自分にとっての教育効果



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ちょっと自分の話をします。

僕は、小中高と、かなりの「変わり者」で過ごしてきました。もっというと、教育によって、変わり者である自分を演じていたといってもいいでしょう。
当時のことは、それほど世界が広くなかった当時の自分はそんなに覚えていませんが、個性化というのが叫ばれ始めた時代ではなかったかと思います。
そして、僕は素直で先生の言うことをよく聞く子供だったと思います。母親が保母さんをやっているのは無関係ではないと思いますが、喧嘩が強くなかったから、先生を頼らざるを得なかったとか、その辺も有力です。
そして、結果としてどういうことになったかというと、先生の言うことを聞いて、個性的な人間になろうと素直に努力したのです。素直にひねくれていったと言ってもいいでしょう。もちろん、地の部分というのはたぶんにあったと思います。でも、どちらかというと僕は寂しがり屋なので、集団において自分を貫いて、結果として一匹狼でもかまわないといった考えを持ったとは思いません。

人と違うことをしなければならないという強迫観念。そして、周りにとけ込みたいという願望。
僕の少年期はこの二つのせめぎ合いでした。そして、結果として、多くの場合、人と違う自分、個性的な自分でなければならないという強迫観念が勝っていたと思います。

大概の僕の評価は、「変な人」でした。
今の僕を知っている人は、それでも変な人と思うかもしれませんが、昔よりはだいぶ普通です。当時の僕は、人付き合いが困難になるギリギリの変さ加減でした。「一人いればおもしろいけど、二人いたらうっとおしい」といった評価が当時の僕を如実に表していると思います。

一応前提条件として、「変なヤツは集団に溶け込めない」と「個性化=変なヤツ」ということで話を進めます。この二つについても、ちゃんと議論しておく必要があると思いますが、それはまた今度、気が向いたときということで。

高校の頃になると、自我と行動の乖離をしばしば経験しました。周りの「エビスイ=変なヤツ」という認識が、自分自身が望まない行動を自分自身に取らせるようになりました。
たとえば、音楽を全く聴かない変なヤツを演じるために、音楽を聞きたい年頃なのに、無理に我慢していました。そのトラウマもあるのでしょう、未だにJ−POPをすんなりと受け入れられません。J−POPを聞きたかったのに、音楽に興味のない変なヤツを演じるために、音楽への興味を抑圧した当時の自分に、つい義理立てしてしまう。ちゃんというなら、音楽に興味がなかったという過去に合わせて、現在の認識をゆがめてしまいます。(スキーマについてを参照)

その他にも、変わり者を演じるために僕が失ったモノは多いです。
もちろん得たモノもあると思っていますが、その話は今回は割愛します。


はっきり言えば、これが当時の個性化教育の成果であり、しばしば個性的な生徒と評価されてきたエビスイの実体です。
結果として、僕は今の自分を結構気に入っているので、それほど病的なモノはないと思いますが、一歩間違えれば、アダルトチルドレンとして、自己を喪失していたかもしれません。
恨み言というほどのモノではありませんが、中高と苦労したのは確かです。
もちろん、いじめの対象となることは多かったです。しかし、先生も、変わっているからいじめられるんだ。個性を引っ込めろ、とは口が裂けても言えず、僕もとうとうそのことには気づかなかったのは、不幸だったのか幸運だったのか?高校ではさすがにいじめられたりはしませんでしたが、病的なまでに個性を追求する姿に、あきれられていたかもしれません。

高校の半ばあたりから、誰も知らないところに行って、自己構築を1からやり直したいということを考えるようになりました。個性的にならなければならないという強迫観念は、成長して「エビスイ=個性派」という概念を周りに植え付け、そして僕の自己の構築をゆがめました。つまり、すでにほとんどの人が終わっているはずのアイデンティティの確立が、まだ完了していなかった(完了させたくなかった、納得していなかった)ということです。大学を選ぶ際、瀬戸内圏を出ることが半ば前提だったのは、近くに理系の大学のいいのがなかったというのももちろん、脱出の2文字がちらついていたことは、否定できません。広島大学や、岡山理大など、理系の大学だってたくさんありますから。
大学に来て、様々なことが起こり、いろんな人に会い、話をし、ようやく自己というのが確立してきた気がします。もちろん、今は音楽も聞いています。



僕が執拗なまでに議論を求めるのは、そういった経緯があるのではないか、と最近は考えるようになりました。教育によって遠回りさせられた、自己の境界線を引く作業をするための、手助けとして。

また、個性という単語を教育で気楽に使うことに、危惧を感じます。
個性というのは、多様性ということです。それは、「個性を持った人」というひとつの理想像を目指して教育するのではなく、いくつかの人物像を紹介するにとどめ、後は個人の自由選択に任せるといった姿勢なのではないでしょうか?
個性を持った人間になるというのと、多様性を持った人間になるというのは、微妙にニュアンスがちがいます。前者は、みんなが右に行ったから、左に行く人間を育てることです。それは、みんなが右に行ったから、自分も右に行く人間と何が違うというのでしょう?みんなの動向は関係なしに、自分で判断する力が、本来個性化教育で求められたのではないでしょうか?


一応誤解しないで欲しいのは、今の僕の状況のすべてを教育のせいにするつもりはないのです。学校教育のなかで得た有益なモノはたくさんあるし、ただ、教育という問題を考える上で、そのベースとして自分にとってはどうだったかと考えると、僕にとっての教育とは、こういう側面もあったのではないか?という分析です。


というわけで、社会的な話題から一転、教育について、いくつか考えていることを書きたいと思っています。が、とりあえず今回はここまで。




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