| グルンワルド |
投手の他、1塁手としても出場。 |
| ストーン |
'64年大洋に入団するも同年6月退団。 |
| スタンカ |
'60年来日。南海のエースとなり、'64年
26勝7敗(勝率1位、MVP)で優勝に貢献。35歳で、大洋に移籍したものの老いは隠せなかった。 |
| ブレット |
本名 ロバート・アレン・レイノルズ。なぜブレットとなったかというと投げる球は弾丸より速いというふれ込みだったから。ところが、実際はとんでもないヘロヘロ球を投げる詐欺師であった。44日で解雇。 |
番外
デニー友利 |
デニーも笑えたが、フロレンスもなー。 '86年、帰化。
三振取れるがコントロール定まらず。名前がデニーだからなぁ。
それよりなにより、目の下のクマを何とかしなさい。とか言ってるうちにもう2勝あげよった。トホホ。
朝日新聞にも西武優勝の鍵を握る投手として紹介されておったわ。い、いったいどーなっているのだ! |
| スコット |
先発として獲得した3Aの54セーブ男。思った通り球威不足で先発失格、抑えには佐々木、盛田がいるから結局中継ぎ投手と相成った。 |
| シュワーズ |
剛速球投手のふれ込みで来日。約9回投げて四球15の無制球に愛想尽かされ6月解雇。実はノーコン剛速球投手であった。 |
| バークベック |
シュワーズ退団の後を受け6月入団。スタンカ以来約30年ぶりの外人完投投手、さらに、外人として球団史上初の完封投手となる。同年8月、巨人マックの打球を足に受け骨折。選手生命を絶たれた。実に惜しい。 |
| キャンベル |
誰だよ。誰。手品を披露しただけで消失。 |
| マホームズ |
満足な活躍が出来ないため、頭を剃ってみたが全く効果が出なかった。
闘志が前面に出るタイプで上手く使いこなせば活躍が期待できたのだが、右肘を壊し、さしたる成績をあげられずに退団。
全身これバネの塊、俊足。監督の権藤は代走で使ったが、解説の高木豊は憤慨した。退団後、本人はバスケットプレーヤーを希望しているらしい。 |
| バワーズ |
2001年、久々の先発完投型投手として、大きな期待をもたれて入団したが、1年目3勝13敗防御率4.08
、2年目4勝8敗防御率3.77。どちらの年も、規定投球回前後を投げての成績。成績は振るわなかったが、打線の援護に恵まれない投手として、ファンからの人気は高かった。翌年、韓国現代に入団し13勝、防御率3.01で最優秀防御率のタイトルを獲得している。以後、新規入団の先発型の投手には、好投するも打線の援護を得られず負け星を重ねていくバワーズの呪いがかけられる事となった。 |
| ドミンゴ |
中継ぎ候補として台湾からテスト入団したが、台所事情から先発に転向。球を押し出すようなフォームから150k台の速球を投げ込む大洋の外人投手としては珍しい本格派だった。翌年は、開幕から先発ローテーションに定着し、チーム一となる試合数(25)、登板回数(約154)、勝ち星(8)をあげるも、12の負け数がネックとなり、「もっと確率のイイ投手を取る」との理由から解雇された。直ぐさま中日が食指を伸ばし獲得。落合監督をして「何で横浜が彼を出したのか理解できない」と言わしめた。その年、川上、山本らと共に先発三本柱を形成、10勝(防御率3.76)をあげて中日の優勝に大きく貢献した。なお、ドミンゴの通算13勝は、後年セドリックに破られるまでは、大洋歴代1位の勝ち数であった。 |
| ホルト |
首になったターマン投手の代わりに2002年6月に途中入団。この年、打線の援護が無い中、6勝、防御率3.57を挙げてローテの一角に食い込んだ。ただ、バワーズ−グスマン−ホルトで廻す先発ローテに、この球団の終焉を見たのは私だけではありますまい。翌年も打線の援護に恵まれず、8月途中で14敗(5勝)と大きく負けが込んだ為解雇されたが、この時点で規定投球回に達し、防御率4.55の数字は他の先発投手に比べて劣るどころか、弱体投手陣の屋台骨を支えていたと言っても過言ではないだろう。弱体打線の犠牲者第2号として、バワーズ共々この名前をしっかり心に刻んでいきたいものである。 |
| ホワイトサイド |
アメリカでも日本でも二軍では抑えるが、上にあげると抑えきれないクローザー。当然1年で解雇も翌年、MLBブルージェイズに入団。大リーグ中継などで、ホワイトサイド−ウォーカー(後述)のリレーを見ると涙がちょちょぎれます。 |
| ギャラード |
