僕がなかなか死なない理由(わけ)


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いやあ、最近こういうところを読んだりしているわけですが、本当に自分が好きであるのかを常に試そうとするという心理状態には非常に身に覚えがあるんで、ちょっと愕然としています。
といっても、惚れたはれたじゃないところがまたあれなんですが。
一応自分なりの言葉で転載。

人は常に自分に劣等感を持っており、こんな自分をパートナーに選ぶなんておかしいと思っている。が、同時に自分を選んでもらいたいと強く思っている。故に、パートナーに試練を与える。本当に私を好きなら乗り越えられるはずよ。そう言って次々にハードルを用意する。そして、それを乗り越えるパートナーの姿に自分に対する劣等感のカタルシス(この場合単に解放という意味で使いました)を感じる。さらなるカタルシスのために、もっと高いハードルを用意する。きりがない。いずれ愛をもってしても跳べないぐらいハードルが高くなり、破局となる。


自分に自信がないといえばとても自信ないなあ。普通である自信がない。人よりすごいところはたくさんあると思っている。自慢じゃないけど。バカみたいと思うかもしれないが「数字」を競うことに関しては、大体平均点以上を取ってきたと思う。まあ、とにかく頑張ってきた。分かりやすい「普通」。でもそのせいなのかどうか、それ以上に大切なところで人より劣っているところもたくさんある。
いや、そういう言い方じゃないな。

ぶっちゃけた話、僕は周りの人間について行けてない。そういう意味で「普通」じゃない。遅れているのか進んでいるのか、とにかく合わせられてない。これでいいと自信満々でとった行動が人とはずれているということが結構ある。そして、それをカモフラージュするために(誰に?自分に)意図的に人とはずれた行動をとってきたように思う。

自分は人に合わせられないという劣等感。
当然のように音楽の趣味が合い、当然のように同じ様なおしゃれに共感し、当然のように互いを「いけてる」と評価し合う。自分以外の人間が喋ったことはすべて「受けて」僕の言葉には「寒い」という評価を下される。僕の行動は「いけてない」らしい。それはもはや、行動する前から分かっている。
これは皮肉を書いているのではなく、劣等感を持つ自分の目から見た周囲の歪んだ風景描写と思ってもらえればいいと思う。
実際、水面下ではいろいろ駆け引きをし、ひっついたり離れたり様々な思惑に辟易としながら頑張っているのだろうが(これも皮肉ではない)、僕の目からはなんの努力もなしに、ごく自然に集まれているように見え、そして自分だけがそれを自然に振る舞えず、そのことに多大なる努力を支払い、なお思うようにいかずに打ちひしがれ、何で俺だけ……というような「ひがみ」そして「劣等感」さらに「人間関係に無気力」になってしまったのだろう。


話は変わるが、僕には恋愛経験というのがあまりないので、共感したのは友情のことなんだけれども、つまり「友」とか「仲間」とかが出来たとき、僕は常にその相手との友情を試してきたんだと思う。思い当たる節がいくつもある。それは本当に意味のない行動で、きっと僕の真意(論理的行動理由)がつかめずに、そして離れていった。そして僕はさらに劣等感を強める。その強い劣等感を癒すためだけに用意される意味のない高いハードル。
悪循環。



友とは何のために作られるのだろうか。
変な言い方をすれば「生存」のためだと思う。恋人が「生殖」のためだとすれば、友は自己の生存のために作られるはずだ。つまり、僕は友を必要として力むあまりこのような結果になったのだとすれば、僕は人一倍「生存欲求」が強いはずだ。
死に至る病の一つとしてしばしばあげられる「孤独」。
誰にも認知されなければ、それはいないのと同じ事。タンスの後ろに落ちてしまったボタンは、もはや無くした(亡くした)のと同義だし、コペルニクスが認知するまでは地動説なんて存在しない。例えその昔から地球の方が動いていたとしても。認知は生に繋がり、生に繋がる認知のために、あるいはもっと、生存の道具として友を求める。

生存欲がないから、誰からも認知されなくてもいい一匹狼と、生存欲が強すぎてぎくしゃくして、結果として一匹狼の2種類がある。

だからタイトルの「僕が死なない理由」というのはそこにある。僕はきっと、どんなにダメージを受けても死なない。何度も死を考えたが、そのたびに実行に移さずにきた。その理由は、この種の生存欲が強すぎるからなんだろう。生存欲求、生きている証のために死をも考える、それほどまでに愚かしく強い生。まずはこのぎらぎらした生存欲(認知欲求)を何とか「普通」レベルにしないといけない。



僕は何度か、静岡に来た理由を香川県からの「脱出」と書いてきたが、この種の劣等感は僕の内的要因だけでは決まらない。と書くといいわけがましいだろうか。
つまり自己の性格形成において他者の自分を見る目というのはそれなりに大きな影響力を持つ。その他者の自分を見る目というのは自己の性格からきているので、まあいわばフィードバック(再帰による強化)がかかっている状態なわけだが、そのフィードバックをリセットしたかったというのが大きい。
しかし、環境はリセットできても、自分は変わらないので、結局同じ事を繰り返すことも多いんだけれども、静岡がそれなりに居心地が良かったのは、肝心なところのリセットは何とか上手くいったから、なんだと思う。つまり、この劣等感に関しては、かなり上手くリセットできたと思う。

香川の知り合いが読んでるとあれなので言い訳をしておくと、別に彼らが僕を劣等的に見ていたというわけではなく、むしろ、そういう悪循環の積み重ねの経験から、僕が勝手に彼らの視線から劣等感を感じていただけで、その僕が勝手に感じていた部分をリセットしたかったということに過ぎない。



静岡に来る(環境をリセットする)ことによって、外的要因での劣等感というのはなくなった。
実際、最初の一年はかなり上手くやれてたと思う。しかし、一年しか保たなかった。じわじわと内的要因が効いてきたからだ。生存欲による仲間に対する過度のハードル設定が一年を境に顕著に見られるようになった。うまく回らなくなり、そして、僕はまた、勝手に疎外感を感じ、勝手に劣等感を感じるようになった。

何がいけなかったのか。
僕は香川にいた頃、ここを脱出して知り合いの1人もいないところに行けば、この状態から変われると思っていた。しかし、一年をかけて同じ失敗をまたした。愚かである。その四年後にやっと気が付いた。まだきっと気が付いてないことがあるんだろう。

気づいたからといってどうなるものでもない。
あるいは、5年前、すべての環境のせいにして逃げ出したように、また、新しい理由を見つけただけかもしれない。もう少し考え続ける必要がある。



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