあなたにとってすばらしい学びの一瞬一瞬であったかと、あなたはいずれ深い感謝のうちに回想することになります。◇

 あなたが感謝と共にエゴに気付いているだけで、この地球のよどんだエネルギーが浄化されていっている、というのです。
 そのあなたの想いだけ、必要なのはそれだけです。
 

・観察の副産物 (2)自惚れ、特別意識、はまりこみ

 観察も相応に進んできて、内面が常に静かになっているうちに、あなたは次の段階へ入っていきます。
 人によっては、宇宙の人や霊的存在とのチャネリングが始まったり、鮮明なビジョンが見えたり、啓示的な直感が多くなったり、声が聞こえたりする他、色々な現象(奇跡)を体験したりする人もいます。
 直感が鋭くなり、行動にためらいがなくなってきます。そして、周囲のまだ自覚が進まないように見える人々との間にどうしてもギャップ、つまり距離感を感じるようになり、これがやがて、自惚れや特別意識(優越感)に成長してきます。それは静かに進行します。まわりからの賞賛に聞こえることばが、進行に拍車をかけます。

 宇宙の人は言います。

◇自惚れまいとして自惚れているあなたが見えますか?◇と。

 FUJI日本にかかわる人たちの中に、霊的な存在の協力のもとに、自惚れ具合、特別意識やバランスの様子などをチェックする役を引き受けている人がいます。その分析は正に図星で、厳しい指摘やアドバイスは適切です。かくいうこの書き手も、毎回厳しい叱責をもらっています。

 自惚れや特別意識は、一度や二度で終るものではありません。何度も何度も手を変え品を変え、持たされます。早く気付いてもとに戻ればいいのですが、そうは問屋が卸さない。何度も自覚無くはまり込んでは気付かされるのですが、懲りない。そう、人間は懲りない面々なのです。人に指摘してもらった方がはるかに楽なのですが、私たちはあえて自分で見つけることをお薦めします。
 自惚れも特別視も、そうなってみなくてはなかなかそれと判りません。何度も何度も繰り返すうちに体得していって、それから離れることが出来る、というのがこの書き手の信念のようです。

◇アドバイスは逆効果になる恐れがあります。エゴは巧妙に巧妙にあなたのスキを狙って入り込み、知らずにあなたははめられます。あなたの想念観察の成果がリアルに現実となります。それをあなたはまた、どこまでも引いた目で観ているのです。深い感謝と愛を込めて、あなたの観察が進行していきます。◇
 

観察の副産物 (3)見えない存在たちとの交流

 内的に静かな状態が多くなってくるうちに、人によっては、内なる奥からのかすかな働きかけに気付くようになります。現われ方は人によって千差万別ですが、だんだん慣れてくると、働きかけにもあるパターンがあることに気付くようになります。観察を継続しながら、自身に生じた日頃の疑問や自身の考えを問いかけます。留意すべきは、出来るだけギャップを作らないことです。初めはどうしても、自分が虫けらで相手は雲上の人、ですが、だんだんその距離は接近して、ついには同じフィールドになってきます。
 淡々とした交流のうちに、彼らがいかに親身で誠実で無私であり、奉仕を惜しまないかが判ってきます。それなのに何と我々の非礼で真剣味に欠けることかと、いつも身の引き締まる思いをしているのはこの書き手だけではありますまい。

 交流を重ねるうちに、色々な疑問や葛藤が起きてきます。そしてさらに観ていきながら、真剣にお付き合いを重ねていきます。色々な制限、囚われに気付かされ、そのたびに閉ざされた意識が徐々に開かれていきます。

 但しこういった交流は、自己探求の副産物としてあくまで自然に起こってくるものであり、分離(エゴ)を多く残したままの交流は色々なアクシデントの原因になる、と私たちは認識しています。また、単なる情報のみの交流では、いわゆる誤報も多くあり、常に客観視する姿勢がなければ、それに振り回されることも多いのです。何のための交流なのかを十分認識する必要があります。くれぐれもご注意を!

 こういった交流が起きなくても一向にかまわないのです。
これらの交流に囚われ過ぎて、本来的な探求の道を外してしまった人たちを、過去に何度も見聞きしてきました。交流は、分離(エゴ)の度合が少なくなっていればいる程、スムーズで、自然なものとなります。

 宇宙の人は言います。

◇これらの交流は、チャネリングとして特別視する必要はありません。あなた方は色々な想念を24時間切れ目無く受け入れており、放っています。想念の海の中にあって、振動を繰り返す「場」なのです。エネルギーはその場に集中し、拡散し、交流しています。もうお判りでしょうが、チャネリングとは、その一部に気付いていて意識的に交流することなのですから・・・。例えば平均的地球人は、社会意識をチャネルしています。あなた方はもう少し違うレベルに気付いています。私たちも、レベルや範囲の違いはあっても、そのプロセスには何も違いがありません。◇
 
 

・観察の成果(正気に帰る)

 ある霊的な存在は、観察を伴う自己探求の「成果」について、こう言っています。

◇それは「正気」に帰るということじゃ。それで十分なのじゃ。そのまことの道筋が判った。脇道にも言ってみた。どんな道かも判った。で、この道が一番遠くへ続いていそうだと気付くのじゃ。これまでが「狂気」であったのじゃ。そなたの狂った様子は判ってきたか? 早く正気に帰って、他の者もその道に導いて下され。それが正気に帰った者のつとめじゃ。◇

 想念観察によって正気に帰る、というのです。

 あなたは精神世界の道へ入ろうとしているか、またはすでに歩き出しているかも知れません。そのうち、自分の目の前の道筋が絶対正しい道だと思っていたのに、とんでもない迷い道だった、と気付くかもしれません。

◇でも、あなたはいつでも引き返せます。これから自分探しの旅の途中、無数の誤解やはまりこみや、迷いがあるでしょう。でもあなたはいつでも元の道に戻ることができます。いつでも、一瞬でできます。想念観察はそのための助けになります。あなたが引き返すと決めればそれは実現します。客観視の基本をくれぐれも忘れないで下さい。◇と、宇宙の人は言います。

 想念観察を懸命に続けていっても、今生で分離(エゴ)をすべて解消出来る人は、たぶんごく少数かも知れません。あなたも、この探求の容易でないことがだんだんに判ってきます。

◇それは何かを持ちながらそれを離そうとしないからそうなります。「正気に帰る」とは、結局は何もかも捨てて元の意識だけになる、ということです。すべての制限(囚われ)を外して、早く楽に(自由に)なって下さい。◇

 あなたはいかがですか?

 この書き手も、身の内に何も無くなった状態は、何度か体験させられました。激しい運動の後の、あの抜けたような状態に似ていますが、もっともっと淡々として静かで、自由で、宙に浮いているようなのに安定している。そしてそこには何もないのに全てがあるのです。
 

◆はじまり

 進化に飛び級はないそうですし、宇宙の人や霊的存在に頼んで、自覚も努力も無く気がついたら高次の存在になっていた、などということはあり得ないのだそうです。従ってあくまで意識的に自らが自らの意図で進化するしか方法はありません。地球人の意識は少し先に行っているように見えても、ほぼ横一線なのだそうです。

 あなたの本当の人生は、実はこれから始まるのかもしれませんね。あなたは学びのために、絶妙のタイミングで教材を引き寄せたり、そこに居合わせたりしています。寸分の狂いもありません。あなたにとって、今がその時なのではありませんか?

 ひとつの終わりは、始まりでもあります。旅仕度をして下さい。といっても何も要りませんが。さあ、出発です!

−了−