クローザーとして期待された投手がことごとく火達磨となり、試合を作ることすら出来ない状態が長く続いた2003年、フロントと喧嘩別れして中日を退団したギャラードを大枚はたいて獲得したのは当然の成り行きだった。自作自演劇場、劇場王などと、中日時代はありがたくないあだ名を頂戴していたが、横浜に移籍後は見違える働きをした。8月の初登板後、リリーフの失敗はたった一度だけ、9SPをあげ、佐々木以降抑え不在に泣いた球団にようやく光明が見え始めた、、、筈だった。ところが翌年、こともあろうかMLBから佐々木が日本に復帰、当然の如くストッパーに納まったことで、セットアッパー降格の処遇に不貞腐れたギャラードは登板した試合で殆ど失点。6月右肘痛を訴え、検査のため帰国し手術すると、ファンの期待をよそに二度と横浜のユニフォームに袖を通すことは無かった。 |
マレン
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そこそこの先発投手を取る事が出来るようになったスカウトの目にとまった技巧派投手。この投手も、打線の援護が得られず負けを重ねる呪縛から逃れる事は出来ずに、2004年ローテーションを守り通したたった一人の投手だったが解雇された。2005年、投壊の巨人へ途中入団、6月には古巣相手に来日初完封を達成した。 |
| ウォーカー |
マレンに代わる先発投手として、前々年メジャーで先発として10勝をあげたウォーカーを獲得。長身から繰り出されるフォークボールが武器の筈だったが、全く落ちずにファンを嘆かせた。シーズン途中、頸椎ヘルニアの手術のため帰国し、そのまま解雇された。 |
| セドリック |
2004年、育成目的で契約した若手投手だったが、ファームで登板させてみると意外に好投。常に投手不足に泣く台所事情から、6月末に一軍登録されるや、あれよあれよという間に勝ち星を重ね、なんとその年チームトップの勝ち星(7勝)をあげた。2年目に入り、7月までに7勝(4敗)と順調な成績を収めていたが、その後、制球難で常に走者を背負うピッチングにベンチの信頼を失い中継ぎ降格から、一気に二軍落ち。その後、シーズン終盤に帰国した際は次年度も再契約の筈だったが、なぜか11月中旬に解雇、ウエーバー登録された。2006年から新生球団楽天の一員として、先発二本柱の一人として期待されている。なお、セドリックの通算14勝は、歴代第1位の記録である。 |
| ホセロ |
育成枠に近い形で入団したが、150kmを超す直球とナックルカーブで頭角を現し、直ぐさまセットアッパーとして開幕から1ヶ月馬車馬のように投げさせられた。また、捕手出身ということもあり、打席でのバットスイングは鋭く、速く、いかにもヒットを打ちそうな雰囲気を醸し出しており、ファンからは打席に立たせろと願われ、実際そうなった。
ただ、制球が極めて悪く、自身が初ホームランを打って勝ち投手になりかけたヤクルト戦が転機となり、コントロールのないことが他球団にバレてからは、待球戦法をとられて自滅、5月以降は敗戦処理に落ちぶれた。4連続四死球で失点するかと思えば、無死満塁で3者連続三振に切って取り、絶体絶命の9回裏無死満塁で登板するや、1球目でぶつけてゲームセットなど、殆どヒットを打たれない投手だったが、波瀾万丈すぎて1年で解雇された。 |
| クルーン |
速球派のふれ込みで来日したものの、いかにも胡散臭そうな風貌とやせぎすの体格から、眉唾ものの投手がまたやって来たと落胆させられたが、キャンプに入ると本当に速球を投げたので周りを驚かせた。制球難と言われた弱点もコーチの指導により克服、球団史上数少ない日本で花開いた助っ人となった。常時150kmを越える速球を投げ込み、来日した年の4月末には日本タイ記録となる158kmを計測、翌5月には日本新記録となる159kmをたたき出した。更に7月には161kmの自己最速を達成、100マイル投手の出現に甲子園をどよめかしたのは記憶に新しい。
07年オフ、持病の股関節の怪我を危ぶむ球団フロントから複数年を拒否され、「また横浜球場で会いましょう」の言葉を残して巨人へ移籍した。 |
| 有象無象 |
マットホワイト・ウッド・ヒューズ・ウィリアムス
毎年、助っ人外人が活躍しないのは、連れてくる人数が少ないからだ!と重大な事実に気づいたフロントは、前年からのマット・ホワイトに加えて、投手3名、野手2名を新たに入団させるという暴挙に出た。先発を期待された左腕ウィリアムスは、力弱い投球ながら2勝したが、巨人相手に初回3連発を食らってファーム落ち後、9月に入った途端解雇されていた。守護神ヒューズは、ヘロヘロ球で抑えなど務まる筈もなく、8月初旬にお払い箱。中継ぎとして前年はちょっと良かったマット・ホワイトも、2年目は膝痛を患い明らかに球威不足、起用を巡っては監督と対立し、電車移動がつらかったの言葉を残して帰国した。しかし、大量入団の甲斐あって、最後のウッドは規定投球回には僅かに届かなかったものの、1年を通じてローテンションを守りきり、初登板から6連敗、10敗一番乗りと目覚ましい活躍ぶりで、結局3勝12敗という成績を残したが、残留することは出来なかった。 |