形態模写
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さて、僕は役者を1年やっただけなので、役者のことを書くのははばかられるのだけれど、まあ気にせず書いてみたいと思う。
僕は、役者の仕事というのを「形態模写」だと思う。
観察して、真似する。
極端な例として犬をやってといわれると、まあ四つ足になってワンワンやったりするわけで、じいさんだと腰をかがめて、しゃがれた声を出したり、かんしゃくを起こしたり。
でも、ちょっと考えてほしい。その動きのソースはどこなのか。案外、昔みた芝居の○○さんの演技とか、テレビの物真似の物真似であったりとか、実物以外の「観察の観察」から作られたりしてなだろうか。身近な話では、ニワトリの真似というと「コケコッコ−」と叫んでしまいがちだが、英語では「クックドゥードゥ」みたいになるらしい。同じニワトリに鳴き声なのに。
そういう先入観が、正確な模写(演技)をゆがめている。のかもしれない。
だから実物に帰るべきだという話をしたいわけではない。
確かに、じいさんといっても色々で、背筋がしゃんとしているじいさんだって、かんしゃくを起こさないじいさんだっている。じいさんはこうだという先入観は、演技をする上で好ましいモノではない。しかし、多少ニワトリに見えなくても、「コケコッコー」といってしまえば、日本人はニワトリと認識してくれるのもまた、事実だ。背中を曲げて杖をつけば、どんなに理屈をこねても、それはじいさん(ばあさん)にしか見えない。
美術の時間にデッサンを習ったとき、先入観をなくして輪郭を描くように指導されたんだけど、実際、先入観をなくすことは出来ない。どんなに頑張っても、リンゴはリンゴだし、ワインボトルはワインボトルだ。そのことを否定すると、ピカソのような何を描いているのか良く分からない作品になってしまう。
見るモノに読み取る努力を強いる。ピカソのようにその先に何か発見を用意できるのなら、その道もありだと思うけど、少なくとも芝居の世界では、役者は客に何をやっているかを確実に理解させることが期待されているのは間違いない。それは芝居が他のメディアに比べて「一見して何をやっているのか分かりにくい表現」だからしょうがない。芝居は表現の幅が狭い。
だからといって、いったい何百年前になされた観察なのかすら良く分からないような固定観念を、旧態依然として使い続けるのも、どうかと思う。
印象派という、画家に与えられた印象を忠実に描き、初めて光線を表現した画流がある。それまで光線というのは目に見えるけど実際にないモノで、それは描かないものという固定観念があり、そこで、実物にかえり、実体はなくても(ちょうど光子の存在が議論されていた時期だと思う)見えるんだから描くべきだとしたわけだ。
たぶんこの認識で正しいと思うけど、僕は絵画に詳しいわけではないのであまり信用しないように。
そろそろまとめ。
役者には、そこで何をやっているのかを観客に理解させる役目があり、そのためには通常ではあり得ない行動を取ったり、少なくとも、分かりやすくオーバーに演技する義務がある。それは「現実」ではなく、あくまで「表現」であるためにしかたのないことだ。
しかし、コピーにコピーを繰り返してきた今の表現手段を、無意識に受け入れているようでいいのかなということ。あくまで、模倣するのは「現実」だと思う。伝統芸能のようなモノには、それはそれで味はあるけど、リアルだとは思えないでしょ。やっぱり。
コピーはマスターからとりましょう。なるべくならね。
★★ スペースが余ったので、余計な一言 ★★
1万円出して劇団四季を観るより、500円出して学生がやってるのを観る方がコストパフォーマンスがいいよなって言われたらどうします?
納得します?同意します?誇ります?怒ります?悲します?失望します?傷つきます?
心で泣いて顔で笑います?絶交します?友好を深めます?変わらない態度で接します?
まあ人それぞれ、いろんな反応があると思います。
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