役者の仕事
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役者とは何をするモノなのか。
例えば、原始人が巨大なマンモスと戦って勝利を収め、その肉を食べる宴の席で、いかにしてマンモスをしとめたかを、話し始めたとする。(はじめ人間ギャオスのようだ)やがて話は白熱し、身振り手振り、最後には立ち上がって実際を演じ始めるだろう。演技は、情報を伝える手段として発生した。そして、演劇とは、そんな時代から連綿と行われ続けたものである。
僕も芝居をやっている人間として、芝居を過小評価するつもりはないけど、きわめて原始的な手段だと思う。動きのある表現として、芝居→映像→アニメーション(CG)と発達していっていると思うんだけど、アニメーション(CG)となると、もはや表現できないことはない。想像できることは、全て表現できる。一方芝居は、表現空間が板の上という二次元に限定されるし、舞台上に上げられないモノは、直接表現することが出来ない。
例えば夕日。
芝居ではライティングで擬似的に表現するしかない。映画では、夕日の綺麗なところに行って撮ってくることが出来る。アニメーション(CG)では、演出意図に沿った夕日を描くことで容易に出現させることが出来る。この差は、もはや埋められるモノではない。
そもそも、関わるスタッフ、資金の量が圧倒的に違う。1人の表現者がカバーする範囲の大きさがまったく違う。第三舞台の鴻上さんが、テレビドラマは新人でも出来るけど、舞台は早くて3年、普通5年はかかると言っていた。テレビドラマなら、下手でもごまかしがきく。テレビの役者は、キモの演技だけしてればいい。そして何回でもやり直せる。
人がたくさん関わるということは、それだけ自分の仕事が集中して専門化するということだ。役者は瞬間の演技だけを考えてればいい。アップなら、顔だけに集中できるということだし、会話でも相手役が映っているときは、受け答えの演技はおざなりにしてセリフを喋ることに集中すればいい。映画でも、全てアフレコという人がいる。映像を撮るときは、演技に集中。セリフはあとでゆっくりスタジオで集中して録る。
それが舞台では、全て同時にやらなくてはならないし、常に全身を集中させておかなくてはいけない。舞台に立っている以上、誰が見ているか分からない。役者1人にかかる負担が大きい。原始的。家内制手工業。最初に書いた、芝居をやるのに必要最低限は?という質問の説明で、必要最低限から仕事を奪うかたちで、各スタッフが専門化し、ある仕事に集中できるようになってきた。そういう流れというのは、あると思う。
最初にあげた鴻上さんの言葉を認めるかどうかは、あえて議論しないけど、まあ認めるとすれば、大学は四年間なので、多くの人が、役者になる前に役者をやめてしまうのだと思う。僕は、そのことをいいとか悪いとか思わない。むしろ、5年たってやっと役者としてやっていけるような原始的なシステムである芝居というものが悪いのであって、また、どうせモノにするつもりがないなら、初めからやるな、などということも言うつもりもない。
ただ、自分がどういう流れのどういう位置にいるのか、そのことを押さえておくことで、結果は同じでも、やることは同じでも、見え方や捉え方は大きく変わってくるのではないかと思う。
例えば、映画にあって芝居にないもの。カメラワーク。その仕事はやはり役者に任されている。ここはアップだと思ったら、観客の視線を自分の顔に集める努力をしなくてはならないし、ここは引いてパン(カメラをスライド移動させながら撮ること)だと思えば、舞台上を動いて観客の視線を分散させなくてはいけない。編集でつくられるリズム感も、局地的には役者が作り出さなくてはいけないし、全体のリズム感を握っているのは、演出の采配であり、台本書きの技量だろう。
映画やテレビドラマを手本にしろといっているわけではない。しかしテレビ俳優と舞台役者の間を隔てる5年間の歳月とは何か。それがつまり、「カメラワーク」と「編集」だと思うわけです。
以上、役者として、一度は考えた方がいいと思うことを散発的に書きました。
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